【コラム】韓国料理のグローバル化は修行から(上) 「それも食べるんですか」。「見事な」千切りの大根を前に、わたしは尋ねた。「どうして? 韓国では食べないの?」。そう日本人に言われると、顔が真っ赤になった。日本に赴任した直後の出来事だ。日本では刺し身の下に敷かれる千切りの大根を「白髪大根」と呼ぶ。スーパーのお刺し身コーナーでは、立派な食品として百数十円で売られている。 以前、韓国ではきちんとした刺し身専門店でも千切りの大根は食べなかった。一日中、使い回しされ、このテーブルに回ってきたのだろうと思われたからだ。日本で「それも食べるんですか」と聞いたのは、韓国で植え付けられたこうした先入観のせいだ。 日本では白髪大根や大葉など「つま」と呼ばれる付け合わせは、飾りであると同時に、刺し身を補う食品だ。ただ、信じられないから食べないだけで、もともと韓国でも食べる物だったのだろう。 生の魚を切る作業を、日本では「捌(さば)く」という。漢字は違うが、人が人を裁断するという意味の「裁(さば)く」と発音が同じだ。生ものを取り扱うときはそれほど慎重に、真心を込めなければならないという社会的な認識が反映されているのだろう。 世界的なレストラン格付け本「ミシュランガイド」が最高の星三つをつけた東京のすし店は3店。この3店がいずれも祝祭日に営業しないのは偶然ではない。プライドが高くて威張っているわけでもない。 3店のあるじの日常は、明け方の築地市場から始まる。東京の水産物卸売市場だ。ここで当日売れるだけの魚を仕入れる。築地市場は祝祭日に開かれない。だから仕方なく店も休むのだ。 【コラム】韓国料理のグローバル化は修行から(下) このうち、「すきやばし次郎」というすし店の高齢の主人は一年中、手袋をはめて外出することで有名だ。手の感覚を失わず、雑菌を板場に入れないための工夫だ。日本では、「一人前のすし職人になるには飯炊き3年、握り8年」という言葉がある。生ものをさばくのに必要な修行は、人間を裁くのに必要な修行と、その難しさにおいては差がないということだろう。 もちろん、日本では祝祭日に営業するすし店も多い。修行を始めて1年にもならないような駆け出しがすしを握る店も一つや二つではではない。機械が酢飯を握り、従業員がビニールの手袋をはめた手で解凍した魚をパッパッと載せる姿も見られる。どれも職人の世界とは懸け離れている風景だが、千切り大根の1本、大葉の1枚も汚いのではないかと恐ろしくて食べられないケースは見たことも、聞いたこともない。 日本食は「グローバル化に成功した」と評価されている。中でも最もグローバルになったのが「sashimi(刺し身)」と「sushi(すし)」だとすれば、少し味気ない。刺し身もすしも料理だろうか。火を通していない生ものなのに…。こんな疑問には、次のような答えがある。修行を積んできた腕のいい職人の手により、清潔なまな板の上で丹念にさばかれ、見事な皿の上にシャキッとした白髪大根と共に盛りつけられ、完成するという全過程が評価を受けたのだと。「食文化」という総体的な過程だ。 大膓菌の千切り大根にリサイクルの刺し身? 韓国で依然として耳にする話を聞くとガッカリする。「先進国に比べると、まだ国民所得が低いから」という言い訳は、日本から見れば大うそだ。 「韓国料理のグローバル化? 笑わせないで修行でもしろ!」。身をささげながら、傷んだ千切り大根と共に冒瀆(ぼうとく)される魚は、韓国の食卓でいつもそう叫んでいるのかもしれない。 東京=鮮于鉦(ソンウ・ジョン)特派員 http://www.chosunonline.com/news/20091127000045 http://www.chosunonline.com/news/20091127000046 |
うむ、スッキリしすぎてコメントできないw