東京でカラヴァッジョ 日記

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「北宋書画精華」(根津美術館)

2023年11月15日 | 展覧会(東洋・アジア美術)
北宋書画精華
2023年11月3日~12月3日
根津美術館
 
「きっと伝説になる」
 
 宋時代(960~1279)は中国書画史におけるひとつの頂点であり、その作品は後世、「古典」とされました。日本でも、南宋時代(1127~1279)の作品が中世以来の唐物愛好の中で賞翫されたことはよく知られますが、その前の北宋時代(960~1127)の文物も同時代にあたる平安後期に早くも将来されています。さらに近代の実業家が、清朝崩壊にともない流出した作品をアジアにとどめるべく蒐集に努めたため、より多くの重要作が伝わることになりました。
 そのひとつ、北宋を代表する画家・李公麟(1049?~1106)の幻の真作「五馬図巻」(現・東京国立博物館蔵)が2018年、約80年ぶりに姿を現しました。これを好機として、日本に伝存する北宋時代の書画の優品を一堂に集める展覧会を開催します。アメリカ・ニューヨークのメトロポリタン美術館から、李公麟の白描画の基準作といえる「孝経図巻」も特別出品されます。
 北宋の書画芸術の真髄に迫る日本で初めての展覧会です。 
 
 
 日本でいえば平安時代にあたる北宋の書画芸術に焦点をあてた日本初の展覧会。
 と言われても、中国書画史のことは全く分からない私だが、お気に入り作品である李公麟筆《五馬図巻》が、李公麟筆のメトロポリタン美術館所蔵作品2点とともに出品されるということで、会期早々に観に行く。
 
李公麟
《五馬図巻》
11世紀、東京国立博物館
 
李公麟
《孝経図巻》
1085年頃、メトロポリタン美術館
 
李公麟
《畢世長像 (睢陽五老図巻断簡)》
1056年以前、メトロポリタン美術館
 
 
 
《五馬図巻》を観るのは3度目。
 
 1度目は、2019年の東京国立博物館の特別展「顔真卿 王羲之を超えた名筆」。
 
 この公開は、1928年の「唐宋元明名画展覧会」(東京帝室博物館、東京府美術館)以来の公開であったらしい。
 歴代王朝に愛蔵され、明治期に日本にもたらされ、1928年の公開以降、1930年に所蔵者が変わり、1933年に重要美術品に指定され、さらに所蔵者が変わり、そして表舞台から消える。
 戦時中に焼失したと考えられていて、その姿は、モノクロのコロタイプ複製によって知られるのみであった。
 
 突如「顔真卿」展に姿を現した《五馬図巻》は、寄贈により2017年度に東京国立博物館の収蔵となっていた。
 同展では、台北の國立故宮博物院所蔵の顔真卿《祭姪文稿》が目玉作品。《五馬図巻》は「北宋の著名な書家・黄庭堅の跋文も付されているので、書をテーマにした今回の展示に入る形」で「あまり目立たない場所にひっそりと展示」という感じであったが、中国の方を主とする鑑賞待ち列ができていて、相応に並んで鑑賞した記憶が残る。
 
 2度目は、2022年の東京国立博物館東洋館での「特集 中国書画精華」。
 「顔真卿」展での展示のあと、2019年から2か年にわたる修理が実施され、修理後初公開。
 独占状態にて、撮影もしつつ、じっくり鑑賞させてもらう。
 5頭の馬とその縄をひく人物の描写が素晴らしく、お気に入り作品となる。
 
 3度目の今回。
 休日とはいえ、会期早々であるためか、知名度のためか、それほどの混み具合ではなく、中国の方を主とする鑑賞列につき、しっかり鑑賞させてもらう。
 混み具合は、美術館の方が話しているのが聞こえたが、昨日(会期初日)ほどではなかったらしい。中国の方々のグループ来場が多く、作品の前で熱心に語り合っている。異国の美術館にいる気分になってくる。
 
 モノクロのコロタイプ複製では「シンプルな線を用いた白描画」と考えられていた《五馬図巻》、実物は「精緻な筆使いで、淡く繊細な彩色が施されている」作品。
 その人物表現について「精緻な筆使いで、肖像画的に描く」との説明。
 本作の出現は、白描画の巨匠という李公麟のイメージの見直しにつながっているらしい。
所蔵館展示時に撮影。
 
 
 
《孝経図巻》は、儒教の聖典のひとつ「孝経」の全18章のうち3章を除いた場面からなる5メートル近い巻物。
 
 劣化のため、私の目では何が描かれているのか判別しにくい。図版パネルの助けも借りて見ていくが、正直ピンとこない。
 その人物表現について、「あえて簡略かつ古風な人物表現で描く」との説明。
 
 
 メトロポリタン美術館サイトより。
 
 
 
《畢世長像 (睢陽五老図巻断簡)》は、肖像画。
 その人物表現について、「白描画における写実の極地を示す」との説明。
 メトロポリタン美術館サイトでは、作者不詳と記載されている。
 五老のうち、ほかの四老については、二老がフリーア美術館に、二老がイエール大学美術館に所蔵されているとのこと。
 メトロポリタン美術館サイトより。
 
 
 
 展示室2は李公麟の3作品にあてられる。
 李公麟以外の展示品は、展示室1に山水・花鳥、道釈・仏典、展示室5に書蹟、船載唐紙、計37点(会期全体の数)の出品と、北宋尽くし。
 全く分からないながらも、重文《竹塘宿雁図》東博蔵、重文《十王経図巻》和泉市久保惣記念美術館蔵、国宝《弥勒菩薩像》&《霊山変相図》&《十六羅漢像(第十四尊者・第十五尊者)》京都・清凉寺蔵、重文《行書伏波神祠詩巻》黄庭堅筆・永青文庫蔵などを見る。
 
 
 通期展示が多い本展(李公麟筆の3作品も通期展示)だが、一部の作品は展示替えされ、後期から登場する作品もある。
 
・後期展示(11/21〜12/3)
国宝《孔雀明王像》
中国・北宋時代11世紀、京都・仁和寺蔵
 
・期間限定展示(11/28〜11/30)
《猫図》(伝)徽宗筆
中国・北宋時代12世紀、個人蔵
 
・期間限定展示(12/1〜12/3)
国宝《桃鳩図》徽宗筆
中国・北宋時代 1107年、個人蔵
 
 
 これらは見たい。
 猫か鳩か、会期最終週の再訪を思案中。


2 コメント

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清凉寺からの出品作 (むろさん)
2023-11-20 14:24:11
中国絵画のことは全く分からないのですが、イタリアルネサンス・バロック美術と並んで美術趣味の対象としている日本彫刻史に関連するものとして、京都・清凉寺からの出品作について書きます(清凉寺の凉はニスイです)。

清凉寺は東大寺出身の僧である奝然(ちょうねん)が宋へ渡り、生身の仏像とするために像内に様々な品を入れた釈迦如来を現地の仏師に作らせ、日本に持ち帰ってから嵯峨の奥にある愛宕山に新たな釈迦の霊地を作ろうとしたのですが、比叡山延暦寺の反対や時の権力者藤原道長による請来文物の召上げといった問題により、霊地を新設することはできずに、現在の嵯峨の地に前からあった栖霞寺の一角を間借りして清凉寺としたものです。

出品作のうち、弥勒菩薩像と霊山変相図は昭和29年の本尊釈迦如来立像修理に伴う調査で、像内から五臓六腑、宋銭、鏡、文書類などとともに発見されたものです(国宝といっても釈迦像の付属としての指定)。ともに版画ですが弥勒菩薩の方は宋の高名な画家「高文進」の名が書かれているものとして貴重です。霊山変相図は中央、釈迦三尊の両側に立つ金剛力士が奈良・東大寺南大門の運慶・快慶作仁王像の元になった画像として重要なものです。これらは平安時代中期の釈迦如来の日本への請来以降、解体して取り出されたことがないものであり、当然運慶・快慶たちもこの絵自体を見たわけではありませんが、ほぼ同様の絵がもたらされていたと考えられます。

東大寺南大門の仁王像は左右の位置や金剛杵の持ち方、足先の跳ね上げ方などが通常の仁王像と異なり、この霊山変相図中の仁王像とは細部の形式までが一致しているということで、この図像形式に基づいて南大門仁王が作られたと考えられています。この形を採用した理由は東大寺再建の責任者(初代大勧進)だった重源上人が宋の様式によって東大寺を再建しようと考えたためです。東大寺大勧進に任命される前に重源が入宋した時に、この釈迦像納入品と同じ霊山変相図を日本に持ち帰り、それを運慶に渡したのかもしれません。

十六羅漢像については、後白河法皇が撰じた今様の歌集、梁塵秘抄の第280歌に「文殊は誰か迎へ来し 奝然聖こそは迎へしか 迎へしかや 伴には優塡国の王や大聖老人 善財童子の仏陀波利 さて十六羅漢諸天衆」とあるので、釈迦像と同様奝然が宋からもたらした物と考えられてきましたが、鎌倉時代初期の火災による焼失の記録や現存図が元来十八羅漢図として作られたらしいことなどから、現存の十六羅漢は奝然請来のものではないようです。

なお、この鎌倉時代初期、建保6年の火災では釈迦如来も損傷を受けたようで、台座には快慶の建保6年の修理銘が残っています。快慶が法橋の僧綱位を得る前に使った署名では「巧匠(梵字)アン阿弥陀仏」という重源からもらった阿弥陀仏号を使っていますが、この巧匠という用語も清凉寺釈迦の元とされる生身の釈迦像の伝説上の作者「天匠毘首羯磨」に対する人としての作者「人間巧匠(じんかんこうしょう)」から取ったものと考えられています。快慶という仏師は長谷寺の十一面観音という、これも清凉寺釈迦と同様、霊像として有名な像の再興にも携わっていて、信仰者としての側面が大きい仏師であり、その点が仏像制作者に徹した運慶とは違うところです。(重源の支持者である同行衆の一人として阿弥陀仏号をもらっていますが、重源没後は慶派仏師も東大寺の仕事の獲得には苦労したようで、快慶工房も法然の浄土教団など、新しいスポンサーをさがすようになります。清凉寺に対抗する意味*で天台側により建てられたと考えられる京都・大報恩寺の仏像を快慶工房が手がけるのも、その流れの一つと思われます。)

*清凉寺と京都御所の中間の御所に近い位置を選んで、三国伝来という清凉寺の釈迦に対抗する意味で「霊鷲山の釈迦を写した比叡山霊山院釈迦」という当時信仰を集めていた像を模して大報恩寺の本尊とした。現存の大報恩寺本尊釈迦如来坐像は快慶の一番弟子行快の作であるが、これは何らかの理由で快慶作の像が失われ、現存作品と代わったものと考えられ、その意味で「初代本尊は清凉寺式釈迦ではないか?」という以前から言われていた説は成り立たないことになる。

参考資料:日本の美術No.513「清凉寺釈迦如来像」奥健夫著 至文堂2009年、日本彫刻史基礎資料集成平安時代造像銘記編1中央公論美術出版1966年、東大寺南大門仁王像の図像と造形―運慶と宋仏画 熊田由美子 南都仏教第55号1986年、伝奝然将来十六羅漢図考 宮崎法子 鈴木敬先生還暦記念中国絵画史論集 吉川弘文館 1981年
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Unknown (k-caravaggio)
2023-11-21 18:10:02
むろさん様
コメントありがとうございます。

「清凉寺」の誤記を修正しました。過去記事も正誤混在していましたので、あわせて修正しました。
 清凉寺の国宝《釈迦如来立像》は実見したことがなく、その像内納入品を先に見たこととなりますが、《霊山変相図》が東大寺南大門の仁王像の元になった画像とは知らずに見てました。
 《十六羅漢像》は、北宋時代のものではあるが、清凉寺の開山者である奝然請来のものではないらしいとのことですね。
 次回訪問の際は、前回とは違った目で鑑賞できそうです。
 いろいろお教えくださり、ありがとうございます。
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