聖徳太子1400年遠忌記念 特別展
聖徳太子と法隆寺
2021年7月13日〜9月5日
東京国立博物館
聖徳太子像の持つ笏に、ちょうどマスク姿の女性が重なって、まるで像内納入品のよう(高さが足りないけど)。
法隆寺。金堂や五重塔のある西院伽藍。名宝を安置する大宝蔵院。夢殿のある東院伽藍。加えて国宝菩薩半跏像を本尊とする東院伽藍隣の中宮寺。仏像のアミューズメントパークのような感じで、ワクワク感がある。
昨年春の東博「法隆寺金堂壁画と百済観音」展は、最初の臨時休館と重なったため、設営を完了させながらも開催中止となった。本展は、先の巡回地・奈良博を何とか完走し、東京都4回目の緊急事態宣言下、予定どおり開幕。ありがたいことである。展示室入室時、現地でのワクワク感が少し蘇る。
一番のお目当ては、2018年の奈良博の展覧会以来3年ぶり2度目の鑑賞となる、国宝《天寿国繍帳》飛鳥時代・622年頃、中宮寺。前期展示。
特別扱いされているものとばかり思っていたが、第一会場Bコーナー「法隆寺の再建」の壁面ケースの隅っこのほうに、通常扱いで、解説の量も内容も物足りない。3年前の展覧会では主役の1人で、会場内解説がこれでもかとあったのとは大違い。本展は総じて会場内解説が少ない感。音声ガイドに委ねたのか、密対策なのか。それでも、本品は第一会場で1・2を争う人気度である。
隣に展示される断片3点。1点は飛鳥時代の本品の断片で、もう2点が鎌倉時代の模作の断片。模作は、劣化著しい本品の姿を将来に残したいと制作されたらしいが、その模作も今は完全に断片化。飛鳥時代の原本と鎌倉時代の模本を貼り交ぜたという本品もそうだが、断片を見ても、色彩の鮮やかさも刺繍技術も飛鳥時代のほうが優秀、飛鳥時代凄い。
第一会場には、もう一つのお目当て、Cコーナー「聖徳太子と仏の姿」展示の、国宝《聖徳太子および侍者像》平安時代・1121年、法隆寺、も。
聖霊院に安置され、年1回3月22日のみ開扉される秘仏で、27年ぶりの寺外公開(その時も奈良博と東博の展覧会だったらしい)。
聖徳太子像が厳しい表情であるのに対し、侍者4体(山背大兄王、殖栗王、卒末呂王、恵慈法師)はユーモラスなのが印象的。一部残る発色が渋く、当初のものなのか衣装の柄も見える。聖徳太子像の像内納入品が解説パネルで紹介される。像内には観音菩薩立像が納入されていて、ちょうど口のところに菩薩の顔があるという。緻密な計算で造られていることに感心。
第二会場Dコーナー「法隆寺東院とその宝物」では、国宝《行信僧都坐像》奈良時代(8世紀)、法隆寺。
夢殿本尊《救世観音像》の左脇に安置されている像。胸の衣の襞が浅い。ちなみに年2回春秋に約1カ月開帳される夢殿本尊は、私も15年くらい前に一度だけ見たことがある。
本展メインとなるEコーナー「法隆寺金堂と五重塔」。
まずは、国宝《四天王立像 広目天》《同 多聞天》飛鳥時代(7世紀)、法隆寺。
金堂の須弥壇の四隅に置かれる現存最古の四天王像。現地では、正面側2隅の像は距離も近めでよく見えるが、残る2隅の像は金堂の入口および出口脇のガラスから覗き込む形で、堂内の照明はそこまで届かず薄暗いうえガラス反射もあって、よく見えない。そのよく見えない2像を本展に出品。これは本展鑑賞者にとっても、本展会期中の現地訪問者にとっても、有難いやり方だ。
次に、国宝《薬師如来坐像》とその《台座》飛鳥時代(7世紀)、法隆寺。
金堂東の間の本尊を間近で鑑賞できる絶好の機会。光背背面の銘文には607年造立とあるが、623年完成の《釈迦三尊像》に比べ鋳造技術などに進歩が見られるため、制作年代は《釈迦三尊像》より後と考えられているとのこと(670年の天智火災以降の偽古作ということがほぼ定説となってきたらしいーむろさん様情報)。台座は、別の独立ケースに展示、二段重ね造りで本尊より高さがある。明治時代の古写真のパネルでは、台座は下の一段のみの様子。
最後に、国宝《伝橘夫人念持仏厨子》飛鳥時代(7〜8世紀)、法隆寺。
普段は厨子の中に納められている阿弥陀三尊像(伝橘夫人念持仏)が、厨子から取り出されて展示されるので、間近でじっくり鑑賞できる。厨子も背後に展示。
事前予約のうえ、土曜日午後に訪問。本展は30分単位の入場枠。会場滞在90分以内が推奨されている。その日の午後は余裕含みで、当日券購入でも即入場できた様子。
特別5室で同時開催中の「国宝 聖林寺十一面観音」展にも、法隆寺所蔵の国宝《地蔵菩薩立像》平安時代・9世紀が出品されている。
直近では2018年、その前となると15年くらい前に行った法隆寺。また行きたくなる。
聖徳太子および侍者像、広目天、多聞天などは勿論ですが、中でも薬師如来坐像、伝橘夫人念持仏はいつまでも眺めていたくなる美しさで、とても感激しました。
(ショップで薬師如来坐像のフィギュアも買ってしまいました。)
法隆寺は未だ訪れたことはないのですが、救世観音像の特別公開に合わせて是非訪問したいです。
ところで、「フェルメールと17世紀オランダ絵画展」が北海道に巡回することをK様のブログ記事で知りとても驚きました。
貴重な情報をいただきありがとうございました。
来春を楽しみにしたいと思います。
「へそまがり日本美術」も先日訪問してきました。
遠藤曰人と仙厓義梵の作品が特に好みでした。
府中市美術館はとてもユニークな美術館ですね。
今秋開催の特別展もとても興味深いです。
長文となり大変失礼致しました。
今後ともK様のブログを楽しみにしております。
コメントありがとうございます。
展覧会巡り、お疲れ様です。
東博の2展は、現地での鑑賞とは違って、近い距離で明るい照明で解説付きで展示によっては360度で数々の名品の鑑賞ができて、実に楽しい展覧会でした。
「へそまがり日本美術」展、府中開催時の出品作の約7割を再集結させたようですね。遠藤曰人ですか。当時はスルーしていた私も、府中の与謝蕪村展を経験した今であれば楽しめそうです。
引き続きよろしくお願いいたします。
まず、金堂東の間 薬師如来のことから。今まで670年天智火災以降の擬古作と思っていたのですが、そう単純な話ではないようです。今回の展覧会の図録解説では、「白鳳期の仏師に(釈迦像の衣文を十分理解していなければ作れないような像を)作ることができるのか」、「薬師像の年代を7世紀前半とし、釈迦三尊像とそれほど違わない時期とする可能性もあり得る」、「(光背銘が追刻ならば)本体と光背の制作時期が異なる可能性はないか」とあり、薬師像の制作年代が670年天智火災を遡る可能性について、ここまで踏み込んだ解説は初めて読みました。芸術新潮7月号の聖徳太子特集と今回の図録で東野治之氏は釈迦三尊光背銘を間近で調査した経験から、「釈迦銘と釈迦像は確実に推古31年623の作」、「7世紀後半の作であることが有力な薬師より先行する」とあり、同じ本(図録)の中でも意見が分かれています。
飛鳥時代以降にここまできちんとした擬古作が作れるのか、ということに関しては、金堂西の間の阿弥陀が鎌倉時代、運慶四男康勝の作であり、この薬師像の裳懸け座を見ながら作ったようですが、飛鳥時代風にとても良くできています(だから白鳳時代にも作れるはずだと言うのではありませんが)。阿弥陀は像本体や表情は鎌倉時代の作風そのものであり、その他の作例でも擬古作にはどこか「時代の特徴」が出るものですが、薬師像にそういう作風上の疑問点はありません(薬師像を釈迦三尊より後の作とする主な根拠は像内部から見た鋳造技術が進歩している点)。薬師像の光背銘については、今回初めて文字の実物を見ることができると期待していたのですが、思っていたよりも高い位置にあり、拡大鏡でも細部は見えませんでした。鏨で文字を彫った時の「めくれ」を処理していないのが後から入れた文字であることの証拠というので、それを確認したかったのですが無理でした。(釈迦三尊光背銘は鏨彫りではなく、蝋型段階での文字とのこと)
なお、この釈迦三尊と薬師像の問題(合わせて法隆寺の創建事情や若草伽藍との関係、及び救世観音、四天王の問題)については、「法隆寺―美術史研究のあゆみ」大橋一章編 里文出版 2019の第一章に最近までの研究の歴史が詳細に解説されています。膨大な量の法隆寺に関する美術研究書、論文を要約してあるので、役に立つ本です。釈迦三尊と薬師像の造像事情については、この本に書かれている大橋氏の説と芸術新潮7月号及び今回の図録の東野氏の説は異なる考えです。
次に金堂四天王について。今回光背裏面の作者名の文字が読めることを期待していました。多聞天の「薬師徳保」の刻銘は文字が大きいのでよく読めましたが、広目天の「山口大口費」はやや小さめの文字なので、拡大鏡でも見ずらい状況でした。この山口大口費が日本書紀 白雉元年650の「漢山口直大口」と同一人物と考えられることと、天衣下部が側面観を意識して作られているので釈迦三尊(脇侍の天衣下部は正面のみを意識)よりも後の作と考えられることから、四天王は7世紀半ば頃(飛鳥時代の末期)の作とされてきましたが、今回の図録では釈迦三尊とのバランスがいいことや夢殿救世観音の宝冠と意匠が近いことから、釈迦三尊とそう遠くない時期(例えば630年前後という意味か?)の制作という説が書かれていました。山口大口費の活動期間を考え、日本書紀650年記載の千仏像作製を晩年とすれば、四天王が釈迦三尊の623年に近い時期とすることも可能なわけですから、あとは天衣の側面観という「進んだ表現」をどう解釈するかという問題となります。薬師如来を670年以前の作とする説とともに、釈迦三尊・薬師・四天王が(他の寺・堂からの移設ではなく)最初から一括で計画されていた可能性につながるので、とても気になる説です。なお、美術史研究者の考える「作風」というものは時としてあまりあてにならない、ということを鎌倉時代の仏像―例えば運慶作品の銘文発見による事実解明事例やカラヴァッジョ作品―聖マタイの制作順序に関する記録発見事例などで実感していますので、この四天王の天衣の表現も623年~630年頃に作られていても構わないという気もします。
飛鳥時代の法隆寺について総括すると、
歴史学・文献学者の東野氏が以前論じていた大坂・野中寺弥勒の銘に関する疑義(天皇の語などが時代としては不自然)や法隆寺金堂四天王の銘に使われている用語の適切性などについて、美術史学の研究成果と乖離した論調には違和感を感じていました(野中寺弥勒の擬古作説については最近大阪大の藤岡穣氏が論証して擬古作でないことが判明)。今回上記(芸術新潮と図録)の東野氏の説として、「可能性を論ずるだけではいつまでたっても水掛け論であり、決定的な物理的証拠が必要」、「釈迦三尊光背銘の調査により、釈迦三尊が基準である」という話を読み、東野氏の考えも少し見直しました(東野氏が釈迦三尊光背銘を調査したのは20年以上前)。野中寺弥勒の件も、文献学者からの指摘があったことにより、美術史学者側も野中寺像を詳細に見直すきっかけとなったのだから、このような隣接学問分野での論争は大いに意義があることだと思います。
そして、夢殿救世観音の制作年代について芸術新潮7月号の三田覚之氏解説によると、夢殿救世観音は聖徳太子による法隆寺の前身の寺の本尊ではないかとのこと。これは金堂薬師と四天王を従来説より遡らせる説とともに(あるいはそれ以上に)魅力的な説と感じます。今の法隆寺西院伽藍は670年天智火災以降の再建であることは確実であり、釈迦三尊が太子の冥福を祈って作られた像ならば、太子が生前に建てた寺はあるのか、それは法隆寺の前身の寺なのか、そしてそれが若草伽藍なのか。通説では天智火災は若草伽藍のこととされ、若草伽藍金堂と現西院金堂の規模が同じなので、釈迦三尊も薬師も四天王も若草伽藍金堂に祀られていたものを天智火災により現西院金堂に移設したものと考えていいと思います(そう考えれば天智火災以降和銅年間頃までの再建で、金堂壁画、塔本塑像、中門仁王像が奈良時代初期の様式で作られていることと釈迦三尊、薬師、四天王が飛鳥時代様式であることには何の矛盾もないことになります)。その時に現西院金堂西の間(阿弥陀の位置。若草伽藍金堂の西の間も同様)には何があったのか。阿弥陀の台座下部は飛鳥時代の古いものであり、一方、天蓋は中の間と西の間の分が古いものということで、金堂には本尊クラス3体分のスペースが若草伽藍時代からあったことになります。救世観音については、西の間に救世観音があったという説と今の阿弥陀の台座下部に置いたのでは高くなり過ぎるという説の両方があり、何とも言えません。太子が生前に建てた寺が実在したとして、今残っている像に限定すれば、その本尊として相応しい像は夢殿救世観音以外にはあり得ません。太子が生前に建てた寺の本尊が現夢殿救世観音であり、太子没後すぐに釈迦三尊が作られ若草伽藍金堂の本尊になり、それから少し後になって、経済的支援を必要とするなどの理由による太子信仰の比重が大きくなるのに伴い、薬師が作られ救世観音も合わせて祀られるようになった、とするのがいいと思いますがどうでしょうか。奈良時代中期になって行信による夢殿創建とともに突然現れるのが救世観音ですが、623年の若草伽藍金堂本尊釈迦三尊制作後、643年の太子一族滅亡までは太子が建てた寺(本尊は現夢殿救世観音)が存在し、それ以降は若草伽藍金堂西の間に移動(この頃に太子一族の冥福のために薬師像を造像)、670年の若草伽藍消失後は7世紀末頃までに再建された現西院金堂西の間にあり、739年の夢殿創建に合わせ行信が救世観音を夢殿本尊にした、というのが夢殿救世観音をめぐるストーリーです。釈迦三尊を基準作とした時に救世観音をどう見るのか、三田氏が言うように飛鳥大仏との三者の比較で、救世観音は釈迦三尊よりも飛鳥大仏の方により近いと言えるのかどうかを専門家には今後詳しく研究してほしいと思います。
次に太子像納入の救世観音の件。救世観音には四天王寺式の半跏像と夢殿本尊の立像タイプの2種類があり、今回出品の太子像では胸前で宝珠を持つ立像形式の救世観音が納入されています。一方、広隆寺の太子像では独立した仏像ではなく鏡が納入され、鏡面に線刻で四天王寺式の半跏像の絵と「救世観音」の文字が彫られています(鏡像、御正体として心月輪:しんがちりん=仏様の魂 を納入)。鎌倉時代頃から夢殿の救世観音は秘仏とされ、明治時代にフェノロサにより開かれるまで、ほとんど目に触れることもなかったようで、どんな形なのかも分からなくなっていたようですが、この2体の聖徳太子像が作られた1120年頃は2つの形式が並行していたこと、夢殿像の立像形式もまだ認識されていたことが分かります。さらに法隆寺では同じ聖霊院の厨子の中に、今回出品されている如意輪観音(1120年頃は救世観音として扱われている=後述)が四天王寺式救世観音の半跏像として存在し、一方、太子像の納入品は宝珠を持つ立像の救世観音という、同じ場所で2種類の形式の違う救世観音が祀られていたことになります(但し、現聖霊院の建物は鎌倉時代後期の再建なので、1120年頃にはこの如意輪観音が聖霊院に祀られていなかった可能性もあり)。いずれにしてもこれらの救世観音は「上宮王等身像」という太子が観音の化身であることを表現しているものです。
その救世観音と如意輪観音、弥勒菩薩の関係について、今までずっと疑問に思っていましたが、この機会に詳しく調べてみました。まず、飛鳥時代の日本では半跏像はほとんど全て弥勒菩薩です。朝鮮半島も同様ですが、大陸ではいろいろな像種が半跏像として作られているようです。但し、日本の白鳳時代頃の作例(正木美術館菩薩半跏像)では宝冠正面に阿弥陀の化仏が付けられているので、観音菩薩の可能性がある一方、「弥勒上生経」には弥勒菩薩が化仏をつけることが説かれているそうですから、飛鳥~奈良時代の半跏像には弥勒と観音の両方の可能性があるようです。そして奈良時代になると、二臂の如意輪観音が出てきます(石山寺、岡寺の例。但し、当初は単に観音菩薩というだけで如意輪観音と呼ばれるようになるのは平安時代以降)。一方、四天王寺本尊が最初から半跏の救世観音だったかどうかは難しい問題ですが、平安時代後期にはこの形が成立しています(現存作品では上記広隆寺聖徳太子像内納入の鏡の絵と法隆寺聖霊院の今回出品作あたりが最古の例。広隆寺の木造半跏像も聖霊院像と同じ頃か少し前)。また、今回の展示での後期出品作である東博四十八体仏の155号像―右手を施無畏印にしている小金銅仏半跏像―が弥勒菩薩であるのか、四天王寺式救世観音の現存最古の例であるのかという問題はありますが、四天王寺の創建当初の本尊はこの形の菩薩像だっただろうと思います。四天王寺は廃仏派の物部氏に対する戦勝祈願を四天王に対して行ったことから命名された寺ですが、四天王を本尊として祀ることはあり得ないので、本尊は如来か菩薩だったはずで、それならばその後の本尊の形が四天王寺式救世観音だったことから推定して、当初から本尊は半跏像形式だったと思います(当時の名称は弥勒菩薩か)。その名称を救世観音と呼ぶようになったのは、早ければ法隆寺夢殿と同じ奈良時代、遅く見積もっても平安時代中期頃でしょうか。
そして、これらの弥勒菩薩、救世観音を如意輪観音と呼ぶようになるのは平安時代12世紀後半の後白河院政期のようです。その理由としては、天台側が政権に食い込んでいることに対する真言側(特に醍醐寺)の巻き返し(上醍醐は如意輪観音の有名な霊場。但し、密教の六臂像)や後白河法皇が比叡山に手を焼いていたこと、後白河法皇の観音信仰(三十三間堂がその一例。また、熊野参詣が多いのも本地仏である千手観音と如意輪観音のため)などが考えられ、さらに、後白河法皇は保元・平治の乱以降の乱世に聖徳太子にならって、王法と仏法の共栄を理想とし、法王自身は夢告により太子の生まれ変わりと思っていたという記録(阿娑縛抄)もあるそうです(天台側の史料なので事実かどうかは不明)。この12世紀後半になって、それまで弥勒菩薩、救世観音と呼ばれていた二臂の半跏像を如意輪観音と呼ぶことにしたということです(中宮寺本尊はこの例。広隆寺の「泣き弥勒」も平安初期には弥勒菩薩と記録されているが、12世紀後半の後白河院政期には如意輪と呼ばれている)。今回出品されている聖霊院の如意輪観音(入口の最初の像)がいつから聖霊院の厨子の中に安置されたのかは知りませんが、最初から法隆寺にあったものなら救世観音として作られ、後に如意輪観音に改名したものです。現聖霊院の建物は鎌倉時代後期に再建されたので、この時かもしれません。そして、鎌倉時代以降は各宗派が日本仏教の祖師と言える聖徳太子信仰を取り入れたために、太子像(16歳孝養太子、2歳南無仏太子)だけでなく、救世観音も多く作られています。この辺は11月からサントリー美術館で開催される「聖徳太子展」に三千院の救世観音その他が出品されるので、その時に鎌倉時代以降のことは考えてみたいと思います。なお、サントリー展では大阪・大聖将軍寺の四天王という(法隆寺の今回出品の四天王や平安時代後期の図像集である別尊雑記に掲載されている四天王寺四天王と)関連のある作品が出るので、擬古作について考えるヒントになる作品という点でも大聖将軍寺の四天王には注目しています。
その他の出品作では、聖霊院の地蔵菩薩に注目しました。彫刻の前期限定出品はこの1件のみ。後期限定出品は唐時代製六臂如意輪観音と東博四十八体仏の155号像小金銅仏半跏像の2件。唐時代の六臂如意輪観音は法隆寺の宝物館で展示されているし、東博四十八体仏の155号像も東博法隆寺館で展示されている像ですが、聖霊院の厨子内の地蔵菩薩はなかなか見る機会がないので、こちらを優先し前期に行くことにしました。そして、現在本館の聖林寺十一面観音展に出ている法隆寺の地蔵菩薩と非常に近い作品なので、この2体の比較という観点で眺めてきました。図録解説によると、法隆寺金堂像(旧大御輪寺)がこの地域の同種の像の手本となり、聖霊院地蔵(旧橘寺)が作られたとのこと。9世紀の地蔵菩薩立像とされているもので、造像当初は僧形の神像として作られたのではないかと推定されている作品が奈良地方には何点か残されています。この旧大御輪寺像以外では橘寺の日羅像、弘仁寺の明星菩薩、当麻寺の妙幢菩薩、融念寺の地蔵菩薩などです。旧大御輪寺像は蓮肉まで共木で作られ、「あたかも一本の木がそこに立っているような印象」(小学館日本美術全集2)という解説からは、蓮肉の円形断面をそのまま上体まで延ばしたような造形=丸太に手先を取り付けたような形 を思わせます。しかし、今回出品の聖霊院地蔵は旧大御輪寺像よりも小さいので、材木の木取りに余裕があるためか、そこまで丸太のような造形という印象はありませんでしたが、衣文線は確かによく似ていると思います。なお、私は聖林寺十一面観音は神の像の形が定形化する前の、仏像の形で作られた神像であると思っています(三重県桑名市の多度大社で同じ760年頃に、多度大菩薩という神の像が多分仏像の形で作られたという記録があるため)。
また、今回の出品作のうち東院伝法堂東の間の阿弥陀三尊について、木心乾漆像の発展形態が分かるという意味で注目しました。聖林寺十一面観音展の準備のために読んだ「X線による木心乾漆像の研究」という本によると、聖林寺十一面観音の木心のうち、足枘の部分については長い材を嵌め込んで作られているのに対し、京都府南山城の観音寺十一面観音では、後の木彫像と同様な足の裏から延ばす足枘となっているため、一見似たような像であっても聖林寺十一面観音から観音寺十一面観音へと発展していったことが推定されるそうです。作風の微妙な差もそれと一致するとのこと。そして、法隆寺伝法堂東の間の阿弥陀三尊の脇侍菩薩は聖林寺十一面観音よりもさらに前の形を思わせる乾漆像の内側に長い2本の材木を入れていて、これは脱活乾漆と木心乾漆の中間的な作り方だそうです。つまり木心乾漆の木心の構造からは、法隆寺伝法堂東の間阿弥陀三尊脇侍→聖林寺十一面観音→観音寺十一面観音という発展が見て取れるということになります。ただ、私が疑問に思ったのは、法隆寺伝法堂東の間の阿弥陀三尊の作風が天平後期~末期であることであり、聖林寺や観音寺の十一面観音の制作年代である760年頃を遡る時期の制作とは思えないことです。構造の発展と様式の変化は一致しないということなのでしょうか。この件はもう少し調べてみようと思います。
コメントありがとうございます。
あまりにも詳しい内容に驚きました。
じっくり読ませてもらいます。そのうえで、できれば後期中に展覧会を再訪できればと思っています。後期だと、訪問時に素通りしたらしい前期限定出品「聖霊院の地蔵菩薩立像」がいないこととなりますけど。
一方、この感染状況下、オリンピック・パラリンピック開催期間中は美術館への休業要請はないでしょうけれども、美術館訪問にちょっと躊躇し始めているところです。
今回の聖徳太子と法隆寺展では、法隆寺の創建事情と金堂の釈迦三尊・薬師如来・四天王、夢殿の救世観音について考える機会になったことが、自分にとっての最も大きな成果だったと思います。そして擬古作のことも自分なりに頭の整理ができました。今思っているのは、明らかな擬古作でなくても、現代の研究レベルならば擬古作かどうかは見分けられるのではないかということです。そして、疑問を持たれる作品は像本体ではなく、銘文が後の時代に彫られた(書かれた)ものであるために、像自体の年代判定も疑われてしまうのではないかと思います。明らかに擬古作と判断されるものとは、前コメントで書いた法隆寺金堂西の間の阿弥陀如来、三千院の救世観音など鎌倉時代の銘文があるもの、大聖勝軍寺の四天王(サントリー展出品作)、そして善光寺式阿弥陀三尊などです。後世の銘?があるために疑われている例として、岐阜県横蔵寺の薬師如来立像という小金銅仏があります。背面の裾に刻銘があり、唐の貞元21年805に最澄が師の道𨗉(どうすい)から授かったものと書かれています(「𨗉授澄貞元廿一四月」)。像自体は滋賀県の聖衆来迎寺にある重文指定の薬師如来と近い作風なので、8~9世紀の作と考えられていますが、この銘が疑わしいためか、重文にも指定されていません(弘法大師作とか行基作、恵心僧都作などという仏像の銘はどこにでもあります。また、江戸時代の絵で、出来がいい作品なのに応挙作などという銘があるために評価が低いといったようなことも同様です)。もう一つ、最近話題になった仏像の例として、滋賀県大津市眞光寺の観音菩薩の例があります。奈良時代の小金銅仏ですが、以前から鎌倉時代の擬古作ではないかという説が有力でした(大津歴博の学芸員が書いたブログ:下記 の2008年7月1日の記事を参照)。
https://otsurekihaku.shiga-saku.net/d2008-07_5.html
そして、この寺島氏が言われるとおり、最近では素直に奈良時代と評価する考えが研究者の中でも大勢となり、2014年に奈良時代の作として重文指定されました。(その後今年の6月頃に、これと対であった勢至菩薩が発見されて話題となりました。下記の記事を参照)。
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUF100FD0Q1A610C2000000/
https://www.yomiuri.co.jp/culture/20210609-OYT1T50216/
https://www.asahi.com/articles/ASP694QMNP67PTJB00B.html
この像の場合は、作風・様式を素直に解釈すればいいということと、金属成分の分析データが決め手であるようです。
法隆寺の薬師如来の場合は、607年の光背銘が釈迦三尊の623年より古いこと(像内部の観察結果による鋳造技術の進歩と齟齬)と日本書紀670年の法隆寺の火災が(若草伽藍の発掘で)事実であったことにより、670年以降に作られた擬古作とされてきたわけですが、銘文は何かの理由があって後から彫られたものであっても、薬師如来像自体は飛鳥時代の作として素直に解釈すればいいのではないかと今では思っています。仮に670年以降の作とすると、興福寺の仏頭(旧山田寺)という白鳳期の基準作が678~685年作なので、このような像が作られている時代に飛鳥様式の薬師如来が作られたとするのは如何にも不自然という気がします。あるいは擬古作とするなら「飛鳥仏として上手過ぎる」と言ってもいいかもしれません。前コメントで書いた「670年の火災以降711年までの法隆寺再建で、金堂壁画、塔本塑像、中門仁王像が奈良時代初期の様式で作られているのに、薬師如来を670年以降に飛鳥様式で擬古作として作ったとするとその理由は何か」という疑問もこれで解決します。創建時期を古く見せたいから擬古作として作った、というのが従来の考え方だと思いますが、当時の人に現代の研究者の目を欺くことができるほどの擬古作が作れるのか(微量成分分析などの科学的調査結果まで含めて)、ということです。
薬師如来は擬古作ではなく飛鳥仏であり、光背銘は後から何らかの理由で彫ったものというのが私の結論です。大阪野中寺弥勒菩薩の銘に彫られた文字の疑問も銘が後のものと考えれば、すっきりするかもしれません。なお、前コメントの夢殿救世観音の(制作から夢殿安置までの)ストーリー中で、薬師如来の制作時期を「643年の太子一族滅亡の冥福のために造像」と書きました。これは芸術新潮7月号の三田覚之氏解説で、「たとえば山背大兄王追善」のために造像という話が出ていたのを受けたものですが、造像理由として適切なものがあればこの時期にこだわることはないと思います。この「643年以降の造像」では釈迦三尊から20数年経過しているので、もう少し早い時期(630年頃?)の方がよいのではないか。それならば四天王の制作時期を少し早めて630年頃の作とする考えにも整合するので、両者の関連性を考えるためにも都合がいいと思います。
コメントありがとうございます。
むろさんさんの詳細なコメントと、図書館で借りてきた芸術新潮2021年7月号を読んだうえで、後期を訪問したいところですが、行けるかどうか。
また、神奈川県立歴史博物館の「十王図」展(〜8/29)も最近知って気になっているところですが、行けるかどうか。
「制御不能、災害レベル」とまで言われたら、私でもさすがに考えますね。
ただ、「メトロポリタン美術館展」は、開館していれば、何度でも行きます。