アモーレ・カンターレ・マンジャーレ

自称イタリア人のオヤジが、好きなサッカーやらグルメやら、何でも不定期に気まぐれに書き綴るサイトです。

関ケ原の戦いと大坂の陣

2016-08-28 07:00:36 | つれづれ
大河ドラマ「真田丸」も後半に入り、秀吉もなくなってしまったが、このタイミングで歴史マニアとしてはついつい書きたくなってしまうことがある。


 まずは関ケ原の戦いについて書きたい。1600年というキリのいい年でもあり、「天下分け目の関ケ原」と言われるところから豊臣vs徳川の戦いと思っている方がほとんどだろう。
 これは大きな間違いで、正しくは徳川vs石田ら連合軍で、豊臣政権下の内部抗争なのだ。だから、この時点で豊臣政権はなくなったのではなく、秀頼は関白なのだ。

 家康が征夷大将軍になったのは1603年だが、この時点でもまだオフィシャルには徳川政権とは言いにくい。1611年の秀頼の家康謁見がひとつのターニングポイントだったかも。
 そういう意味では大坂の陣こそが、オフィシャルには天下分け目の戦いだったはず。なんとなく、学校で習った歴史の教科書では、関ケ原の戦いで試合終了し、大坂の陣はついでぐらいに流された人が多いのではなかったかと。

 その点、清州会議で信長の孫、三法師を担ぎ自らは後見としてタテマエ上、織田政権を支えるふりをしながら、次々に織田家の人間を切っていき、政権を取った秀吉とかぶるが、これまた日本史の授業で本能寺の変からいきなり豊臣政権になってしまったような印象になっていることと似ているかも。


 三谷幸喜の本ということでは、映画にもなった清州会議はなかなかおもしろい切り口にしてくれていたが、今回の真田丸では比較的石田三成の描き方がニュートラルに近いという気がする。イヤミではあるが、極めて優秀で情も厚い。
 滋賀県などでは以前から石田三成の復権を訴えているが、このドラマでもそれがなされつつあるのは嬉しいところ。徳川側の記録になれば、当然悪人として評価されるのはしかたがないものの、これまではドラマなどでも、かなりひどい扱いだった。
 最近では、こんな三成にちなんだ丼も出ているらしい

 ときに、大坂の陣については、都市伝説的なものも多い。いわく家康は、実際には戦死していて身代わりがその後務めたとか。
 また家康が双子だったことも、多くの識者が指摘しているが、見代わりはそのときからとか、いろんな説もあり、まだ今後の研究でいろいろな事実が出てきそうだ。下右写真は大阪城内にある秀頼自刃の碑である。


 いささか劇化されているが、秀頼が器量の大きな人物だったことも事実だったろうし、ガタイの良かったことは間違いない事実だった由
 真田丸ではこの辺がどんな描き方になっていくのかも興味深い。今回の三谷シナリオはなかなかユニークにして、興味深い分析も多く感心している。

 ちょっとゴールに向けての展開が楽しみだなあ。
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