没後50年記念 川端龍子
―超ド級の日本画―
2017年6月24日~8月20日
山種美術館
後期入りを待って、川端龍子「会場芸術」を見に行く。
「龍子とジャーナリズム」のコーナーの作品を興味深く見る。
《香炉峰》
昭和14年、大田区立龍子記念館
縦2.5m×横7.3mの大画面。その大画面でも収まりきれない半透明の飛行機。飛行機から透けて見える中国の山。パイロットは龍子本人。目立つ日の丸。
連作「大陸策」の第3作。前年、海軍省嘱託画家として日中戦争下の中国を従軍。海軍偵察機に同乗した体験を基に描かれる。
「多くの日本画家が直接的な戦争表現を避けて、歴史画・花鳥画・仏画にことよせて戦争への参加をほのめかすなかにあって、龍子は早い時期から一貫して、戦争そのものの主題と渡り合う制作を繰り広げた。」(別冊太陽『画家と戦争』より)
東近美所蔵の米国無期限貸与の戦争記録画としては、《洛陽攻略》と《輸送船団海南島出発》の2点を数える。
また、国や軍による企画とは別に、「太平洋」「大陸策」「国に寄する」「南方篇」など独自の構想に基づく連作を制作し、青龍社展に出品している。
《爆弾散華》
昭和20年、大田区立龍子記念館
昭和20年8月13日、米軍機からの爆弾が龍子の自宅に落ちる。菜園の夏野菜が吹き飛ぶ。
一見、単に植物を描いただけのように思う作品の横には、参考情報として、「爆撃を受けた自邸の母屋」を撮った写真パネル、および龍子が描いた「爆撃被害の略図」のパネルが展示される。
「爆撃被害の略図」は、建物被害として、朱色の線の建物が損壊を、黒の線の建物が無事を示す。また、人的被害として、「自分はここにいて無事」「家族はここにいて無事」との説明が付される一方、「死者1名」の説明が2箇所。使用人の方などが亡くなったらしい。
《金閣炎上》
昭和25年、東京国立近代美術館
昭和25年7月2日、金閣炎上。翌日の新聞で現場写真を見た龍子は、焼失を惜しむと同時に、「金閣の炎上、これは絵に成る・・・と瞬時に画心が燃焼」し、2ヶ月後には完成、青龍社展で発表したという。
金閣の焼失と聞くと、その前年の昭和24年の法隆寺金堂壁画の焼失を想起する。終戦間もない頃の国宝中の国宝の2大焼失事件である。そして、その23年後の昭和47年の高松塚古墳壁画発見を想起する。山下裕二氏の著作『日本美術の20世紀』の影響である。
「高度成長期の終幕、1972年の日本の多くの「おとな」にとって、1949年の法隆寺焼失は、そう遠い昔の事件ではなかった。」「なにもかもが失われた時代の、「国宝」の焼失。翌1950年の金閣の焼失と合わせて、「戦後」を生きてきた「おとな」の脳裏には、象徴的な事件として記憶されていただろう。高松塚古墳壁面という「戦後最大の発見」には、当然、「戦後」が失ったものを埋めてくれるもの、という期待が込められたわけだ。」
壁画発見時の大過熱。戦中・戦後がまだ昔ではない時代だったのだ。
《百子図》
昭和24年、大田区立龍子記念館
第二次世界大戦後の昭和24年、「象を見たい」とインドに手紙を送った東京の子どもたち、その熱意が伝わり、インドから上野動物園に象「インディラ」が贈られた。そのことを記念して描かれた作品。
象はインドから芝浦港に到着し、そこから動物園まで歩いて移動した ー 深夜0時の出発、約9kmを2時間40分- という。
ネルー首相、ネルー首相の娘(後の首相)、吉田茂、飼育員の落合さん。ネットには「インディア」にまつわるいろいろなエピソードが書かれている。昭和58年死亡。
なお、日本最高齢記録を更新し昨年(平成28年)に死亡した井の頭公園の「はな子」も、同じ昭和24年にタイから贈られている。
一度見て印象に残っていた作品。見た場所を確認すると、同じ山種美術館であったようだ(2014年「kawaii日本美術」展)。
《龍巻》
昭和8年、大田区立龍子記念館
一見、単に海の中の生き物を描いているように思うが、実は、時局を反映した作品らしい。
連作「太平洋」の第一作で、日本領と米領の島が混在する波乱を象徴し、サメ、アカエイ、イカ、タチウオ、ムラサメモンガラ、クラゲ等を巻き込む様子を描く。龍巻で舞い上がる構図を、下図の段階で天地を逆にしたという。
後期の撮影可能作品
川端龍子
《八ツ橋》
昭和20年、山種美術館
戦争末期においても展覧会を開催し続け、相次ぐ空襲のなかでも、このような大作、尾形光琳《八橋図屛風》(メトロポリタン美術館)を強く意識した大作を制作し出品する龍子。
他の「会場芸術」作品も見てみたいなあ、と思わせる。そんな展覧会である。
なお、大田区立龍子記念館では、没後50年特別展が開催される予定である。
川端龍子没後50年特別展
龍子の生きざまを見よ!
2017年11月3日〜12月3日
大田区立龍子記念館
同館には行ったことがないので、これを機に初訪問しようかな。