台原界隈譚〈1〉

伊達政宗の長男 秀宗 は
故あって 四国 宇和島藩の
初代藩主となった
政宗が 財政に長けた家臣
山家清兵衛を伴わせたが
緊縮財政を勧めた為
反対派から「上意なりし」として
一家は全滅させられた
その後 財政難は回復し
清兵衛は見直され
秀宗によって清兵衛を祀る
和霊神社⛩️が創建された
後年 仙台の山家家によって
分霊された
その社は 台原五丁目に
遷された
〈台原五丁目12の30〉
また坂本龍馬の先祖は
屋敷の守神として
和霊神社を宇和島より
分霊した
脱藩の朝 龍馬はそこで
悲壮な決意を誓ったとの
説もある
私達の暮らす 瓦山の直ぐ近くに
政宗・秀宗・清兵衛・龍馬の
名残在り

2011.3.11東日本大震災から
10年を経て
形の復興は進捗したかに見えるが
心の傷は かたちを変えて
深まるばかりである
ちょうど卒業式の時期と重なり
被災地の挙行の様子が
各方面で取り上げられた
そのなかで
階上〈はしがみ〉中学校の
梶原裕太君の 答辞 が
年齢も立場も超えて
多くの人々の
心を揺さ振りました
今も 〝前を向いて進もう“との
勇気を与えて下さいます
添付しましたので
10年前のご自分に重ねて
お読み下さい
ある中学生の「答辞」
今年8月に刊行された
平成22年度『文部科学白書』に
東日本大震災で被災した
宮城県気仙沼市立階上〈はしがみ〉
中学校の卒業式で 梶原裕太君が
読んだ「答辞」が
全文掲載されたとNHKニュースで
報じられていました
一人の中学生の記した文章が
「白書」に
全文掲載されるということは
極めて異例のことだそうです
階上中学校の卒業式は3月12日
つまり震災の翌日に予定されて
いましたが 10日遅れて
3月22日同校の体育館で
行われました
卒業生の内一人は死亡
二人は行方不明という
悲しい状況のなかでの
卒業式でした
卒業式の模様はテレビで
放映されましたが
溢れそうになる涙を
懸命にこらえながら
未来へ向かう決意を誓う
梶原君の姿に
多くの人々は涙しました
ご存知の方もおられるでしょうが
「答辞」の全文を
ご紹介したいと思います
「答辞」
今日は未曾有の大震災の傷も
癒えないさなか 私達のために
卒業式を挙行していただき
有難うございます
ちょうど10日前の3月12日
春を思わせる暖かな日でした
私達はそのキラキラ光る
日差しのなかを
希望に胸を膨らませ
通い慣れたこの学舎を
57名揃って巣立つはずでした
前日の11日
一足早く渡された
思い出の詰まったアルバムを開き
10数時間後の卒業式に
思いをはせた友も
いたことでしょう
「東日本大震災」と名付けられる
天変地異が起こるとこも知らず・・
階上中学校といえば
「防災教育」といわれ
内外から高く評価され
十分な訓練もしていた
私達でした
しかし
自然の猛威の前には
人間の力は あまりにも無力で
私達から大切なものを
容赦なく奪っていきました
天が与えた試練というには
むご過ぎるものでした
辛くて 悔しくてたまりません
時計の針は
14時46分を指したままです
でも 時は確実に流れています
生かされた者として 顔を上げ
常に思いやりの心を持ち
強く正しく たくましく
生きて行かなければなりません
命の重さを知るには
大き過ぎる代償でした
しかし
苦境にあっても
天を恨まず
運命に耐え
助け合って生きていくことが
これからの私達の使命です
私達は今
それぞれの新しい人生の一歩を
踏み出します
どこにいても 何をしていようとも
この地で仲間と
共有した時を忘れず
宝物として生きていきます
後輩の皆さん
階上中学校で過ごす
「あたりまえ」に思える日々や
友達が如何に貴重なものかを
考え いとおしんで
過ごして下さい
先生方
親身のご指導有難うございました
先生方が如何に私達を
思って下さっていたか
今になってよく分かります
地域の皆さん
これまで様々なご支援を頂き
有難うございました
これからも宜しくお願い致します
お父さん
お母さん
家族の皆さん
これから私達が歩んでいく姿を
見守っていて下さい
必ず良き社会人になります
私は
この階上中学校の生徒で
いられたことを誇りに思います
最後に
本当に 本当に
有難うございました
平成二十三年 三月二十二日
第六十四回卒業生代表
梶原 裕太