
歴史マニアの小生にとっては、ちょっと引っ張られる記事が目に留まった。「聖徳太子失脚」という東○ポなみの狙った見出しだが・・・
記事にあるように、かつての歴史教科書で我々が習った聖徳太子は、今やその存在を否定されつつある。有名なトップ写真も、今では聖徳太子のそれではないという評価もある由。
もちろん厩戸王の存在は否定されていないものの、それと神格化された聖徳太子は別人ということだ。その辺のくだりはこちらの記事を見ていただくことにしよう。
ではなぜ聖徳太子という神格化された存在が必要になったのだろうか。記事にもあるように、聖徳太子の活躍が躍っているのは日本書紀である。
この日本書紀は、奈良時代に編纂されているが、基本的には現政権の正当化を主張するものになるわけだ。当時の政権の中枢は藤原不比等である。

不比等にとって、正当化すべき藤原氏の地位であり、中臣と名乗っていた鎌足からの正当性である。となると、ここで思い出してほしいのが、かつては大化の改新と呼ばれていた乙巳の変のこと(厳密には乙巳の変は大化の改新のプロローグ的な事件だが、あたかも変が改新のように習った人が多いはず)。我々の頭にある蘇我氏=悪役イメージだが、ちょっと考えてほしい。
この事件の前に、崇峻天皇は蘇我氏に暗殺されている。もし、これが事実だとすれば、いかに権勢をほしいままにしていたとしても、とがめられずにいられただろうか。
これに対する合理的な回答は三つある。ひとつは、崇峻天皇を暗殺したのは蘇我氏ではなかった。二つ目は、その事件はなかった。そして三つ目は、蘇我氏こそが天皇だった。
ここで、このことを突き詰めると紙面が足りないので止めるが、もうひとつのポイントは、中大兄皇子と大海人皇子の争い、つまり天智と天武の争いである。
現在ビッグコミックに「天智と天武」という漫画が連載されている。天武の父が蘇我入鹿だったという設定はなかなか大胆なものだが、マニア的にはなかなかよくできたストーリーになっている。
物語はまだ有間皇子のあたりであるが、この壮大なストーリーを展望するかのように、初回は法隆寺の夢殿を近代になって開けたときのエピソードからスタートしている。

表題の「天智と天武」からするとなぜ法隆寺?ってことになるが、そこがこのストーリーの肝になっていくというプロローグである。
歴史でいうと、672年の壬申の乱で、天智の政権を天武が奪取した形だが、その後を継いだのが女帝の持統天皇。彼女は天武の妻だが、天智の娘であり、その後の政権は再び天智系に戻って行くことになった。
そうした流れの中で日本書紀は編纂されていった。つまり日本書紀においては、不比等とともに天智系の正当性をも主張する必要があるわけだ。そんな中で、蘇我氏を悪玉にし、藤原氏が善玉で正当な天智(=中大兄)とともに正しいことをやったのが、乙巳の変(大化の改新)ということにする必要があったのだ。
そして、そのために推古天皇を支える聖徳太子と、横暴を極める蘇我氏が必要だったということになる。
だが、そうして歴史を改ざんしていくと、つじつまの合わないところはいくつも出てくる。たとえば聖徳太子は、蘇我氏と敵対して活躍していたことになっているが、実は彼は蘇我氏系の人物なのだ・・・
また、大王にすぐ就いてもよさそうな中大兄(天智)がなかなか即位せず、けっこう荒っぽいことをしながら、皇極天皇の重祚までさせてつないでいることなども、当時の彼をめぐる複雑な環境を象徴している。
これ以上書きたてると、いくらでも書きたくなるのでやめるが、うーんとはしょって個人的な考えでいうと、法隆寺は蘇我氏の鎮魂のために建てられたものと考えるべきだろう。
天武と持統は仲良し夫婦だったと伝えられている。二人は明日香に合葬されている。ちなみに持統は、日本で最初に火葬された天皇でもある。兄弟げんかの相手の娘ながら仲良し夫婦、しかしその結果、死後奪還した政権は再び天智系に流れていく・・・歴史のあやである。
ついでに言うと、天武は歴史上初めて「天皇」という呼ばれ方をした人物であり、神格化されたのも、この辺からという・・・聖徳太子やこのあたりの研究が進み、彼らは今どんな気分なのだろうか。
これからの歴史研究が楽しみである。
記事にあるように、かつての歴史教科書で我々が習った聖徳太子は、今やその存在を否定されつつある。有名なトップ写真も、今では聖徳太子のそれではないという評価もある由。
もちろん厩戸王の存在は否定されていないものの、それと神格化された聖徳太子は別人ということだ。その辺のくだりはこちらの記事を見ていただくことにしよう。
ではなぜ聖徳太子という神格化された存在が必要になったのだろうか。記事にもあるように、聖徳太子の活躍が躍っているのは日本書紀である。
この日本書紀は、奈良時代に編纂されているが、基本的には現政権の正当化を主張するものになるわけだ。当時の政権の中枢は藤原不比等である。

不比等にとって、正当化すべき藤原氏の地位であり、中臣と名乗っていた鎌足からの正当性である。となると、ここで思い出してほしいのが、かつては大化の改新と呼ばれていた乙巳の変のこと(厳密には乙巳の変は大化の改新のプロローグ的な事件だが、あたかも変が改新のように習った人が多いはず)。我々の頭にある蘇我氏=悪役イメージだが、ちょっと考えてほしい。
この事件の前に、崇峻天皇は蘇我氏に暗殺されている。もし、これが事実だとすれば、いかに権勢をほしいままにしていたとしても、とがめられずにいられただろうか。
これに対する合理的な回答は三つある。ひとつは、崇峻天皇を暗殺したのは蘇我氏ではなかった。二つ目は、その事件はなかった。そして三つ目は、蘇我氏こそが天皇だった。
ここで、このことを突き詰めると紙面が足りないので止めるが、もうひとつのポイントは、中大兄皇子と大海人皇子の争い、つまり天智と天武の争いである。
現在ビッグコミックに「天智と天武」という漫画が連載されている。天武の父が蘇我入鹿だったという設定はなかなか大胆なものだが、マニア的にはなかなかよくできたストーリーになっている。
物語はまだ有間皇子のあたりであるが、この壮大なストーリーを展望するかのように、初回は法隆寺の夢殿を近代になって開けたときのエピソードからスタートしている。

表題の「天智と天武」からするとなぜ法隆寺?ってことになるが、そこがこのストーリーの肝になっていくというプロローグである。
歴史でいうと、672年の壬申の乱で、天智の政権を天武が奪取した形だが、その後を継いだのが女帝の持統天皇。彼女は天武の妻だが、天智の娘であり、その後の政権は再び天智系に戻って行くことになった。
そうした流れの中で日本書紀は編纂されていった。つまり日本書紀においては、不比等とともに天智系の正当性をも主張する必要があるわけだ。そんな中で、蘇我氏を悪玉にし、藤原氏が善玉で正当な天智(=中大兄)とともに正しいことをやったのが、乙巳の変(大化の改新)ということにする必要があったのだ。
そして、そのために推古天皇を支える聖徳太子と、横暴を極める蘇我氏が必要だったということになる。
だが、そうして歴史を改ざんしていくと、つじつまの合わないところはいくつも出てくる。たとえば聖徳太子は、蘇我氏と敵対して活躍していたことになっているが、実は彼は蘇我氏系の人物なのだ・・・
また、大王にすぐ就いてもよさそうな中大兄(天智)がなかなか即位せず、けっこう荒っぽいことをしながら、皇極天皇の重祚までさせてつないでいることなども、当時の彼をめぐる複雑な環境を象徴している。
これ以上書きたてると、いくらでも書きたくなるのでやめるが、うーんとはしょって個人的な考えでいうと、法隆寺は蘇我氏の鎮魂のために建てられたものと考えるべきだろう。
天武と持統は仲良し夫婦だったと伝えられている。二人は明日香に合葬されている。ちなみに持統は、日本で最初に火葬された天皇でもある。兄弟げんかの相手の娘ながら仲良し夫婦、しかしその結果、死後奪還した政権は再び天智系に流れていく・・・歴史のあやである。
ついでに言うと、天武は歴史上初めて「天皇」という呼ばれ方をした人物であり、神格化されたのも、この辺からという・・・聖徳太子やこのあたりの研究が進み、彼らは今どんな気分なのだろうか。
これからの歴史研究が楽しみである。
コメントありがとうございます。石渡氏の説について書かれた内容については、概略拝見いたしました。いろいろな仮説が乱れ飛ぶ中で、正確な年代特定からアプローチした説については、小生も何人かの説を拝読しており、おおよそ石渡氏の説に近い年代になるようですね。
いわゆる倭の五王の比定や、古墳の築造年代については小生が読んだ他の説ともおおむね一致していたように思います。
お話を見ていて、なんとなくですが・・・小生が学生の頃読んだ安本美典氏の統計学的アプローチを思い出しました。
小生は専門家ではありませんので、あまりたいしたことはコメントできませんが、日本書紀が(その編纂目的のために)、一人の人物を複数に分けたり、時代を長くしたりという虚構を重ねて作られたことは賛同します。
そして、実務レベルで編集者たちが苦悩を重ねていたことも激しく同意いたします。
ちなみに、この点は、ブログで紹介したビッグコミックの漫画にも紹介されていたりしております。
語りつくせぬことや、舌足らずなところはご容赦いただきますが、もともとアホネタ専門のブログにつき、ご理解のほど。
と信じています。ぜひ 以下の文 感想聞かせてください。。
『大和民族大移動』
*日本書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治*
失礼無礼きわまりない話ですが、あなたが家系図を作成するとして、
実は、あなたのおじいさんが泥棒だったら、あなたはどうしますか?
昭和18年に隣の酒屋から酒5升盗んだ人だと正直に書けないですね。
でも、良心の呵責から、なんとかして泥棒行為を書き残したいですよね。
簡単です。じいさんに弟があり その架空人物が、盗んだ事にしましょう。
おっと、じいさんの弟はお墓が無くばれますね。では干支60年古くして
明治16年に、ひいひいひいじいさんの妹の夫が盗んだ事にしましょう。
書紀は天皇様の見事な万世一系の家系図を書いた推理小説です。
太古から日本を統治していた事としたい。でも本当の事も書きたかった。
そのため、架空人物を多数創造した。時代も原則60年単位で古くした。
これが、真実を残すために書紀が取らざるを得なかった編集方針です。
もちろん、真実そのままの事も、どうしても書けない真実もありました。
では、架空実在人物が新旧入り混じった小説からの真実の救出法は?
①実在したご先祖のお墓や使用物の年代を正しく求めましょう。
②貴重な金石文を正確に読みましょう。
③地名や人名の語源を冷静に考えましょう。
この3つを追求整理したあとで 初めて日本書紀を読むべきですね。
石渡信一郎は、まず先に、上記①②③を 徹底的に、探究しました。
①古墳や須恵器・土師器・埴輪の絶対年を正しく定めました。
(過去の気象や磁気の変化を考古学の原則で追及した後に)
例えば、弥生後期(5期)は260年頃から350年頃までとしている事
及び 稲荷山古墳550年頃 で、鉄剣の辛亥年=531年
②七支刀・隅田八幡鏡・武寧王陵碑・稲荷山鉄剣を正確に解読した。
(すみません。解読結果詳細は石渡氏と林氏の本を読んで下さい。)
③地名人名の語源を音韻変化の基本原則にのっとり追求しました。
韓(カラ)⇒加夜(かや)・軽(かる)・茶屋(けや)・秦(はた)
大韓(カカラ)⇒大軽(おおかる)・各羅(かから)
南韓(ナムカラ)⇒難波(なには)・長柄(ながら)・中(なか)
東韓(スカラ) ⇒菅谷・早良(さわら)・日十(そか)・蘇我(そが)
大東韓(カスカラ)⇒飛鳥・春日・足柄・橿原・八幡(はちはた)
大東韓(キスカラ)⇒一須賀・石川・鬼前(きせ)・去来紗(いざさ)
大東韓(クスカラ)⇒樟葉・太秦・宇治(うじ)・太(ふつ)
昆支(コンキ) ⇒誉田(ほむた)
今では信者のむらかみからむですが、石渡論の理解に半年以上です。
通説の古墳年代の根拠を知らず、通説年代は当たり前の事でした。
即ち、誉田山も大仙古墳も5世紀初頭と 無意識に思っていました。
さらに、百済皇子余昆が書紀では昆支だという事を忘却してました。
その昆支が倭の5王の武で、誉田山古墳に眠る応神でもある。
その弟が継体であり仁徳でもあり仁徳から武列までは架空である。
獲加多支鹵は欽明であり継体の子ではなく昆支の子である。
その息子がアメノタリシヒコで用明で蘇我馬子で聖徳太子でもある。
とくれば、なんでもありの飛んでも説をよくもここまでまじめに書くなあ。
石渡信一郎も林順治も トンデル人だ。と思ってしまいますよね。
しかし、音韻変化の原則から『飛鳥の語源は大東韓(かすから)だ』
の説明を熱心に 語っている文章の迫力には心を打たれました。
で、稲荷山鉄剣の辛亥年=531年で古代史を語る人は誰もいない。
の文章を読んだ時、この理論が他説を圧倒する事に気づきました。
通説の古墳年代を無意識に受け入れていた私がトンでいたのです。
なんと、小6の私の息子の社会の参考書にも書いてありましたが、
通説は稲荷山鉄剣の獲加多支鹵大王を書紀の中の雄略大王として
辛亥年=471年としてた。これを絶対基準に古墳年代を決めていた。
ワカタケルは大泊瀬幼武じゃない可能性の追求が甘いままでした。
おかしな話ですよね。書紀の記述が真実かどうか検討しているのに
書紀の記述の大泊瀬幼武の実在は真実からスタートしていたなんて。
結果的に、通説での全古墳の絶対年は60年以上古すぎたのです。
4世紀前半は弥生時代で、古墳時代はAD350年からなのです。
これは寒かった弥生後期5期が260年~340年頃でも裏付けれます。
『通説の古墳年代を 60年以上新しくして古代史を見直すべき』
との提案が石渡説の基本で他説との相違点で最重要ポイントです。
これが理解できないと石渡論はトンでる空想物語になります。
では、531年の根拠は?『完本聖徳太子はいなかった760円』より
①草冠ぬきの獲の字は 中国でも6世紀に初めて使用した。
②発掘関係隊長の斎藤忠も副葬品(銅わん等)から 531年説。
③稲荷山古墳と同年代の野々上窯の熱残留磁気測定結果。
④少し新しい江田船山古墳履が武寧王の墓の履と文様が似る。
石渡論は辛亥年=531年で須恵器や土師器や埴輪の年代を求めます。
典型例は『須恵器大成(田辺昭三)』を60年新しくしている事です。
で、全国の主要古墳年代を通説より基本的に60年新しく求めます。
さらに古鏡&刀の金石文と中国の文献で実存した人物の中から
その生存&死亡時期と照らし、各々の古墳披葬者を選び出します。
これで書紀に全く頼っていない石渡論の基本年表が完成します。
古墳------年代----被葬者
①箸墓-----385年頃-倭王旨(七支刀)
②渋谷向山古墳-410年頃
③行燈山古墳--430年頃-倭王讃(宋書)
④五社神古墳--440年頃-倭国王珍(宋書)
⑤中ツ山古墳--450年頃-倭国王済(宋書)
⑥石津山古墳--475年頃-倭国王興(宋書)
⑦誉田山古墳--510年頃-倭王武・余昆(宋書)・日十(隅田鏡)
⑧大仙古墳---520年頃-男弟王(隅田鏡)
⑨見瀬丸山古墳-570年頃-獲加多支鹵(稲荷山鉄剣)
⑩太子西山古墳-585年頃
⑪石舞台古墳--620年頃-阿毎多利思比孤(隋書)
⑫天武陵(旧)-645年頃-ワカミタフリ(隋書)
⑬持統陵(旧)-645年頃
で、ここから初めてこの年表を書紀の記述と照らして検証していきます。
このとき、先述の音韻変化の原則から求めていた語源が役に立ちます。
コンキ⇒ホムタ や スカラ⇒ソガ や ウズ⇒フツは典型例でしょう。
こうして以下の本当の大王様の家系図の一覧表が探し出せました。
古墳---被葬年-本名-書紀の中の名前【家系図】
①箸墓---393-旨-ミマキイリヒコ【初代】
②渋谷向山-409-?-イクメイリヒコ【①の子】
③行燈山--438-讃-イニシキイリイコ【②の子】
④五社神--442-珍-ワカキニイリヒコ&ワカタラシヒコ【③の弟】
⑤中ツ山--462-済-ホムタノマワカ&尾張連草香【③の孫】
⑥石津山--477-興-カワマタナカツヒコ&凡連【⑤の子】
⑦誉田山--507-武・日十・余昆-昆支&ホムタワケ【⑤の子の婿】
⑧大仙---531-男弟-ヲホト&オホサザキ【⑤の子の婿。⑦の弟】
⑨見瀬丸山-571-ワカタケル-アメクニオシヒラキヒロニワ&蘇我稲目【⑦の子】
⑩太子西山-585-?-ヌナクラノフトタマシキ【⑨の子】
⑪石舞台--622-アメノタリシホコ-タチバナノトヨヒ&聖徳&馬子【⑨の子】
⑫旧天武陵-645-ワカミタリフ-善徳&蘇我蝦夷【⑪の子】
⑬旧持統陵-645-?-蘇我入鹿【⑫の子】
大和民族は『うるわしの土地』を求め大陸から大量に移動してきました。
まずは西暦330年頃から半島南部を、460年頃からは百済を通って。
1回目の代表は旨(崇神)、2回目は武(応神)&男弟(継体)です。
で、各々の起因は1回目が楽浪郡の崩壊、2回目は高句麗の南下です。
書紀の隠したこの事実は、現代日本人には小説(書紀)よりも奇です。
というより、受け入れがたく、石渡論を無礼者と思いますよね。
しかし、考えようによっては当たり前だったのではないでしょうか?
大陸は寒かった。温暖な飢えない日本列島は『うるわしの土地』だった。
新羅を置き去り、自ら大和民族大移動し、海を渡り来ていたのですよね。
さあもう21世紀です。石渡論が世に出て4半世紀も経ってしまった。
ぼちぼち古墳を60年新しくして、真実を考え、受け入れませんか?。
隣家の酒樽から酒5升分のお金が入ったじいさんの名前の財布が
見つかった。稲荷山古墳の鉄剣・隅田八幡鏡・七支刀のことですよ。
じいさんはお酒を飲んでお酒を買いに行き転んだ。よかった。無実です。
ひいひいひいじいさんに妹夫妻はいなかった。雄略大王もいなかった。
まだまだまだまだ書きたいことありますが 最後にまとめを書きます。
石渡論は古墳年代を正しく求めスタートします。そのあとで書紀です。
ところが 不幸な通説は架空雄略大王の実在からスタートし迷走中。
石渡信一郎が真にすばらしいのは 日本書紀編集者たちが持つ
・ひとりの実在人物をふたり・さんにん・・と分けざえるを得ない苦悩。
・架空大王をひとりふたり・・30人31人と創造せざるを得ない苦悩。
・時代を60年120年180年240年・・神話へと古くせざえるを得ない苦悩。
すなわち、『真実が書きたい』と言う叫びを痛切に理解している事です。
見事な万世一系の筋書とは異なる飛んでた真実があるのだから
書紀は真実を書けば書くほどでたらめになる自己矛盾を持つ。
書紀は でたらめではない。でたらめにならざるを得なかった。
石渡説がトンでるのではない。飛ばされた真実を探しているのです。
『飛ばして申し訳ないという良心の呵責を持った家系図』も眠るはず。
これを見抜き信じるから、真実が救い出せるのです。すばらしいです。
私は近日、以上を前書きに『大和民族大移動』という本を買きます。
石渡信一郎を東大か京大の古代史教授に推挙するために。。で、
副題は『書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治』
で、聖徳太子と蘇我馬子と用明大王 そして アメノタリシホコは
すべて たった一人の人物です。その人を分けて書いているのです。