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カラヴァッジョ《聖アンデレの殉教》の老女、ルネサンス・バロック絵画における甲状腺腫

2021年12月29日 | カラヴァッジョ
カラヴァッジョ
《聖アンデレの殉教》
1609〜10年頃、202.5×152.7cm
クリーヴランド美術館
 
 黄金伝説の逸話。ギリシャのパトラス市。アカイア州総督のアイゲアテスは、アンデレを十字架に縛りつける命を出す。アンデレは、言うべきことを言ったあと、自ら衣服をぬぎ、兵士たちに渡す。兵士たちはアンデレを十字架にかける。アンデレは十字架のうえで2日間生き、取り巻く2万人の民衆に教えを説く。民衆は、義人に酷い拷刑を加えた総督に対して怒りだす。アイゲアテスは民衆の怒りを恐れ、アンデレを十字架から降ろす命を出すが、アンデレは十字架上の死を願う。十字架から降ろそうした兵士たちは、たちまち腕が麻痺してしまう。アンデレは祈りの後、亡くなる。
 本作は、兵士の腕が麻痺し、アンデレが亡くなる瞬間を描いている。
 
 
 画面左下で聖人を見上げる老婆は喉がふくらんでおり、ヨウ素不足により甲状腺腫になった民衆の姿を写している。
 ただし、甲状腺のはれた老婆は、当時ナポリの市井で多く見られたであろうが、これを表現した作例はなかった。
 むしろ、ブレーシャなどロンバルディアの16世紀の絵画に散見するモチーフであり、カラヴァッジョの師ペテルツァーノのガレニャーノ修道院壁画《羊飼いの礼拝》にも登場したものである。
 カラヴァッジョは、最晩年にいたって自分の原点であるロンバルディアの伝統を回想したのだろうか。
宮下規久朗『カラヴァッジョへの旅』角川選書、2007年刊
 
 
ペテルツァーノ(1535〜99)
ガレニャーノ修道院壁画
《羊飼いの礼拝》部分
 
 
 
 カラヴァッジョは似た老女を別の作品にも登場させたことがあるようだ。
 
カラヴァッジョ?
《ホロフェルネスの首を斬るユディト》
1606〜07年、144x173.5cm
個人蔵
 
 
 2014年に南仏・トゥールーズの民家の屋根裏部屋で発見され、真贋論争となり、2019年6月にトゥールーズのオークションにかけられる予定も、競売日の2日前に米国の個人に売却された作品である。その個人はメトロポリタン美術館に近い人物であるらしいので、いずれメトロポリタン美術館においてカラヴァッジョ作品として公開されることがあるかもしれない。
 
 
 
 ヨウ素不足による甲状腺腫は、かつて、ヨーロッパの人々に一般的に見られたという。
 栄養素が要因であるので、裕福な人々よりも、貧しい人々に多く見られた。
 また、地理的には、海に近い地域の人々よりも、山岳地域の人々に多く見られた。
 例えば、スイス・ベルンのルネサンスから20世紀までの肖像画を見ると、女性像の41%以上、男性像の24%が甲状腺腫を持っているという。
 また、イタリアのルネサンス・バロック絵画を見ると、フィレンツェではよく見られる一方で、ヴェネツィアではあまり見られないという。
 
 そんな甲状腺腫を画家はなぜ描きこむのか。
 
 一つは、特段の意図はない。
 モデルが甲状腺腫を持っていたからそのとおりに描いたというもの。
 加えて、若い女性の小さな甲状腺腫はむしろ魅力を引き立てる装飾品のようなものと見做されていた可能性もあるらしい。
 
 もう一つは、特定の属性を表現する意図。
 例えば、その人物は貧困にあるということ。
 例えば、その人物は特定の地域(山岳地域)の出身であるということ。
 例えば、その人物は悪意に満ちているということ。
 
 
 以下、甲状腺腫を持つ人物像の例。
 
 
ロヒール・ファン・デル・ウェイデン(1399〜1464)
《十字架降下》
1443年以前、204.5×261.5cm
プラド美術館
 
 
 
マンテーニャ(1431〜1506)
《聖母と眠る幼児キリスト》
1455-60年、48.4×32.2cm
ベルリン美術館
 
 
チーマ・ダ・コネリアーノ(1459頃〜1517頃)
《聖母子》
1505年頃、53.5×43.8cm
ロンドン・ナショナル・ギャラリー
 
 
アルテミジア・ジェンティレスキ(1593〜1653)
《ユディトとその侍女》
1618-19年、114×93.5cm
ピッテイ美術館
 
 
 
ピエロ・デッラ・フランチェスカ(1412頃〜92)
《ミゼルコルディア祭壇画》部分
1460-62年頃(主要部分)、273×323cm
サンセポルクロ市立美術館
 
 
ピエロ・デッラ・フランチェスカ(1412頃〜92)
《キリストの復活》部分
1458年あるいは60年代初め、225×200cm
サンセポルクロ市立美術館
 
 
ハンス・ハーブスト(1470〜1552)
ハンス・ホルバイン(子)(1497/98〜1543)
《キリストの鞭打ち》
138×115cm
バーゼル美術館
 
 
 
 
 ところで、カラヴァッジョは、何故、発達した甲状腺腫を持つ老女を描いたのだろうか。
 持たない老女ではなく持つ老女を2万人の民衆の代表とすることで、殉教シーンの劇的効果が増すことを期待したのだろうか。
 聖人を見上げる老女の眼差しが、実に印象的である。
 この老女像のためだけでも、是非実見したい作品。


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