昔話理論の先へ(6) 語り手の見た目まで支配したいのか

★ 身振り手振り声色について

ストーリーテリングはについての研究書はたくさん出版されています。道具を使ったり、歌にしたり、講談など他の芸能をリンクして捉えて研究している団体もあるのを、この著者はご存じないのか、というのが素朴な疑問。

図書館司書であればその辺の知識はおありのはずで、その肩書きを使うのならば、「あれもある・これもある」という書き方になるだろうというのが、私の考えです。 もしも、レファレンスで、ある分野の本や情報を尋ねた時に、自分の好みで「これしかない」「あれはだめ」と特定の本しか教えてくれない司書がいたら、と思うとぞっとします。利用者が図書館への信頼を失くす時ですね。
それぞれの地域の図書館に行って、ストーリーテリングのやり方について調べたいと頼んでみたらいい。司書が、「体を動かすな」「テキストをしっかり覚えて」「直さずに」と指導する本ばかり出して来る場合もあるかも知れません。今は、そういう状況です。だから、利用者はある程度図書館から自立しなくちゃいけないんかなあと、思ったりもします。

 おはなしが終わって印象に残ったのが身振り手振り声色だけだったっていいじゃないか、と私は思います。ストーリーのほかに、自分の思いや愛情を届けるのですから、聞き手が「おもしろいおばさんだった」「なんかへんな感じだった」で十分。
 街頭紙芝居は、みんなストーリーなどろくに覚えていないんだけれど、「おもしろかったねえ」と楽しげに思い出すお年寄りの多いこと。その時代とその時代を生きた自分のよりどころになっているように思います。語りは、愛された自分の確認の道具ですね。ストーリーを知るのは二の次。子どもが語り手の顔ばかり見ているというのも、変なことでなく、とても大切なことだと思います。
 貸出至上主義をとっていたころの図書館の人は、なんとか本そのものやお話そのものに執着させようと思ったのでしょうが、時代とともにその目的も多様化していることを受け入れてほしいですね。でも、図書館の講話はまだ本やお話の質のことしか語らない人が多い。そっち方面の学者だから仕方ないんかなあ。そういう人の講話を聴いて、「お話を選び抜かなくちゃ」という意識になるボランティアも多いです。
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