先日の4月17日、岡山に帰省したおり備中松山城を訪れた。14時に実家を出て17時に帰宅という強行軍。本当は午前中に出るつもりだった。息子が布団の中から出てこなかったためこんな中途半端な時間になってしまった。道路が整備されると便利になるものだと思うが、この実家から高梁・新見を結ぶ整備された道路も、かつては新見荘と奈良を結ぶ道の一部として1000年前から続いている由緒正しい道なのだ。であるから歴史に興味があればの話であるが、周辺には見るべき所も多く、もう少し時間があればもっと色々回ることができたのにと残念に思った。息子とは15年ほど前にもここに来たことがある。当時5歳だった息子は20歳になった。時が過ぎるのは速いものだ。
さて旭川支流の宇甘川にそって西へ車を走らせ旧賀陽町へ。東の旭川と西の高梁川の分水嶺はこのあたり。周りは視界が開け平坦でゆるやかな盆地上の土地になる。高原状の土地の上に上がってしまっているから、その視界の広さに驚く。直線で数キロ四方は見えるのだが、ゆるやかな盆地状の地形だから点在する家々がどんなに遠くても視界の中にある。これが完全に平坦な土地だとこうはいかない。ここから北へ向かうと有漢。このまま西へ向かうと道は急な谷に沿って下り高梁川へ着く。
備中松山城の歴史は古く城主は秋庭氏、高橋氏、高氏、秋庭氏、上野氏、庄氏、三村氏、小堀氏、池田氏、水野氏、水谷氏、浅野氏、安藤氏、石川氏、板倉氏と城主が変わる。初代が秋庭氏になるが、相模の国から入国した際は、今の城がある地から東に行った有漢という場所に館を築いたようだ。
初代の秋庭氏がこの地に守護職として入国した有漢の地は、高梁川の支流である有漢川に沿って東へ数キロ入った吉備高原と呼ばれる山の中になる。この地の歴史は古く「有漢」の名は「和名抄」に有漢郷の地名で残されている。当時の備中国賀夜郡有漢郷。「賀夜」は「賀陽」の文字で今に残っている。先ほど旧賀陽町のあたりを「東の旭川と西の高梁川の分水嶺」と書いたが、有漢は北の落合、西の高梁川、北西の新見へと備前、備中、美作への接点となる土地だったことになる。
秋庭氏が相模国からこの地に入った当時の館跡は、岡山県高梁市有漢町有漢字土居に石垣として今でも残っている。石垣の構成は三段。畑と宅地として利用されているが、当時の土地利用の痕跡を見ることはできる。
今回はこの館跡は時間が無くパス。石垣の写真は拝借モノである。この石垣の上にどのような館が建っていたのか想像できない自分が残念である。
実家から40分ほどで高梁市街に到着。このあたりの道は40km走行しても信号がほとんど無いのが嬉しい。高梁市の狭い市街地の道を抜けさらに狭い山道へ。昔はこのまま城の近くまで車で上がれたのだが、駐車場が狭いこともあっって土用日曜祝日は途中の駐車場でバスに乗りかえて行く。往復300円/大人。上の駐車場で下車し登城することになるが、さらに山道を徒歩で400m登山する。
400m登るとこの石垣が見えてくる。壮観である。
この石垣の上の風景が下の写真になる。カメラを構えている中央の人物が息子。息子が写真を撮ろうとしている風景は下の写真の景色。城から南東の風景になる。山桜が山々に点在していて綺麗な風景なのだが、写真の画質が悪く良くわからないのが残念。
さて天守である。手前の二つの櫓は復元。天守閣は元のものが現存。天守閣は見ようによっては三層に見えるが二層。小粒でカチッとまとまった姿が良い。戦国時代の山城はこれでも派手な方だろう。天守閣には入ることができる。入っても何かがあるわけでもない。ただの板の間である。一層目には大きな石の囲炉裏が切ってあるくらいか。
天守から見た西の風景。高梁川の深い渓谷を挟んで向こう側の風景である。写真では分かりづらいが山頂付近には村落があり、ずっと向こうまで点々と続いている。
この城には天守閣以外にも櫓が一つ現存している。二重櫓。天守閣の東側、狭い尾根に沿ってすぐそばに建つ。この尾根にそってもっと古い時代の城の遺構が続くが、時間が無かったので今回はここまで。
秋庭氏以降の話。関東から入国した秋庭氏は有漢からこの地に移り、仁治元年(延応二年=一二四〇)備中松山城を築き備中中部を支配する。松山城は高橋氏(備中守護職。高梁城から松山城に改称1331-)、高氏(備中守護職1355-)、秋庭氏(主君、師秀を徳倉城に追放1362-)、上野氏(備中守護代1509-)、庄氏(上野氏を滅ぼし大松山城、小松山城を築く1533-)、三村氏(庄氏を滅ぼし成羽鶴首城より入城1571-)、(備中兵乱1575-豊臣秀吉が全国を統一1590)、小堀氏(関ヶ原の合戦後、徳川家の代官として入城1600-)、池田氏(松山藩。因幡鳥取より入封1617-)、水野氏(備後福山藩の預かり1641-)、水谷氏(松山藩。成羽より入封1642-)、浅野氏(水谷氏が無嗣除封となり播磨赤穂藩預かり。大石内蔵助が城番として常駐。1694-)、安藤氏(松山藩。上野高崎から入封1695-)、石川氏(松山藩。山城淀から入封1711-)、板倉氏(松山藩。伊勢亀山から入封1744-)と城主が変わった後、明治を向かえ廃城となる。
2004年10月1日に有漢は高梁市に編入された。