昔話理論の先へ(5) 自分のリズムは自分で獲得する 

★語り方についても。

文中、「暗記をしない」と言いながら、「テキスト通りに覚える」と指示されているところがちょっと分りません。
「自分の言葉で適当につなげたりすると語りが安定しない。安定しなければ耳に心地よい語りのリズムが生まれない」とあります。だから、良いテキストを暗記すればいいと著者は言いたいのだと私は解釈しました。

で、反論ポイントですが、私の考えでは、自由に語って場数を踏んでその結果、自分の言葉のリズムが安定していくのではないかと思うのです。そうして人は自分の言葉を獲得するのだし、周囲はそれを待つのが、教育であり生涯学習だと思うのです。子どもに対する教育も、今はそういう方向に行っていませんか。自由に自分の意見を論理的に述べること、それに違う意見を並べること。みんな自分の考えです。先生の意見をオウム返しになぞるような教育は、過去のもの。

初心者は何もわからない劣った人だから、お手本どおりにやらなければうまくいかないだろう、リズムもつかめないだろうという、とても傲慢な意識はないでしょうか。現実には、うまくいくかどうかわからないけど見守っていくよ、という先達は他にいます。それが相手の能力を引き出す、ということ。図書館の指導者がそうではなかっただけ。
 ボランティアに謙虚であることを強制し、ボランティアも謙虚さを自慢し自分の意見やカラーを出さず言いなりになることを良しとして、権威である図書館指導者によりかかってきた。私は、そのただ中にいましたから、このように書いています。

  
 ところで、ストーリーテリングの起源に戻って考えたとき、リズムのある語りをすることが先にあったのでしょうか。それとも話を聞かせて共有したいという願いが先にあったのでしょうか。私は、後者が語りの最初の形だったのではないかと思います。自分の思いや経験を、民話として、アマチュアの人が語りはじめその結果としてリズム感が生まれて円熟した、と思っています。もちろん別の個性の人はとつとつと雑談をするような口調で自分流に語ったことでしょう。しかも、円熟したリズムがある語りは、ある種の個性でしかないですね。ある種に限定し集束していくことが目的化していませんか。
 絵本の読み聞かせにもいましたね。「美しいリズムや言葉でなければ存在を許さない」「ひどい絵本が増えた」「短い子ども時代にそういうひどい絵本を読むのは時間の無駄だ」「まっすぐよい本に導くためにボランティアがいる」と繰り返す勢力があり、ボランティアの間で争いがあったことを何度も書いてきました。排除の思想で特定のものに集約・集束するのです。

それは物事の終息につながると私は思うのです。お互いに悪いところや失敗をあげつらいはじめて、結局やる人がいなくなっちゃう。ちょっと試しに違うことをやってみたら、反省会で「あれは駄目なテキスト」「これは語法に反してる」「手を動かした」などと集中砲火を浴びる。そんな世の中をもう少し緩やかにと願っている私にとって、つい、反論をしてしまうポイントです。

 私は、布団の中で子どもにおはなしをするのもストーリーテリングだと思います。暗記型では布団に入る前にテキストの文字を思い出さなきゃいけない。でも、絵のようにイメージをつかんであれば自分の言葉でつなげて嘘ばなしをすることもできます。もちろん、そんなところまで良いリズムを強制されるのはたまりません。
 なにより、人それぞれ違う脳と体を持っていますから、自分なりの言葉のリズムがあるはずで、特定の先生が好ましく感じるリズムに限定するのはおかしくないですか。
 テキストを読んであらすじを覚えて、庶民が好きなように語ればいいと思います。その結果として、持ち話がたくさんあってリズム感と安定感のある語り手が自然に出来てきます。そしてそれを含めて全体を研究者が後から追いかければいいのであって、研究者が先回りして指導するのは本末転倒ではないでしょうか。「自分の言葉で語って、そのうちそれが安定し、そのうちリズムが生まれる人もいる」ことを長い目で見守る社会になればいいと思います。

 
 
 
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