2024年12月29日放送の日曜美術館を観る。
特別アンコール「私とフェルメール 谷川俊太郎」。
最初の放送は1980年4月20日。49歳の谷川氏。
谷川氏が初めてフェルメールを観たときのことを語る。
1967年に初めて、家内といっしょにヨーロッパ行く機会があったんですね。
それで確か最初に着いたところがハンブルクで、そこで車を買ってヨーロッパを大体2か月ちょっとドライブしたんですけどね。
そのハンブルクから確か北に行ったのかな。
アムステルダムへ、まず行ったんですね。
それで前から美術館は見たいと思ってたので、そのアムステルダムの有名な国立美術館行って、
[中略]
それでアムステルダムで、確か《小路》1点しか見られなくて、あとの絵はね、絵がなくて、貼り紙がしてあったの覚えているんですね。
で、その貼り紙にね、パリでの展観のために今ここにはないんだっていうことが、書いてあったような記憶があるんですよ。
それでそのときに、パリで大きな展観があるってことを確か知ったと思うんですね。
だからそれからそのヨーロッパを2か月ぐらい走って、それで車を売って、今度飛行機でパリに入ったときに、ちょうどその展観の最中だったんですよ。
谷川氏は1966年7月に日本を発ち、ヨーロッパ・アメリカを旅し、翌年4月に帰国している。
パリのフェルメール展。
Dans la lumière de Vermeer
(「フェルメールの光の中で」)
1966年9月24日〜11月28日
オランジュリー美術館
出品作:12点
《ディアナとニンフたち》マウリッツハイス
《牛乳を注ぐ女》アムステルダム国立美
《デルフトの眺望》マウリッツハイス
《小路》アムステルダム国立美
《水差しを持つ女》メトロポリタン美
《真珠の耳飾りの少女》マウリッツハイス
《少女》メトロポリタン美
《レースを編む女》ルーヴル美
《絵画芸術》ウィーン美術史美
《天文学者》ルーヴル美
《手紙を書く婦人と召使》アイルランド国立美
《ヴァージナルの前に立つ女》ロンドンNG
出品点数12点は、1966年当時そして1980年時点でも歴代最多であった。
(この記録が更新されるのは、1995年のこと。)
パリの前に、同名の展覧会がオランダのハーグにて開催されている。
In het licht van Vermeer
1966年6月25日〜9月5日
マウリッツハイス美術館
出品作は10点で、★はパリには出品されていない。
《ディアナとニンフたち》マウリッツハイス
《牛乳を注ぐ女》アムステルダム国立美
《デルフトの眺望》マウリッツハイス
《水差しを持つ女》メトロポリタン美
《真珠の耳飾りの少女》マウリッツハイス
《少女》メトロポリタン美
《レースを編む女》ルーヴル美
《ギターを弾く女》ケンウッドハウス★
《手紙を書く婦人と召使》アイルランド国立美
《ヴァージナルの前に立つ女》ロンドンNG
谷川氏は《小路》を、1966年7-9月の間にアムステルダム国立美術館で、1966年9-11月の間にオランジュリー美術館で、計2箇所で観ているのではないか?
アムステルダム国立美術館では、《牛乳を注ぐ女》は観られなかった(パリで観た)が、他の2点《青衣の女》と《恋文》は観ることができたのではないか。別の理由でなかったのか、それとも氏の印象に残らなかったのか。
司会の藤堂かほる氏
私ども こう日本におりますとね、もちろん本物のフェルメール見る機会全然ないんですけれども
1980年4月時点のフェルメール来日歴。
1 《ディアナとニンフたち》
レンブラントとオランダ絵画巨匠展
1968年10月19日~12月22日 国立西洋美術館
1969年1月12日~3月2日 京都市美術館
2 《窓辺で手紙を読む女》
ドレスデン国立美術館所蔵 ヨーロッパ絵画名作展
1974年9月21日~11月24日 国立西洋美術館
1974年12月3日~75年1月26日 京都国立博物館
の2作品のみ。
6年前と12年前。
当時20代後半と思われる藤堂氏、確かに機会はほぼない。
次の機会は1984年、その次の機会は1987年、その次の機会は1999年。
2000年の大阪市立美術館「フェルメールとその時代」から、怒涛のフェルメール来日が始まる。
結果、フェルメール38点中、現在までに26点が46度来日するほか、国立西洋美術館の常設展に《聖プラクセディス》が寄託展示されている。
《小路》は2008年に来日。もう17年前のこととなった。