さて、泉屋で腹ごしらえの後は古刹の毛越寺である。慈覚大師の開山した4つのお寺のひとつで、瑞巌寺、立石寺(山寺)、中尊寺とともに名高い。開山は西暦850年というから相当古い。
毛越寺は、他の多くのお寺同様、かっての伽藍の多くは火災で焼失していて、その名残を垣間見るしかないが、平安の頃を偲ばせる、池を中心とした庭園と、曲水の宴の遺跡が有名だ。
その曲水の宴のあったところはしっかり復元されている。
運良く、平安時代の衣装を身にまとった人たちによる、雅な和歌を詠む会が催されていた。写真のとおりである・・・といいたいところだが、これは写真の写真である(笑)
庭園も広く、開山後栄華を誇った奥州藤原三代により、京都に対抗すべく整備されたことがうかがえる。
近くにある遺跡のひとつには、宇治平等院を模したものがあり、しかも宇治のそれよりも、規模も大きかったという。
また、ここには奥の細道で芭蕉が詠んだ「夏草やつわものどもが夢のあと」の句碑があるが、芭蕉の真筆によるものという。
しかし、小生の記憶の中には、芭蕉が毛越寺でどうこうしたという記録はなかったのだが、もしかして教科書にない部分だったのか?
また江戸時代、伊達氏によって毛越寺は保護されたようだが、伽藍の復元はなかったようだから、江戸の頃は、見るべきものがなかったのかも知れない。
そんなこんなながら、歩いていたら、バスガイドのお姉さんの集団に遭遇。ベテランの先生役のお姉さんが指導しているようだ。
中には、なかなかかわいいお姉さんもいる。うーむ、次回来たとき、あのお姉さんだといいなあ・・・って、何考えているのか(苦笑)
話を戻そう。芭蕉は平泉に来て、まず高館というところから全体の位置関係をチェックしている。奥の細道の、そのくだりを思い出しながら、その高館に足を伸ばすこととした。ここは、源義経が自刃したところであり、小さなお堂が建っている。
中には宝暦年間の作と伝えられている義経の像が祭られていた。その名のとおり、高台にあり、吹き抜ける風がさわやかで気持ちよかった。
だが気のせいか、なんとなく神秘的な空気も感じた。やはり源の義経の終焉の地という意識がそうさせたのだろうか。
芭蕉ではないが、まさに三代の栄耀一睡のうちにして・・・という言葉が頭をよぎった。
毛越寺は、他の多くのお寺同様、かっての伽藍の多くは火災で焼失していて、その名残を垣間見るしかないが、平安の頃を偲ばせる、池を中心とした庭園と、曲水の宴の遺跡が有名だ。
その曲水の宴のあったところはしっかり復元されている。
運良く、平安時代の衣装を身にまとった人たちによる、雅な和歌を詠む会が催されていた。写真のとおりである・・・といいたいところだが、これは写真の写真である(笑)
庭園も広く、開山後栄華を誇った奥州藤原三代により、京都に対抗すべく整備されたことがうかがえる。
近くにある遺跡のひとつには、宇治平等院を模したものがあり、しかも宇治のそれよりも、規模も大きかったという。
また、ここには奥の細道で芭蕉が詠んだ「夏草やつわものどもが夢のあと」の句碑があるが、芭蕉の真筆によるものという。
しかし、小生の記憶の中には、芭蕉が毛越寺でどうこうしたという記録はなかったのだが、もしかして教科書にない部分だったのか?
また江戸時代、伊達氏によって毛越寺は保護されたようだが、伽藍の復元はなかったようだから、江戸の頃は、見るべきものがなかったのかも知れない。
そんなこんなながら、歩いていたら、バスガイドのお姉さんの集団に遭遇。ベテランの先生役のお姉さんが指導しているようだ。
中には、なかなかかわいいお姉さんもいる。うーむ、次回来たとき、あのお姉さんだといいなあ・・・って、何考えているのか(苦笑)
話を戻そう。芭蕉は平泉に来て、まず高館というところから全体の位置関係をチェックしている。奥の細道の、そのくだりを思い出しながら、その高館に足を伸ばすこととした。ここは、源義経が自刃したところであり、小さなお堂が建っている。
中には宝暦年間の作と伝えられている義経の像が祭られていた。その名のとおり、高台にあり、吹き抜ける風がさわやかで気持ちよかった。
だが気のせいか、なんとなく神秘的な空気も感じた。やはり源の義経の終焉の地という意識がそうさせたのだろうか。
芭蕉ではないが、まさに三代の栄耀一睡のうちにして・・・という言葉が頭をよぎった。
知識を得、そこに心が入ると、取り巻く空気も変わってきますね。。。
行ってみたくなりました。
でも10000km の後の400km は辛いかなぁ。。。(苦笑)
この辺も歴史の妙でしようか・・・って、マニアックですか。