先日、テレビで歴史モノをやっていた。当然歴史好きな小生は見たのだが・・・徳川吉宗の目安箱の話を取り上げていた。
享保の改革で設置された目安箱だが、なんと驚くことに吉宗自ら、全部の訴えに目を通していたという。
どこかの総理大臣にも聞かせたいようなことであるが、農民からの訴えも多かったということが言われていた。
そこで、ゲストが「農民が字を書けたんですか」と。別の方が、「寺子屋が・・・」と言っていたが、ほぼスルーされていた。
ははあ、このゲストさんも「暗黒の江戸時代」イメージにハマッているんだと・・・曰く我々は少なからず学生時代の日本史で、「江戸時代の農民は食うや食わずで、遊びにも行けず、ましてや文字も書けなかった」とイメージされている。
しかし、小生は改めて言おう。これらはすべて「明治以降の政府の作ったイメージ」だと。つまり「暗黒の」と冠を付けることで、今は「それよりまし」と思わせる。
あっ、どこかの元総理がよく言ってたのと同じ手法だ。
では言おう・・・明治維新になって、外国人が日本人の識字率の高さに驚いていた。明治になって急に皆識字率が上がったのか? 否すでに江戸時代から高かったのだ。
まさに寺子屋が、農民たちにも機能していたことはわかっている。では・・・なぜ農民の子も寺子屋に行けたのか?
ひとくちにいえば、経済的に余裕があったからだ。えっ、重税に苦しんでいたのでは・・・そこにはからくりがある。
実は江戸時代の検地は初期の一度のみで、その石高が税金のベースになっていたのだ。たとえば、ある土地から20石の米が取れると判定されたとしよう。
ところが、江戸時代を通じて生産量は約3倍に向上している。すると実態は60石で、仮に五公五民としても、20石の五割、つまり10石で済む。
結果として、税率は10/60=16.7%にすぎなくなる。また、伊達家かが有名だが、新田開発などで、田の面積も増えていた。
したがって伊達家の石高は表の石高の5倍くらいあるという研究もある。ともあれ、農民は飢饉のリスクはあれ、我々のイメージとは別に、豊かで旅行にも行っていた。
ついでに言おう。大河ドラマ「晴天を衝け」で渋沢栄一が主人公になっていたが、農民の彼がどうして渋沢という姓を名乗っていたか・・・
我々は江戸時代は武士以外には姓はなかったと教えられてきたが、正しくは「名乗れなかった」というべきで、オフィシャルには名乗ってはいけなかったのだ。
こうした事実でない刷り込みで、我々は今はいいと思い込まされているのかも知れない。
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