アモーレ・カンターレ・マンジャーレ

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蘇我入鹿に思いをはせて

2016-05-15 06:00:13 | マニア
蘇我入鹿というと、日本書紀では大化の改新で、暗殺され・・・っていうか、実質公的に殺された世紀の極悪人という立ち位置になっている。

 中学で初めて習った歴史では、「大化の改新=645年のこの事件」という教わり方をしたのだが、この事件そのものは「乙巳の変」と今では呼ばれている。
 ただ、それでもなおその後、中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足が中心となって律令制度の制定に尽力したというように習っているはずだ。しかし、その後改革があまり進んだように見えない・・・どころか、孝徳天皇や有間皇子に中大兄皇子がやったことなど、ひどいことが多い。


 結果として、大宝律令が701年に制定されるまで、その後半世紀を要している。壬申の乱で、皇位を奪い取った天武天皇は、中大兄皇子が善なら、悪の立ち位置になるはずだが、どうもそんな感じでもない。むしろ、中大兄皇子がやった白村江の戦いへの参戦(663年)や大津宮への遷都などの方がおよそ尋常ではない。
 といいつつ、百人一首の第一番が天智天皇だったこともあり、小生の先入観は「善人側」に見ていた。

 日本書紀が天武の命により、編纂をスタートしたといいつつ、完成したときは崩御していて、さらには藤原不比等が実質的な編集長だったわけで、この辺のあやは興味深いものがある。そんな中で、ビッグコミックに連載されている「天智と天武」では、天武は天智の異父弟で、しかもその父は蘇我入鹿だったという説をとっている。
 その入鹿像が法隆寺の救世観音だという立場をとっていて、聖徳太子=蘇我入鹿ということで展開されていた

 この説は関裕二氏の考え方をベースにしているようで、先日法隆寺に行く前に関氏の著書をまとめて見繕って読んでみた。
 本の中身について細かく語るのはご法度だからやめておくが、関氏の論理展開を100%支持するわけではないものの、一定の説得力をもつと感じた。

 古くから議論のあるところで、大海人皇子(天武天皇)の登場が唐突で、年齢を含めて出自がはっきりしていないことや、乙巳の変の時には存在すら見えないなど、謎の多い人物であることは確かであった。
 また、壬申の乱のときには、蘇我系のメンバーが支援していることから、彼が蘇我系の人物だということも推測はできる。

 一方で、聖徳太子は蘇我系の人物であることは明白だが、後世藤原氏によって祀られていて、祟りを恐れている節がある。だが、日本書紀の記述のとおりなら、聖徳太子が藤原氏に祟る理由はないはず。通説では息子の山背大江王を滅ぼされた恨みというのだが・・・
 だとすれば祟るのは山背大江王であり、聖徳太子ではない。百歩譲っても、恨む相手は山背大江王を滅ぼした蘇我入鹿であり、藤原氏ではない。どう考えても、そこはおかしい。やはり、法隆寺は蘇我氏の祟りを鎮めるためにあるお寺と考えるべきではないのか・・・と。とはいえ、ここで天武が入鹿の子供とまで行くのは論理が飛躍しているだろうと。

 ただ、間違いのないところでいうと、天武が崩御した後は、皇位は皮肉にも天智系に舞い戻ってしまっているし、結果的に天智&藤原が天下を取ったことは歴史の知るところ。
 聖徳太子の存在は、今や多くの学説で否定されてきているが、蘇我馬子の世代だから、入鹿が聖徳太子というのはちょっと・・・かも。だが、そもそも聖徳太子が架空なら、馬子から入鹿の業績が集約されている可能性もあるかも知れない。

 と、長くなるのでこの辺で止めておくが、中学の時に歴史の授業を聞いていてふと思ったことがある。「あれ、藤原氏のやったことって、蘇我氏のそれと同じじゃん」と。
 「歴史は常に勝者のものである」。石田三成とともに蘇我入鹿にも光を当てたい小生である。
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