この町は10年ぐらい前まで法律で定めらた地区指定の町で、町の中心に大阪市立の解放会館のビルディングが立っていた。
解放会館内部には、大阪市の会館職員もいたが、解放同盟の支部事務所があって同和対策の特別行政措置の利権を暴力的糾弾闘争により、独占行使していた。
わずか850世帯ほどの小さな町に、何十億円もの特別行政サービス(税金)がつぎ込まれた。
しまいには周辺地域から逆差別と疎まれるようになった。
河馬の立場は解放同盟の立場と異なっていた。「民以外はみな差別者だ」だとする解放同盟の考え方、と暴力的差別糾弾闘争は解放に逆行するものだとして河馬は反対した。
河馬はこの町(旧 地区)で結婚し、本籍、現住所ともこの町になった。この町で、仔河馬娘 と仔河馬長男を育てた。河馬夫婦は共働きだったので、この町の知り合い、親しいひとびとの協力者を得て子育てを行った。
しかし仔河馬娘が三歳の時、気ちがい河馬が解放同盟の方針に従わないと解放同盟の圧力の下、大阪市は仔河馬娘を保育所から放り出し、他の遠い保育所への措置換えをした。
到底受け入れられる措置ではなく、事件は大阪市との裁判へと発展した。裁判は解放の国民的融合路線を掲げ、問題の解決を目指して闘っていた少数派ではあったが、全国解放運動会大阪府連の支援で行われた。裁判は3ヶ月で和解、政治的勝利で終わった。
仔河馬娘は元の保育所へ戻ることができた。3ヶ月間河馬の車で朝夕、全国解放運動連合会大阪府連が用意した仮保育所へいっしょに通い行き帰りの車の中で、思わぬ親子の対話ができた。
仔河馬娘は元の保育所へ戻って、爆発的に喋るようになった。
それまで保育所のお便りのなかで、言葉が遅い、遅れてると書き続けられていたので、仔河馬娘にとっては災い転じて福となる形となった。
仔河馬長男が小学校に入学するとまた問題があった。仔河馬長男の通学する小学校はまるで解放同盟立小学校のように、なっていて校長以下教員が解放同盟の暴力的糾弾と教育支配に屈していて、到底教育基本法の教育の政治からの独立、中立性の確保などの公教育の目的からほど遠いものであった。
河馬は仔河馬長男のためにこの問題を解決しなければならなかった。
長男入学直後小学校の校長にすくなくとも係争中の裁判を解放同盟の側に立って、子どもたちに教えるのはやめてください。校舎の屋上に設置してある「石川青年は無実だ」と大書した大看板を取り払うように文書で申し入れた。
すると対応に出た校長は応接室で、さきに申し入れた文書を床に投げ捨て、こんなものは受けとれない。といった。
校長の人をあまりにも馬鹿にした。無作法な態度に気ちがい河馬は、ひととおりの抗議をした。あなたはそれでも子どもたちに人権を教える教員の指導者かと。
これではだめだと思い、共産党の地元選出の国会議員正森成二氏に2目目学校への申し入れに同行してもらった。
校長は国会議員の前で、濡れたどぶネズミのように縮こまり、正森議員の「私に与えられた国政調査権を発動します。」との宣言に一言も答えられず。こんどは申し入れ書を受け取った。
それから間もなく解放同盟の運動スローガンを校舎の上に掲げた大看板は撤去された。
仔河馬長男が長じてから小学校の教員はどうだったと聞いたところ「あの小学校は良かった。」と言ったので、河馬は小学校を掃除しておいてよかったとおもった。
解放会館内部には、大阪市の会館職員もいたが、解放同盟の支部事務所があって同和対策の特別行政措置の利権を暴力的糾弾闘争により、独占行使していた。
わずか850世帯ほどの小さな町に、何十億円もの特別行政サービス(税金)がつぎ込まれた。
しまいには周辺地域から逆差別と疎まれるようになった。
河馬の立場は解放同盟の立場と異なっていた。「民以外はみな差別者だ」だとする解放同盟の考え方、と暴力的差別糾弾闘争は解放に逆行するものだとして河馬は反対した。
河馬はこの町(旧 地区)で結婚し、本籍、現住所ともこの町になった。この町で、仔河馬娘 と仔河馬長男を育てた。河馬夫婦は共働きだったので、この町の知り合い、親しいひとびとの協力者を得て子育てを行った。
しかし仔河馬娘が三歳の時、気ちがい河馬が解放同盟の方針に従わないと解放同盟の圧力の下、大阪市は仔河馬娘を保育所から放り出し、他の遠い保育所への措置換えをした。
到底受け入れられる措置ではなく、事件は大阪市との裁判へと発展した。裁判は解放の国民的融合路線を掲げ、問題の解決を目指して闘っていた少数派ではあったが、全国解放運動会大阪府連の支援で行われた。裁判は3ヶ月で和解、政治的勝利で終わった。
仔河馬娘は元の保育所へ戻ることができた。3ヶ月間河馬の車で朝夕、全国解放運動連合会大阪府連が用意した仮保育所へいっしょに通い行き帰りの車の中で、思わぬ親子の対話ができた。
仔河馬娘は元の保育所へ戻って、爆発的に喋るようになった。
それまで保育所のお便りのなかで、言葉が遅い、遅れてると書き続けられていたので、仔河馬娘にとっては災い転じて福となる形となった。
仔河馬長男が小学校に入学するとまた問題があった。仔河馬長男の通学する小学校はまるで解放同盟立小学校のように、なっていて校長以下教員が解放同盟の暴力的糾弾と教育支配に屈していて、到底教育基本法の教育の政治からの独立、中立性の確保などの公教育の目的からほど遠いものであった。
河馬は仔河馬長男のためにこの問題を解決しなければならなかった。
長男入学直後小学校の校長にすくなくとも係争中の裁判を解放同盟の側に立って、子どもたちに教えるのはやめてください。校舎の屋上に設置してある「石川青年は無実だ」と大書した大看板を取り払うように文書で申し入れた。
すると対応に出た校長は応接室で、さきに申し入れた文書を床に投げ捨て、こんなものは受けとれない。といった。
校長の人をあまりにも馬鹿にした。無作法な態度に気ちがい河馬は、ひととおりの抗議をした。あなたはそれでも子どもたちに人権を教える教員の指導者かと。
これではだめだと思い、共産党の地元選出の国会議員正森成二氏に2目目学校への申し入れに同行してもらった。
校長は国会議員の前で、濡れたどぶネズミのように縮こまり、正森議員の「私に与えられた国政調査権を発動します。」との宣言に一言も答えられず。こんどは申し入れ書を受け取った。
それから間もなく解放同盟の運動スローガンを校舎の上に掲げた大看板は撤去された。
仔河馬長男が長じてから小学校の教員はどうだったと聞いたところ「あの小学校は良かった。」と言ったので、河馬は小学校を掃除しておいてよかったとおもった。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます