【有徳の司祭と不徳の司祭が行うミサに違いはあるか?】
以前より、フォロワーの信者の方々からお尋ねくださった質問のなかに、
表題にあるようなものがありました。非常に重要な事柄と思い、
信頼できる資料なども参考とし、できる限り、お答えしたいと思います。
私達は司祭である男性信徒に対して敬意を表します。しかしその敬意は
その司祭である男性信徒個人に対してのものではありません。
その司祭である男性信徒が身に受けた叙階の秘跡はキリストが
お定めになったものであり、その男性信徒が司祭として振る舞う時、
その司祭である男性信徒の「個人的人柄・教養・学識・知的水準・人徳」
に関わりなく、キリストから信徒への恩寵が保証されているからこそ、
その男性信徒が叙階の秘跡によって身に帯びている「司祭の機能・権能」
に敬意を表すのです。
司祭の徳が優れているならばそれに越したことはありませんし、
望ましいことです。しかし人間の資質・能力は千差万別であり、
一人一人の徳や能力の程度も千差万別です。当然のことながら、
司祭の資質・能力も千差万別です。そこで問題とされるのは
「執行された」業(行為)そのものです。有効に叙階されている
司祭の「業(行為)」である限り、司祭がどのような人物であろうとも、
秘跡は常に等しく有効で「誰によって」執行されたかということは
問題とはされません。
つまり、秘跡の有効性について、もしも「執行者の業(行為)により」
という立場をとるならば、その「業(行為)」が果たして有効か否かは
「執行する者」がどれほど神に近いかによって左右されてしまうのです。
この考え方にもとづくと、有徳の司祭の授ける秘跡は有効で、不徳の
司祭は無効という結論になります。
このように、もしも司祭の「人徳・能力」の程度によって、キリスト
から信徒への恩寵が左右されるならば、そもそも計測・比較の不可能な
個人的な徳とか聖性の程度とかによって秘跡の有効性が計られると
するならば、こんな不確かで不安定なことはないでしょう。
しかしながら、秘跡は司祭が個人としてどのような人物であろうとも、
常に等しく有効であるとカトリック教会は保証します。司祭になりたて
ほやほやの新前の神父が執行したミサと教皇が執行したミサの間に差は
まったくありません。
参考:ドナトゥス派(4~5世紀)
その主な主張は、秘跡の有効性は、授与者(司祭)の徳によって
支配される。また罪人は教会の成員になることができない、
というものであった。この分派の主張はミルティアデス教皇
(在位310-314)によって、またアルルの教会会議(314)に
よって排斥された。
(現代カトリック事典)
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第1部 信経
第2部 秘跡
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