日本の「安心」はなぜ、消えたのか 社会心理学から見た現代日本の問題点 | |
山岸 俊男 | |
集英社インターナショナル |
2008年2月29日第1刷。2009年2月11日第4刷
著者は社会心理学者。1948年名古屋市生まれ。一橋大学社会学部卒。同大学院を経て80年ワシントン大学哲学博士。北大助教授、ワシントン大学助教授、北大大学院文学研究科教授。
地震の前日3月10日に息子が成田空港からアメリカのカンザス州へ向けて飛び立った。1日違いで成田で立ち往生するタイミングだった。シカゴのオヘア空港経由で片道14時間の行程。先日、行きと逆の行程をたどって成田空港に帰国。計画停電の中の東京を通過して神戸に帰ってきた。旅だつまでは全く考えもしなかったことだが、帰国する日本が今は大混乱していて、アメリカにそのままいた方が安全ではないのかなどと思ったりもした。
アメリカでは、そのほとんどをアメリカで最も田舎といわれているカンザスという場所で過ごしてきたこともあり、アメリカ人の素朴さとフレンドリーさ、優しさを感じた旅だったようだ。アメリカへ到着した翌日の一日だけ、親戚の伝手で地元の大学へ行き授業に参加。学生達は学期の試験が修了した後ということもあり、突然の異邦人を快く向かえその後は遊び仲間になってくれたようだ。
地元の大学での遊び仲間は日本語クラスの学生達で、この秋には提携している関東にある某私大へ交換留学生として来日する予定だったそうだが、今回の震災の影響でそのプログラム自体が中止となり、来日の予定は無くなったとのこと。彼らは地震後にすぐ義捐金の募金活動を大学校内で行ってくれたそうで、感謝である。息子から日本に届いたメールは、「想い出はプライスレス」だったことを思うと、観光地をめぐるより彼らの中で過ごすことがいかに楽しかったことかがうかがえた。
息子は初めての海外旅行で一人旅。英語の成績はからっきし。つたない英語を駆使しての苦労の旅程・・・きっと帰国したときはアメリカ嫌いになっているはずであった。結果は真逆。つたない語力なのだが、案外うまく行くものである。屈託無く仲間に入ろうとした本人の態度もあろうが、根本的にはアメリカという国が、それがカンザスという保守的な州の一田舎都市であってもさへ、開放的な社会でありそこに住む人々の見知らぬ人と接するときの間合い、尺度というものが確立されていて絶妙なのだと思う。
この本を読んだのは昨年2010年の夏。なんとなく漠然としていた私の思いを適格に表している本で面白く読んだ。そして今回アメリカから短い旅行を経て帰国した息子の話を、いや実際はメールやスカイプや電話で、ほとんどタイムラグなく状況を共有していたのだが、その体験を聞いて思いを新たにした。
我々日本人のほとんどは日本人は集団主義者だと思っていて、その集団主義的な動きが良くも悪くも発揮されると思っている。しかし、日本人の正体は個人主義。自分以外は全て集団主義者だと思っている。私自自身そうだ。集団主義社会とは本来、信頼をあまり必要としない社会である。集団主義のメリットは安心を保証すること。そういう村であったり町であったり社会の中では人を信頼する必要はない。その社会の中にいること自体で安心が保証されているのだから。逆にその外にいるものは得たいの知れないものであり、排除とはいわないまでもどう接して良いのか分からないものになる。人を見たら泥棒と思えは日本人が強く思っていることなのだ。
アメリカはというと開放型社会。そこには安心のメカニズムは存在しない。アメリカという国がやっと成立した頃の話だが、一つの作業を集団で行う時、現場監督は同一の民族だけでその集団が構成されないように気を配ったとか。あえて対立させて均衡を保つ。契約で社会が成り立つ。そんな生い立ちを持つ国だから積極的に人を信頼する心がないと生活は送れない。高信頼社会で生活するアメリカ人は、日本のような低信頼社会より相手の出方を正確に予測していて、シビアな観察者でフレンドリーであるが楽観視はしていないのだ。
著者は日本もそういう社会になるべきだと解く。そろそろそうなるべきだと私も考える。日本人が日本という社会の中でだけで暮らしていける安心社会はもう無くなった。元には戻れない。安心保証メカニズムが日本から失われている。だが新たな信頼関係を構築することに成功していない。手本は外にある。それは日本が属するアジアではない。アメリカにある。しかし、西欧に属するアメリカがその成り立ちから今まで経験してきたことを一気に日本がたどることはできない。少しずつそういう方向に日本人を向けなければならない。そう思う人を増やさなければならない。大半の人々がそう思い行動するようになり臨界質量に達した時、それは実現に向かう。
以下、メモ。
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P23 タブラ・ラサ(白板)の神話 教育で心は変えられない
P44 日本人らしさ 保守、改革派両方とも日本文化や日本人らしい心というものに問題点を見ているということで共通している
P47 日本人は会社人間ではない 日本人らしさは一時代だけの生き抜くための戦略
P52 自己高揚傾向が世界では一般的なのに日本人には少ない。自己卑下傾向の方が強い。東アジア全体に広がる。善の意識が違うからか、それとも世渡りの方便か
P64 相互協調的自己観 日本人、東アジア人に強い。ようするに横並びが好き。だが、これは他者を意識した場合に限られるようだ。実際、条件を同じにすれば日本人もアメリカ人も変わらない
P73 日本人は自分の選択結果が他者に影響を与えるという意識。アメリカ人は自分の選択は他者に影響を与えないという意識で行動している
P76 日本人は世間の人は多数派を選ぶ人を好むのだろうという思いこみがある
P77 日本人の正体は個人主義。自分以外は全て集団主義者だと思っている
P81 帰属の基本的エラー 他人がしてくれた事で自分に都合が良いことだった場合、相手の人は自分に対して良い人だと思ってしまう
P84 みな個人主義 他人が見ていると集団主義的にふるまっているので、自分以外は集団主義に見える
P93 他人を信頼するアメリカ人、信頼しない日本人。アメリカ人の方が日本人よりはるかに共同作業を好む
P96 人を見たら泥棒と思えは日本人が強く思っている
P100 集団主義社会とは本来、信頼をあまり必要としない社会である。共同体、運命共同体、このような集団でお互いに協力し合うのも、犯罪がすくないのも、そうした方が生き抜くために得だから。信頼とかはまったく不用な社会だった
P108 信頼する心がないと都会生活は送れない
P110 日本人の協調は身内に対して発揮された
P112 集団主義のメリット 戦後日本の復興の原動力は安心。安心を保証する集団主義
P113 アメリカは開放型社会 安心のメカニズムは存在しない。契約社会
P115 安心社会の終わり。閉鎖的な集団主義の終わり。そういう環境へすみやかに対処できない。順応できない
P119 安心保証メカニズムが日本から失われている。信頼関係を構築することに成功していない
P124 日本人は何故他人を信用しないのか それは長い間、日本の社会は正直者で約束を守るという美徳を必要としない社会であったから。であるからこそ日本人は他者を容易に信じない。安心社会では正直である必要はなかった。それを気にする必要がなかったから意識してこなかった
P137 一人一人の日本人が他者を信じる心を身につけるべき。しかし、経験して損害を受けることを繰り返していては、そういう心が身につくはずもない
P138 信頼社会 信頼社会に暮らすうえで他人を信頼する方が得をするのではないか?という仮説
P140 囚人のジレンマ 協力すれば得をするが、協力できなかったら損をする関係
P150 高信頼社会の方が低信頼社会より相手の出方を正確に予測していた。高信頼者はシビアな観察者で楽観視はしていない
P159 高信頼者ポジティブなスパイラル現象。低信頼者はネガティブなスパイラル
P173 若者たちが信頼者会への変化を嫌い、身の回りにある友人関係という小さな安心社会にしがみつき、その中での平安を求めているとしたら、日本の将来にとってもまた若者たち自身の未来にとっても由々しいことと言わざるを得ない
P176 社会的ジレンマ 協力しあえば全員が得をする状況が生まれるのに、他人を信じられないために、みんなが結局、非協力行動をしてしまうので全員が損をする状況が生まれること
P178 モラル教育は利己主義者の楽園をつくる 利己主義者の都合にふりまわされる社会になる
P180 アメとムチは巨大なコスト
P188 臨界質量
P208 人々がお互いに信頼できるような臨界質量を達成する。正直者が得をする社会にする
P220 なぜ信頼者会は西欧だけで達成したのか。法制度の違い。ローマ法には民法があった(万民法)。中国の法は統治の道具でしかなかった
P230 評判
P242 統治の倫理=武士道(安心社会) 市場の倫理=商人道(信頼社会)
P248 規制緩和、市場の開放、情報公開、法令の遵守→安心社会から信頼社会、統治から市場へ
P251 武士から商人へ 商人道(日本には歴史がある)
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(2010年8月 西図書館)