絵本を見る目を鍛える に異論

「絵本を見る目を鍛える」というようなタイトルで、新潟市の図書館で講座が開かれてきたことは知っています。昨年などは受講された方もおられるのではないでしょうか。

それについて批判的な目で受講された方もいらっしゃるかもしれませんし、自分は見る目が肥えてステップアップしたと思っておられる方もあるかも知れません。

私は、かつて、「図書館司書に自分たちは鍛えられた」 とおっしゃる人たちと一緒に絵本の読み聞かせを長くしていました。その当時は、新潟市の沼垂図書館があり、そこはいろいろ他に不便なことがあったかもしれませんが、絵本や児童書の貸出しが下降線をたどって、おはなし会の参加者などもとても少なかったのです。書架の中身はほとんど変わることなく古典の本や福音館書店の本が並び、ボランティアには厭世観が広がり、情報は閉ざされ、お互いの悪いところをつつきあい、私などはいじめにあったりしたことがある、と、長い間告発してきました。

それでもなおも、図書館が同じように「鍛える」気分で講座を開き続ける真意を測りかね、数か月、これについて考えつづけたのです。

考えられるのは、
① いわゆる「過去の図書館権威者のとりまき」の司書が既得権益保持のために開いている。
② 「鍛える」のは、「特定の表現の排除」でなく「多様な文化を受け入れるための体力増進」という意味で開いている。 
③ 「福音を授ける」ような気分で、自分たちの好みを押し付けるのは地域の文化に貢献するものだと、信心している。

②なら問題ないですね。福祉に貢献するという図書館の理念に沿ったものです。
①と③が問題だと思います。特に③のような気持ちをもつボランティアになると、ちょっと変わった表現の本を見て「おっほっほっ」と笑いだし、「ステップアップしなさいね」などと上から目線になって 周囲を茫然とさせます。自分がおかしいとは思わないのです。なにせ図書館や地域の権威の先生がそうおっしゃるのだから。そういうボランティアを量産した図書館に、責任があると思っています。

あなたの周囲に「おっほっほおばさん」がいて、市民を見下げた発言に悩まされたら、ボランティアの四原則を思い出してください。その人はどうしても市民目線になれず「ボランティアとは権力者のいうなりに動く人のこと」という理解を、どうしても変えられないのだと思います。

 年が変わって、「グリムなんたら年」は終わりました。やれやれ。ホフマンの絵本しか受け入れられない地域を作るボランティアになりたくはないのです。話は、話でしかありません。しかも民話です。受ける人が違えば受け入れる切り口も違うのですから、多様な文化を受け入れる体力を鍛えたいと、私はいつでも思っています。もちろんできない部分もあるので、いろいろな人たちと分担していけば、守備範囲は広くなっていくと思います。

 

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