昔話理論の先へ(3) あいまいさという楽しみ

★「極端に語る」「中庸の美学は昔話には、ない」ということについても。

昔話は極端だ、という理屈の流れで「雪のように白く、血のように赤く・・・」の例が引かれています。

で、私は、それもそうですが話には極端なものも中庸なものも、両方あると思うタチです。「ウグイスの里」など、美しい日本の風景が次々と出てきますが、これはみんな原色でしょうか。聞き手の想像の中で、ひとそれぞれの複雑な色合いで立ち上がってくるのでは?
語り手や文章の表現とは別に、受け手は自由に想像しているものではないかと思います。
語るほうも、極端に語ろうが、繊細に語ろうが、あいまいな表現を使おうが、それは語り手の自由のように思えます。

語りは、語り手と聞き手の共同作業だという認識は著者も理論提示者も同じですから、聞き手の自由な想像を尊重するのは語り手としては当たり前のような気がするのですが。

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