勘太郎爺奮闘記

滞在合計26ケ国、21年の海外生活が終りました
振り返りながら 日々の生活も綴ります

任那日本府にかかわりある遺跡か?

2021-04-04 | 歴史・文化

私が初めて、韓国に渡ったのは、日韓国交樹立(1965年6月22日から間もない1973年で、1973年から1975年にかけ、約2年半滞在していた。→こちら およびこちら弊ブログなど 

その後、1986年から1988年(88オリンピック)にかけ、度々韓国に渡り、短期滞在を繰り返していた。

韓国滞在中は、時間が取れれば、何度か、韓国の歴史を訪ねて、あちこちの寺院・遺跡などを見学した。→こちらの弊ブログなど

 

このほど、興味深い前方後円墳の発掘の報道があった。それは、韓国の全羅南道の海岸に分布している前方後円墳のうちに最南端の海南郡に位置する海南方山里長鼓峰古墳の発掘に関する報道だ。→こちらの報道など

<残念ながら、全羅南道の麗水市には1991年に視察に出向いたが、この古墳がある海南郡方面は行ったことがない>

 

新羅(前57年~935年)の都だった慶州で見られる古代の墓は、有名な天馬塚などほとんどが円墳で、前方後円墳は韓国ではあまり見られない。→23基の古墳が並ぶ大陵苑(テヌンウォン)

 

日本の教科書で用いられている古代韓国の位置図:任那(57年?~562年)の領域は定かでない。

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韓国内に存在する前方後円墳の地図→こちらのサイトから拝借

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今回発掘された海南方山里長鼓峰古墳は、韓国の全羅南道の海岸に分布している前方後円墳のうちに最南端に位置するもので、6世紀のものと推定されている。→長鼓峰古墳に関するPUSAN Naviのサイト

韓国の全羅南道は歴史的に、朝鮮半島を統一した高麗(918~1392年。936年に後百済を制圧して朝鮮半島を統一)以降、地域差別があった地域であり、発展は遅れている。→こちらのサイト

この差別地域に、高麗の朝鮮統一以前にどんな文化があったのか、この古墳はなぜ韓国の最南端に設けられたのか、誰(韓国OR倭関連の?)の墓か、遺物の詳細・他の遺跡との関連性など興味深い。

また、任那日本府(こちらのWIKIPEDIA)と関連あるのか?

しかし、報道によると、発掘はされ、「5〜6世紀の日本の古墳とよく似た構造だ」と分かったが、残念ながら再び埋められてしまった と。→こちらの報道

 

新聞報道などから写真を拝借して見てみよう:

Google Mapの上空写真:北に方形、南に円墳が読み取れる。

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横から望む墳形(左が前方部):Wikipediaから拝借

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古墳の石室 →ハンギョレ報道から拝借:長さと幅がそれぞれ4メートルを越え、天井までの高さは2メートルに達する巨大な石室。

床に細長い板石を置き、砕いた石を整然と積み壁面を築いている構造→古代の西日本九州地域の石室墓と構造が全く同じ、と。 また、下記写真に写っているように、天井と壁面に日本の古代古墳の典型的な特徴である赤い朱漆の跡が確認されている。

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長鼓峰古墳の主な出土品→ハンギョレ報道から拝借

報道によると、「副葬品は大部分が盗掘されていたが、今回は蓋つきの土器の皿(蓋杯)やかまどの枠の破片、鉄製の鎧や鉄の矢じりの破片などが相当数出土し、墓の被葬者を推定する手がかりになる」と。

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今後のさらなる発表が待ち遠しいですね!

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