アモーレ・カンターレ・マンジャーレ

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改めて江戸時代は「暗黒」だったのかを問う

2019-02-25 06:00:07 | つれづれ

どこかの政府が昨年は明治維新150年ということで、明治維新という素晴らしいできごとがあり、暗黒の江戸時代から解放された・・・というノリで明治を推していた。

 

 江戸時代から明治にかけての経済や人口学を大学では専攻としていた小生であるが、先日柏の児童虐待に関してとある報道で、「懲戒権という概念は江戸時代にはなく、明治に入って欧米の制度をもとに日本で法制化された」ことを知った。

 さらに江戸時代に日本にいた宣教師たちのレポートでは、「日本においては児童を体罰でしつける文化がない」と書かれているというのだ。

 

 また、どこかの政府が古くからの日本の伝統と主張する家長の概念なども、実は明治からの産物だったりしているが、今回は改めて「江戸時代は暗黒だったのか」を問いたい。

 まず江戸時代というと「士農工商」という身分制度があり、身分の固定化がされていたというイメージがある。

 

 この士農工商という言葉は江戸時代にはなく、明治になってからの造語なのだが、たとえば農民は土地に縛り付けられていたという事実はなく、岐阜に生まれ育った農民が大坂や江戸に行って暮らしているなんてのはごく当たり前だった。彼らは農を外れて、工や商になっているのだ。

 ついでにいえば、江戸時代を通じ田のお米の収穫量は最低でも2倍以上になっているので、江戸時代の最初に決めた収穫量の4割が年貢だったとしても、江戸時代後半には実質2割程度の負担だった。ちなみに検地は江戸時代は一度しかやられていない。

 

 そうして経済力を持った農民たちは子供に寺子屋などでの学習機会を与え、明治維新の頃の識字率は世界でもとんでもないくらいの高水準になっていたことは周知の事実。明治になって識字率が上がったのではない・・・

 もちろん自然災害による飢饉は人口の減少を招いた。歴史でも「江戸時代を通じて人口は停滞した」と習ったはずだが、ざっくりいうと東日本は人口減少、西日本は大幅増加で差し引き停滞というのが実状だ。

 

 最近の研究成果では、士農工商の経済格差は驚くほど小さく、現代と比べても極めてフラットな社会だったことが判明している

 貧富の差が大きくなったのは明治以降のことなのだ。

 

 そしてもうひとつ「鎖国」について書いておこう。一言でいえば、当時の日本は鎖国などしていないし、している意識もなかったのだ。

 世界史で習った人なら、近世のメキシコの銀の輸出がすごかったことを覚えておいでのはず。だが、江戸時代世界最大の銀の輸出国は日本だったのだ。

 

 鎖国という言葉で正しいとすればキリスト教を禁じていたくらいで、直接貿易をしている窓口が中国・朝鮮・オランダに限られてはいたが、貿易量は極めて大きかった。

 陶器の包み紙として使われていた浮世絵が、ヨーロッパやアメリカに流れていたことは皆さんもご存じのはずだ。

 

 さらに、河川敷の土地など洪水の恐れのあるところは非課税だった。つまり、そこからの収穫は非課税にするということで、洪水被害を防ぐべく住民は努力する。結果地域全体として洪水被害は少なくなるし、その地からの収穫は非課税なので農民も潤う・・・

 あまり長くなっても・・・なので、これ以上のコンテンツについてはふれないことにするが、江戸時代の庶民にとっては、少なくともその時代が「暗黒」ではなかったことが見えるのではと。

 

 そうそう、もう一点書いておこう。明治になってから武士以外にも苗字を名乗ることが許されたというのがある。これを習ったイメージでは、農民や商人には苗字がなかったと勘違いしている人のなんと多いことか・・・チコちゃんかよ(苦笑)

 実は農民にも苗字はあったのだ。ただ、公式の場で名乗ることが許されていなかっただけなのだ。とはいえ、われわれが思うよりも、おそらくはるかに自由で楽しい社会ではあったようだ。

 

 はたして、明治は明るく、江戸時代は暗黒だったのか・・・

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