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【シスター・コンソラータ ー 愛の最も小さい道 ー】(第4部・第26章)

2022-09-04 15:21:28 | 日記
第二十六章 神と隣人に対する愛の絶頂

〈不動の愛の英雄〉

英雄的な忠実さで「愛の最も小さい道」を歩むとは、まず第一に、純粋な愛の心をできるだけ絶え間なく起こすことである。それによってコンソラータは、隣人愛と犠牲の英雄に達したのである。「絶え間なく」といっても、単に愛の祈りのことばを習慣的に何度も唱えることではなく、真実、常に、愛の心を起こすことで、それも霊魂の能力が、他の務め、特に精神的な仕事に向けられていない時に、自由に、純粋な愛の心を起こすことなのである。

それがなぜ英雄的でありうるのか。「愛の最も小さい道」を歩き始める人は多い。だが続ける人はまれである。あたかも、この花からあの花へと舞っては、こちらで花粉を少し、あちらで蜜を少しつまむ蝶に似て、ひとつのきれいな考えを味わってはあきてまた別のきれいな考えを試し、いつの間にか信心生活の中心を神ではなく、自己満足においている人が多いからである。自己放棄のために必要な戦いは絶えず続き、失敗はつきものだから、すぐにあきて、重なる失敗に勇気も信頼もなくしてしまう。

だがいったん神に自己献身したからには、決してそれを取り消さず、神への愛を、口、目、心の慎みや、恵みの勧めに対する忠実、人々への奉仕、人々の弱さに対する忍耐などによって、証明しなければならない。コンソラータが生涯の最後の瞬間まで、一瞬のたゆみもなく、根気強く、心が乾燥して苦しい嫌悪に満ちている時も変わらず、絶え間ない愛の歌を心に歌い続けたことを考える時、その努力と根気において、戦時の英雄、あるいはスポーツの英雄よりも、ずっと偉大な英雄ではないだろうか。全く隠れている英雄ではあるけれども。

一九四二年九月に書いている。「絶え間ない愛の祈りによって、私はすべてを所有しています。その祈りを怠ったことを何度も後悔して、時間を費やすことは愚かなことです。怠ってもより熱心に唱える愛の祈りによって補うことができますから。でも瞬時も、愛の心を起こすことを絶対に怠らないように! 怠れば、神のみ栄えに損害を与えるでしょう。今の瞬間から、死ぬ瞬間まで、常に前進のみ。すべてが完成されるまで戦い、暴風、雷光、雷などのもとでも常に前進!」

神の特別なお恵みに自分の努力を合わせ、一九四二年、コンソラータは日増しに、一日じゅう絶えず純粋な愛の心を起こし、一日全部を、ある意味で、ただひとつの愛の心にすることに成功した。

何週間も毎日、日記に「イエズスよ、どうもありがとうございました。きょうはすべてよくやれました。」と書き、愛の祈りをひとつも怠らなかったことを、言外に表わしている。「きょう、愛の祈りを怠ったかどうか、イエズスのみご存じです。恵みに助けられ、私にはきょうの努力は絶え間ないものだったと思われます。」「きょうも絶えず愛するよう努力しましたが、もし足りないところがあったら大好きなイエズスよ、どうぞそれを補ってください!」

「きょうは外部的にはげしい一日でしたが、内部的に愛の祈りは絶え間ないものでした。」「きょうは仕事が多く、愛の祈りは吸収され、たびたび悪魔の猛烈な反対を受けました。」「朝から昼まではよかったが、昼から二時まではあまりできませんでした。二時に始めましたが、地獄の悪魔が全部、無数の心配を持って、困らせようと攻めてきましたので、落ち着いて心の平安を保つようにがんばりました。」

「きょう愛する努力を絶え間なく続けました。不要な考えをひとつも入れず、不要なことばをひとつも話しませんでした。」「きょうもあなたを純粋に愛する努力をしたと思います。わがイエズスよ、どうも、ありがとうございました。」

「きょう、祝日のため沈黙を免除されましたが、私ははじめて、一日全部を沈黙のうちに絶え間ない愛に過ごしました。」(一九四二年十月四日アッシジの聖フランシスコの祝日)

コンソラータは究明する時、成功よりも失敗に注意した。それにもかかわらず、一九四二年、毎月指導司祭に書いた報告には、一月で合計して約三十分くらい愛の祈りについての熱心が少し足りなかったこと、一度か二度不要な考えを入れたこと、四度か五度不要なことばを話したことしかなく、その他は毎日十七時間どんなに心とからだが苦しい時も、絶えず努力し、成功したことがわかるのである。

〈絶頂への最後の飛翔〉

一九四二年の最後の日、コンソラータは恵みに照らされて、新しい年には絶え間ない愛の祈りを自分の唯一の十字架として担い、カルワリオまで運ばねばならぬと悟った。一九四三年一月一日しるした。

「いよいよ絶頂に達して、勝利を得るため、最後の飛翔をしなければなりません。」

二、三日後、指導司祭に書いた。「今年の元日から、私は自分の生命に新生命を感じています。今こそ目的地寸前の最後の飛翔であることを直感し、目的地に着くように全力を尽くします。私のすべての努力は、愛の祈りに集中しています。絶えず、ひとつも怠らないように祈っています。」

一九三四年イエズスがコンソラータに「最も小さい道」を教え始めた時、「あなたが私を全能と認めれば、私があなたに絶え間ない愛の祈りの恵みを与え得ることを信ずるだろう!」と仰せられたが、それから十年間、コンソラータは英雄的な忍耐力をもって根気強くよき戦いを戦い、今やイエズスはその全能の力で、愛のいけにえの羊を、愛の絶頂へと導かれたのである。

一九四四年三月の初金曜日のことだった。ご聖体拝領後、コンソラータは、どんなに激しい戦いがあっても愛の祈りを中止しないようイエズスが責任をとってくださったことを悟った。

二十日後、指導司祭に「初金曜日からきょうまで、イエズスは約束を守ってくださいました。」と書いたが、二十日間ひとつの愛の祈りも怠らなかったばかりではなく、それから最後(一九四六年七月十八日)までそのとおり続けたのである。

〈愛の殉難〉

愛の絶頂とは、愛が絶え間ないこと、愛が純粋であることとともに、愛の強さ、深さ、一心さが無限であることを指している。それをコンソラータは経験によって知り、その愛をいろいろなことばで表現している。すなわち「清め尽くす火」「愛の大火焔」「愛の猛烈さ」「愛の陶酔」「愛の殉難」。

どんなに愛を尽くしても愛の熱望は満たされない。「あの小さなホスチアが、無限なる神を含んでいるのに、なぜ私の弱い霊魂は、熱望する無限の愛を含むことができないのでしょう。ああ、私はイエズスと一致したい熱望におしつぶされそうです。──純粋でひたむきな愛に満ちた「愛の最も小さい道」のなんという無限なうるわしさ。絶え間ない純粋な愛は、霊魂を変容し、高め、神のみに向かい、神に全くささげた時のみ、平安をうることができます。ああ、なんとも言えない精神の陶酔。」

 「聖母マリアと聖ヨゼフのみ、私が熱望している、ひたむきな、神のみに向かう愛をもってイエズスを愛しておられました。私も聖母マリアがイエズスを愛したように愛したい。それができれば、はじめて私は安心できるでしょう。──ちょうどけさ、きょうのごミサの聖福音に『私にとってだれが母だろう?……神のおぼしめしを果たす人こそ私にとって、兄弟姉妹、母である。』(マルコ3-33~35)と読みましたが、イエズスはこの御ことばによって直接私の希望に答えてくださいました。もし私が英雄的な忠実さで、神のおぼしめしである愛の道を歩めば、私はイエズスの御母のようになれ、いと忠実なる童貞と同じ心でイエズスを愛することができます。聖福音がこのことを勧めないなら私もそれを考えることを遠慮したでしょうが、勧められた今、私の心は燃えて、御母のようになれることを望んでいます。毎朝私はミサのカリスに自分を浸して、私をイエズスとマリアに変化してくださるよう神に願います。」(一九四四年三月一日)

〈イエズス、マリア、あなたを愛します〉

イエズスをマリアの心で愛しうるようにマリアのようになりたかったばかりではなく、イエズスの聖心で御母マリアを愛しうるようにイエズスの聖心にはいりたいと思った。その考えによって、コンソラータのイエズス、マリアに対する愛はますます増加していった。

一九四三年八月八日の日記に書いている。「御母マリアに対する愛は非常に増し、私は過去、現在、未来において、イエズスと聖ヨゼフ以外はだれもそれほど愛した者がないほど愛したいと提案いたしました。この世のすべて、天と地のあらゆるものは私にとって消え、善に対して嫌悪と退屈しか感じない時も、絶え間ない愛の十字架を抱擁して、聖母マリアのマントのもとに隠れることは、私の無上の喜びです。」

聖母マリアこそコンソラータの最高の模範で「愛と清さ」という理想の具体化である。ルルドで聖母は「私は汚れないやどりです」と仰せられたが、コンソラータは常に聖母の最高の愛と清さの理想に励まされた。

「私を完全に満足させるマリアへの唯一のよびかけをみつけました。それはイエズスがマリアをよびかけた『お母様』です。」

聖母のとうとい母性に対してコンソラータは無限の信頼と愛をいだいていた。絶え間ない愛の心によってコンソラータのイエズス、マリアに対する愛は絶頂に達したのである。

〈隣人愛の絶頂〉

一九四〇年十月コンソラータは書いた。「イエズスの聖心が最後の息をひきとられるまで、隣人愛のために、ご自分を尽くしたもうたように、私も力の尽きるまで隣人愛によって人々に献身し、自分はもう存在しないように自分を少しも大切にせず、最後の瞬間まですべての人々に対して微笑しながら『はい』と答えることを決心いたします。」

コンソラータの健康状態を考えた時、すべての人に微笑しながら「はい」と答えることは、信仰の目で人の中に常にイエズスを見、聖心の隣人愛を模倣しようとする、英雄的な絶えざる努力なしには不可能だったろう。疲れ果てたからだと、暗黒に苦しむ精神を駆り立て、限度を越えた隣人愛の実行へと向かわせた原動力こそ、実にそこにあったのである。

「……毎日、愛、忠実、隣人愛の生活を送りながら、疲れ果てて、十字架上で、イエズスのように『すべてはなしとげられた』というまで常に前進いたしましょう!」

「きょう、愛、犠牲に対する完全な克己心、姉妹的隣人愛がたいへん豊かでした。」このことばは単なる虚無のことばではなかった。神と隣人に、愛のすべてをささげたコンソラータのやり方がよく表われている。隣人愛に少しでもそむく欠点は容赦なく直すように戦ったのである。

「私の霊魂は、よくないこと、特に隣人愛に反する最も小さいことも、たいへん敏感に感じるようになりました。」(一九四二年八月)

指導司祭に自分が数回短気であったことを訴えて次のように書いた。

「……しかし、神父様に次のことを申し上げたほうがいいと思います。イエズスはこのころ私の良心を非常に感じやすくしてくださったので、ちょっと親切でない短気にひびくほんの短いことばを言ってもすぐに苦しく思います。」

「長い苦しい努力のあとで、今隣人愛の絶頂に達し、私は糸でつながれていた小鳥が糸を切られたような喜びを感じています。この隣人愛という善徳を実行することによって、新しい光が心に輝いてきました。イエズスの聖心に感謝いたします。」(一九四二年十二月)

この新しい光とはあわれみだった。あわれみは、隣人愛にまさり、隣人愛に更に高度の親切を加える。あわれみによって人の悪いことを見ず、批判せず、親切に弁護し、隠し、黙っている。あわれみによって忘恩の人、悪人、敵に対しても親切を尽くすのである。「あなたがたの御父が慈悲にましますようにあなたがたも慈悲であれ。」(ルカ6-35~36)とイエズスは隣人愛の絶頂を指しておられる。

「今こそ私は親切、柔和、寛大の徳のことをよく悟ってきました。今こそイエズスの聖心がそれらを私に対して実行しておられるように、私も実行するよう強く励まされるのを感じます。それで次の決心をいたします。今後、人々の欠点を決して見ず、前よりも深い親切、あたたかさと寛大とをもって扱うこと。」(一九四三年六月)

二ケ月後の一九四三年八月、コンソラータは、その決心を「隣人愛の行ないをひとつも怠らず十字架上のイエズスにならって、すべての人に対して親切、慈悲、寛大を尽くします。」という誓約で固めた。それで隣人愛のホスチアとなった。

 「数日前から『ホスチアに対してホスチア』という考えが私の心をつかまえ、どうしてもそれを忘れることができません。いけにえとなられたキリストにならい、私もどうしてもいけにえとならねばなりません。潔白なホスチア──御父と霊魂に対する愛にあふれ、完全に親切、寛大、慈悲に満ちているホスチアという理想を深く味わっています。イエズスなるホスチアにならい、潔白で、愛に燃え、恵みを与えるホスチアになりたい。そうすれば私もいけにえとなって、いけにえなるイエズスに完全に一致するでしょう。」(一九四四年十一月)

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