電気通信視察団の数奇な経験談 その3 ウクライナ編
関東電友会名誉顧問 桑原 守二
電気通信視察団は4年続けてアジア諸国を回った後、5年目の平成11年に訪問先として選んだのはロシア、ウクライナであった。エルミタージュ美術館で有名なロシアの旧首都サンクトペテルブルグから1時間半のフライトで、ウクライナの首都キエフに着く。穀倉地帯と言われるだけあって、飛行機から見ても畑が広がり、ところどころに林が散在する。キエフは市民一人あたり緑地が170平方メートルあり、ヨーロッパで一番緑が多い。京都市と姉妹都市で、公園には桜もある。
宿泊先のホテルではガイドが団長から入れという。ロビーに美女が6人並び、先頭の女性がケーキを両手で差し出す。それを指でつまんで食べるのだが、作法が分からない。ついお焼香式になってしまった。ウクライナは美人の産地だと言われる。街中で会う女性も美人が多かった。サンクトペテルブルグとキエフのどちらに美人が多いか、団員の間で議論されたが結論は出ていない。
キエフのホテルの入り口でケーキの接待を受ける視察団の桑原団長
本項で述べたいのはキエフよりも、「ヤルタ会談」で有名なヤルタである。ヤルタは黒海の北部、クリミア半島の南岸で、半島の中央部シンフェローポリ空港から85kmの距離。この間を世界最長だというトロリーバスが走っており、2時間40分かかる。ヤルタの人口は16万、黒海にのぞむリゾート都市で、一夏に最高100万人が訪れたこともある。
宿泊したのはオレアンダという名前で、ヤルタでは高級の部類に入るホテルであるが、設備は良くない。大きな冷蔵庫が備え付けられているが、中は空。バスタブに入ってからシャンプーが置いてないのに気が付き、仕方なく固形石鹸で頭を洗った。
ヤルタ会談が行われたのはリヴァディア宮殿である。1945年2月、ソ連のスターリン、米国のルーズベルト、英国のチャーチルがこの宮殿に会し、ドイツ占領後の分割統治について討議した。日本の北方領土問題については何ら公表されなかったという。
見学した宮殿は、ニコライ2世の夏の別荘として1911年に建てられたもので、1階は会議当時の様子が再現されていた。2階は皇帝一家の展示で、家具や写真、皇女たちの自筆の絵などが並んでいた。
第二次大戦末期にヤルタ会談が行われたリヴァディア宮殿
会談に際し、米国代表団はリヴァディア宮殿に泊まった。英国代表団が泊まったアルプカ宮殿は、市から16キロ離れた郊外にある。ソ連代表団が宿泊したのは、さらに遠い丘の上であるという。視察団はこのように説明を受けた。
ところが昨年8月の文藝春秋誌に「ヤルタ会談の娘たち」という記事が載った。ルーズベルトの長女アンナ、チャーチルの次女サラ、駐ソ米大使ハリマンの次女キャサリンたちに取材した記録であり、驚くべき事実が明らかにされている。
記事によると、会談があったとき、ルーズベルトは4期目の大統領選で体力を消耗し、ヤルタに辿りつくのがやっとの状態であった。ソ連はルーズベルトに会談を行う宮殿を宿舎として提供した。チャーチルは70歳の高齢の上、39度の高熱を出していた。ソ連代表団は米英の宿舎の中央に陣取り、両国が密に連絡するのを防いだ。
樺太、千島列島をソ連に引き渡すという密約は、かかる状況の下で、ルーズベルトとスターリンの僅か30分の会談で決められた。それから現在の北方領土問題が始まっている。
我々は何も知らぬまま、リヴァディア宮殿を見学してヤルタを離れたのだった。
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