オタケ・インパクト
越堂・竹坡・国観、尾竹三兄弟の日本画アナキズム
2024年10月19日〜12月15日
泉屋博古館東京
「アナキズム」という言葉が気になって、前期を訪問する。
尾竹三兄弟の名前は初めて知る。
東京国立近代美術館の所蔵作品も出品されているので、その常設展で見る機会もあったのだろうが、スルーしていたようだ。
【尾竹三兄弟】
長男 尾竹越堂(えつどう)(1868~1931)
三男 尾竹竹坡(ちくは) (1878~1936)
四男 尾竹国観(こっかん)(1880~1945)
【本展の構成】
第1章 「タツキの為めの仕事に専念したのです」―はじまりは応用美術
第2章 「文展は広告場」一展覧会という乗り物にのって
第3章 「捲土重来の勢を以て爆発している」一三兄弟の日本画アナキズム
第4章 「何処までも惑星」ーキリンジの光芒
入館してすぐのホールの右壁に、大型の日本画が展示。撮影可。通期展示。
尾竹国観
《絵踏》
1908年、泉屋博古館東京
登場人物41人の心理描写が見どころとされる本作は、116年ぶりの公開となるらしい。
その116年前、本作は、1908年(明治41年)の国画玉成会主催の展覧会に出品されるが、4日間で撤去となる。
開幕日の翌日の懇親会にて、兄の竹坡が、会長の岡村天心が選出した展覧会審査員に自身が選ばれなかったことで天心を罵倒し、除名される。国観も兄に従い脱会したためである。
順路に従い最初の展示室、第2章は、その後、三兄弟が活躍の場を求めた文展(文部省美術展覧会)への出品作を取り上げる。
1909年(明治42年)の第3回文展では国観が二等賞・竹坡が三等賞、翌年第4回文展では竹坡・国観が二等賞、越堂も参加した翌年第5回文展では三兄弟揃って入賞。「文展は広告場」とは竹坡の言であるらしい。
しかし、1913年(大正2年)の第7回文展で三兄弟揃って落選する。
これに怒った竹坡は、美術行政制度を改革せんと、1915年(大正4年)の衆議院議員選挙に立候補し落選、多額の借金を抱えることとなる。
前期は、国観の入選作、竹坡の入選作、越堂の落選作、いずれも大型の作品が展示されている。
その後、三兄弟は、門下生たちと合同で開催した画塾展を発表の場とする。
帝展(1919年に文展から改組)と会期をぶつけ、開催場所も同じ上野とするなど、対抗意識丸出しの1920年(大正9年)の八火社展は、出品作79点のうち50点以上が竹坡の作品であったという。同展は3回と短い期間で終わる。
順路に従い2番目の展示室、第3章は八火社展出品作など、本展でいう「アナキズム」的な作品、前衛表現の作品が展示される。
印象的なのは、やはり竹坡の作品で、
イタリア未来派的な世界観が描かれる三幅対の《月の潤い・太陽の熱・星の冷え》 1920年、宮城県立美術館(前期展示)
画面全体に無数の魚、それも目玉が目立つ魚が隙間なく描かれる《大漁図(海に行け)》1920年、個人蔵(前期展示)
などを興味深く見る。
奇抜・多彩でもって話題になろうという感じだろうか。
三兄弟の言動は、彼らを中央から周辺へと追いやる。そして、歴史から消えていく。
最後の展示室、第4章は三兄弟それぞれの晩年の作品。
私的には、春夏秋冬の農作業の様子を若い女性ばかりで描いた竹坡の《ゆたかなる国土》1916年、福富太郎コレクション室(前期展示)を興味深く見る。が、制作年は第3章の作品より前であることに気づく。
本展の主役は、竹坡。
その言動が三兄弟の運命を左右したらしいこともあるが、出品作がダントツに多い。1920年の八火社展並みである。
※忙しいのと、泉屋博古館にしばらく行っていなさすぎて💦どこの駅から行くのがもっとも楽なのかなど調べるのが若干おっくうになり・・放置してしまってます💦
とはいえ、知らなかった画家さんたちなので見ておきたいような気がしていました💡
さすがcaravaggioさま・・💎⤴
コメントありがとうございます。
私も日曜美術館を見ました。
番組で紹介されていた作品は、ほとんど前期展示のものでした。
今は後期ですので、《絵踏》を除けば、入れ替わっていると思います。
会期中の2回目入館は半券呈示で入館料半額ですし、後期も行きたいと考えています。