没後100年 中村彝展 - アトリエから世界へ
2024年11月10日~2025年1月13日
茨城県近代美術館
水戸市生まれの洋画家・中村彝(1887-1924)の没後100年記念、約120点の大規模回顧展。
これまで、重文《エロシェンコ氏の像》(東京国立近代美術館)、レンブラント風の画家22歳の《自画像》(アーティゾン美術館)、中村屋創業者夫妻の長女、1898年生の当時15歳頃の相馬俊子をモデルとした《少女裸像》(愛知県美術館)くらいしか知らなかったが、本展で、その画業全体を見ることができた。
【本展の構成】
1 土族、書生。- 二十歳前後の中村彝
2 「新進洋画家」時代 - 美術家たちとの交流、西洋美術の摂取
3 中村屋と彝 - そして伊豆大島へ
4 ルノワール《泉による女》の衝撃 - これまでは随分無駄をやって居たなァ。
5 下落合のアトリエから
1)風景画 - 「武蔵野の俤」を愛する
2)静物画 - セザンヌから何を学ぶか
3)人物画 - ルノワール熱の再来
6 死を超えて - 歴史に生きる
《自画像》
1909-10年、80.5×61.0cm
アーティゾン美術館
(所蔵館にて撮影)
2章に展示。
中村は、1909年に丸善にて、643点の図版を掲載したドイツ語版のレンブラント画集(アドルフ・ローゼンブルク著、1908年、第3版)を購入、手垢で黒くなるほど愛読したという。
《少女裸像》
1914年、80.2×60.6cm
愛知県美術館
(所蔵館にて撮影)
3章に展示。
相馬俊子をモデルとした「少女像」は、下絵を含め10点存在するとのことだが、うち8点が本展に出品される。
既見の愛知県美術館所蔵や中村屋所蔵2点のほか、初めてのメナード美術館所蔵3点および横須賀美術館所蔵1点を見る。モデルが本格化していない頃の次の初期作品を特に見る。
《少女像》
1912年、44.5×37.5cm
メナード美術館
重要文化財《エロシェンコ氏の像》
1920年、45.0×43.0cm
東京国立近代美術館
(所蔵館にて撮影)
5章3に展示。
1920年9月1日に仏蘭西近代絵画及彫塑展覧会で観たルノワールの興奮が冷めやまぬ状態で、9月9日より、盲目のロシア人詩人ヴァスィリー・エロシェンコの肖像を鶴田吾郎と競作する。
最後の6章。
1923年から1924年12月に亡くなるまで、最後の2年弱に制作された作品群。
1923年9月1日。
中村は当時36歳。下落合に移って丸7年経ったところ。
中村は無事であったが、家屋はやや西北に傾き、アトリエの壁が落ちる。庭に3晩野宿。4日の午後、徒歩で友人宅に避難する。
9月16日、避難先の鈴木良三宅からアトリエに戻る。崩落した壁に板をたたきつけてもらって風雨をふせぐという応急的な修理を河野輝彦らにしてもらって、絵を描く準備をする。
この度の震災によって、私はつくづく絵を(思ひ)かくこと以外に自分の心に絶対の安神を与へ、死に打ちかつべき道はないといふことを痛感しました。二日前に画室に立ち戻り、河野君に頼んで崩壊した画室の壁に板をたたきつけて貰って、風雨をふせぎ、早速絵をかく準備をしました。このさわぎの中で絵を描くなぞと余りに冷血な不徳義な事とも聞へませうが、然しあなたには私のこの心がきつと分るだらうと信じます。私にとつては、これだけが僅かに残された唯一の道なのです。これ以外に、この助かつた生命を意義あらしめる方法はないのです。しかもこの唯一の道が私の生命の無上道であるといふことを痛感し得たと言ふことは何たる幸福でせう。私は心からこの尊い使命と意志の前に跪きます。この力と慰藉との希望の前に合掌します。私はここ当分は画室にとぢ籠って、ひそかに静物画をかきます。しかしこの跪拝すべき崇厳と合掌すべき慈護の精神が充分に画面に表はれるやうなものを描かねはなりません。その為めには従来の静物画の描図法を全然破って全くシンボリックな方法でやって見る積りです。」
(洲崎義郎宛書簡、大正12年9月18日)
6章は、病に苦しむ自分の姿を描いたパステル画や、病床に伏す自画像からはじまる。
以下、特に見た作品。
《髑髏のある静物》
1923年、三重県立美術館
アトリエの壁が崩落し、板をたたきつける応急的な修理を友人たちにしてもらった中村。
本作の背景には、その事情らしく、壁面に斜めに立てかけられた板が描かれる。
髑髏と崩落して応急修理された壁の組合せ、胸にグッとくる。
《カルピスの包み紙のある静物》
1923年、茨城県近代美術館
カルピスの包み紙が効いている。
その包み紙は、後に白地に青の水玉となるが、当時は青地に白の水玉であった。
1919年に販売が開始されたカルピス。中村は、1920年頃に中村屋主人から病中の見舞いにもらったことをきっかけに愛飲していたという。
《頭蓋骨を持てる自画像》
1923年、大原美術館
エル・グレコ風の自画像。
当時の欧州におけるエル・グレコ再評価を受け、日本でも「近代性」、セザンヌとの共通性といったエル・グレコ理解がなされていた。
児島虎次郎が大原孫三郎を説いて購入したエル・グレコ《受胎告知》が将来し、1923年9月刊行の雑誌にカラー図版が掲載されている。
《老母の像》
1924年、徳川ミュージアム
油彩習作2点とともに展示。
モデルは岡崎きい。
1858年生まれ、水戸徳川家や土佐山内家に仕えた女性。下落合のアトリエ完成時から中村と同居し、万事厳しく、中村の健康管理にあたったという。
岡崎をモデルとすることは気が進まず、スケッチ1枚も描いていなかった中村であるが、周囲の勧めもあり、1924年9月に制作着手する。画面が大きいため、立った状態での制作は体力的にたいへんな努力を要したが、なんとか床につくこともなく、仕上げることができたという。
レンブラント、エル・グレコ、ミレー、ルノワール、ゴッホ、セザンヌ、・・・。
西洋美術を摂取し、自らの絵画を確立しようとしたことが伝わってくる。素晴らしい回顧展。
閉幕近くに駆け込み訪問できて、良かった。