ピエロ・デッラ・フランチェスカ
《モンテフェルトロ祭壇画(ブレラ祭壇画)》
1472-74年、251×172cm
ブレラ美術館、ミラノ
ピエロがウルビーノ公フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ(1422〜82)の注文により制作した祭壇画。
寄進者として側面像で跪いた姿で描かれるフェデリーコは、傭兵隊長らしく甲冑姿であることから、戦勝記念に描かれた説がある(✳︎1)。
制作年代が1472-74年だとすると、戦勝記念説だと、1472年のヴォルテッラ攻略勝利を記念した作品となるようだ。
その横顔は、ピエロがフェデリーコを描いたもう一つの作品《フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの肖像》(ウフィツィ美術館蔵)と寸法が同じであり、同一のカルトンから描かれたと考えられているという。
本作品で気になるのは、天井から吊り下げられた卵。
普通の卵に見えるが、その大きさからもダチョウの卵であるとされる。
ダチョウの卵は、北イタリアの祭壇画には、しばしばランプとともに描かれているという。また実際に聖堂のなかで、ダチョウの卵は、天井から吊るしたランプのカウンターバランスとして使われていたようだ。天井から吊り下げられたダチョウの卵が描かれた作品というのも、本作の前に先例があるらしい。
聖書ではダチョウは「親の義務を果たさない悪しき動物」として言及されているらしいが、その後転じて、「放蕩息子のように神のもとに帰る罪人」を暗示し、さらに「卵を砂の中に放置し、太陽の光によってその卵をかえす」と信じられていたことから「キリストの神秘の受肉」をも象徴するようになったという。
加えて、中世において世俗的に、ダチョウは「鉄をも食べる強靭な胃をもつ」とされ、フェデリーコは、傭兵隊長にはふさわしいと、自身のシンボル・マークの一つとして使用していたらしい。
もう一つ気になるのは、画面上の傷である。聖母の顔あたりを横切る傷。
(この画像では分かりにくいけど、作品を横切る夕焼け色っぽい線。)
19世紀初頭までウルビーノの教会に設置されていた本祭壇画は、1811年、ナポレオンを王とするイタリア王国の命により、その首都ミラノに移送される。傷(絵具の剥落)は、その移送時に生じたものという(✳︎2)。
以降、ブレラ美術館の所蔵となり、「ブレラの祭壇画」とも呼ばれるようになる。所蔵当初は、作者はフラ・カルネヴァーレと考えられていたという。ピエロの様式に対する理解が浅かった時代は、ピエロなのかフラ・カルネヴァーレなのかという帰属問題がよく起こったようである。
このような形、あるいは売却などによりマルケ州から持ち出されて他都市・他国に所在する作品をまとめたサイトがある(伊語なので読めないけど)。
ウルビーノと結びつけられうるピエロの現存作品は4点とされる。
うち2点《キリストの鞭打ち》と《セニガッリアの聖母》は現在ウルビーノにある。
なので、上記サイトには、ミラノにある本作《モンテフェルトロの祭壇画》とフィレンツェにある《ウルビーノ公フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ夫妻の肖像》の2点が掲載されている。
(✳︎1)墓廟のために描かれたとの説もある。
(✳︎2)1741年または1781年にウルビーノを襲った地震に生じたとの説もあるようだ。1741年の時は本祭壇画が設置されていた教会の鐘塔が崩壊している。1781年の時はウルビーノ大聖堂が大きな損傷を受けている(1789年の地震でとどめを刺され崩壊)。
【参照】
石鍋真澄著『ピエロ・デッラ・フランチェスカ』平凡社刊