瓦山瓦版

 貞観地震〈869年〉で倒壊した多賀城の復興瓦を焼いた登窯や記録の残る 仙台市瓦山町内会の古老の呟き

🟣瓦山瓦版No.114🟣2021.3.1版

2025-03-21 12:08:00 | 日記
   台原界隈譚〈1〉
  伊達政宗の長男 秀宗 は
故あって 四国 宇和島藩の
   初代藩主となった
 政宗が 財政に長けた家臣
  山家清兵衛を伴わせたが
 緊縮財政を勧めた為
反対派から「上意なりし」として
 一家は全滅させられた

   その後 財政難は回復し
  清兵衛は見直され
 秀宗によって清兵衛を祀る
   和霊神社⛩️が創建された
 後年 仙台の山家家によって
  分霊された
 その社は 台原五丁目に
   遷された
    〈台原五丁目12の30〉

       また坂本龍馬の先祖は
  屋敷の守神として
 和霊神社を宇和島より
   分霊した
  脱藩の朝 龍馬はそこで
 悲壮な決意を誓ったとの
   説もある

 私達の暮らす 瓦山の直ぐ近くに
政宗・秀宗・清兵衛・龍馬の
  名残在り




 2011.3.11東日本大震災から
10年を経て
 形の復興は進捗したかに見えるが
心の傷は かたちを変えて
  深まるばかりである

 ちょうど卒業式の時期と重なり
  被災地の挙行の様子が
 各方面で取り上げられた

    そのなかで 
  階上〈はしがみ〉中学校の
 梶原裕太君の 答辞 が
年齢も立場も超えて
  多くの人々の
 心を揺さ振りました

 今も 〝前を向いて進もう“との
  勇気を与えて下さいます
 
   添付しましたので
  10年前のご自分に重ねて
   お読み下さい

 ある中学生の「答辞」

  今年8月に刊行された
 平成22年度『文部科学白書』に
東日本大震災で被災した
宮城県気仙沼市立階上〈はしがみ〉
中学校の卒業式で 梶原裕太君が
 読んだ「答辞」が
全文掲載されたとNHKニュースで
報じられていました
 
 一人の中学生の記した文章が
「白書」に
全文掲載されるということは
 極めて異例のことだそうです

 階上中学校の卒業式は3月12日
つまり震災の翌日に予定されて
いましたが 10日遅れて
   3月22日同校の体育館で
  行われました
 卒業生の内一人は死亡
二人は行方不明という
  悲しい状況のなかでの
   卒業式でした
 卒業式の模様はテレビで
放映されましたが
 溢れそうになる涙を
  懸命にこらえながら
 未来へ向かう決意を誓う
梶原君の姿に
 多くの人々は涙しました
 
 ご存知の方もおられるでしょうが
「答辞」の全文を
   ご紹介したいと思います

 「答辞」
 今日は未曾有の大震災の傷も
癒えないさなか 私達のために
 卒業式を挙行していただき
  有難うございます
 ちょうど10日前の3月12日
春を思わせる暖かな日でした
私達はそのキラキラ光る
日差しのなかを 
希望に胸を膨らませ
通い慣れたこの学舎を
 57名揃って巣立つはずでした

 前日の11日
  一足早く渡された 
 思い出の詰まったアルバムを開き
10数時間後の卒業式に
 思いをはせた友も
  いたことでしょう
 「東日本大震災」と名付けられる
天変地異が起こるとこも知らず・・

 階上中学校といえば
「防災教育」といわれ
内外から高く評価され 
 十分な訓練もしていた
   私達でした
しかし
 自然の猛威の前には
人間の力は あまりにも無力で
私達から大切なものを
 容赦なく奪っていきました
天が与えた試練というには
 むご過ぎるものでした
辛くて 悔しくてたまりません

  時計の針は
 14時46分を指したままです
 でも 時は確実に流れています
生かされた者として 顔を上げ
  常に思いやりの心を持ち
 強く正しく たくましく
生きて行かなければなりません
 命の重さを知るには
大き過ぎる代償でした
しかし
苦境にあっても
天を恨まず
運命に耐え
助け合って生きていくことが
これからの私達の使命です

私達は今
それぞれの新しい人生の一歩を
踏み出します

どこにいても 何をしていようとも
この地で仲間と
共有した時を忘れず
宝物として生きていきます

後輩の皆さん
階上中学校で過ごす
「あたりまえ」に思える日々や
友達が如何に貴重なものかを
考え いとおしんで
  過ごして下さい

 先生方
親身のご指導有難うございました
先生方が如何に私達を
思って下さっていたか
今になってよく分かります

 地域の皆さん
これまで様々なご支援を頂き
有難うございました
これからも宜しくお願い致します

 お父さん
 お母さん
 家族の皆さん
これから私達が歩んでいく姿を
見守っていて下さい
必ず良き社会人になります

私は
この階上中学校の生徒で
いられたことを誇りに思います
最後に
本当に 本当に
有難うございました

平成二十三年 三月二十二日
第六十四回卒業生代表
梶原 裕太 

🔴瓦山瓦版No.113🔴2021.2.1版

2025-03-18 00:23:00 | 日記
  1936年・昭和11年2月26日
  2.26事件  85年前である
 健全財政主義者で
軍部の要求する予算を
  常に削った
 大蔵大臣・高橋是清は
決起将校らの凶弾に倒れた
  83歳であった

    是清は1854年
   狩野派の絵師と
 行儀見習奉公の少女との
   間に生まれた

  妻は是清を憐れみ
 その子を
  仙台藩足軽・髙橋家へ
 里子に出し 後実子となる
   仙台藩士である
  幕末 仙台藩は
 足軽の子弟を選んで
横浜のヘボン博士に就かせ
   英語を学ばせた
  是清 11歳 その後14歳で
 アメリカ🇺🇸留学もさせている
  幕府瓦解の報で帰国

   明治17年「共立学校」
 〈現在の開成学園〉を創立

  「大学予備門」
 〈後の東京大学〉の
   受験生の為の英語の
     補習校であった

 正岡子規が大学予備門を
受験すべく 松山中学を中退し
 共立学校に入学
  是清に学んでいる

 また 落語家
   五代目 柳家小さんは
 2.26事件に徴兵され
  同事件を体験している
 「実弾を渡され ことの重大さに
  慄然とした」と述懐している
 たった 85年前の
      出来事である
 

 
 瓦山町内に 白鼻芯 出没
町内に空家もポツポツ増え
 格好の棲みかになっている様子
・猫🐈の小型
・鼻筋に白い白粉を引いた様に 
   線が一本
 身軽にピョンピョン
フェンスの上を渡り歩き 
  運動会宜しく 我物顔
 屋根裏や軒下に棲みつかれると
  糞や菌🦠の被害にあいます
   ご注意下さい
 


 庭に来た 白鼻芯




  岡本太郎氏の父君
 岡本一平氏が描いた
  達磨さん と呼ばれていた
   高橋是清

🔴瓦山瓦版No.112🔴2021.1.1版

2025-03-15 23:16:00 | 日記
 新しい年を迎えました
CORONAで終始した一年でした
  
  その人種によって
 罹患状況が異なるのでは・・
  との説が浮上
 太古 ネアンデルタール人は
  屈強な体躯を持ち
 家族単位で生活
  しかし激しい気候変動のなか
 大きな身体を維持するに
充分な獲物を得られなくなり
  ヨーロッパの南端
 ジブラルタルの
  ゴーラム洞窟で
   終焉を迎えた

   小柄で痩せた
  ホモサピエンスは
 死後の世界を想像する
  能力を持ち
同じものを信じることで生まれた
 強い連帯感 強固な集団力を
   獲得
 気候変動の際の食糧不足も
集団同志の交流で
 凌いだ〈しのいだ〉

 ドイツ🇩🇪の
  マックス・プランク
   進化人類学研究所で
 ネアンデルタール人の骨🦴から
  DNAを解析
   現代人と比較した処
 アジア・ヨーロッパ人の
  2%に同じDNAがみられた

 アフリカを出たホモサピエンスが
ネアンデルタール人と交配し
  現代人に受け継がれて来たと
 推察される

  絶滅したネアンデルタール人の
 DNAが現代人に
  受け継がれていることに
    感動
  
  さて免疫との関係は
 今後の研究に委ねる
  研究は
 日々 新たな発見を
  続けている


 マーケットで
ポテトサラダ🥗を買った
 赤ん坊を連れた母親に
「母親なら ポテトサラダくらい
 買わずに 作ったらどうだ」と
  言い放った老人
〈ポテサラ論争〉に発展
 町内の若いお母様から
  どう思いますか?と
    問われた

  手作りは勿論理想だが
 子育てに 仕事に忙しい
   母親たち
 便利なものは活用して
  “気抜けごはん“でも
  自分を責めないで❗️
 手作りに拘り 
  疲れることなかれ
 赤ちゃんが育てば
  一緒に台所に立って
ポテトサラダを作る
   ゆとりも出来るでしょう




🟢ネアンデルタール人
  終焉のゴーラム洞窟で
   発見された
  ハッシュタグ#️⃣と
 名付けられた
  石に刻まれた 伝言
🟢小さな提重〈さげじゅう〉に
  お節料理を詰めて
持って来て下さった Uさん
 さながら プチお正月の様相

  出身の土地柄
 様々な料理を教え合う
  仲間の存在
 縁あって
  同じ町内に暮らす
   誼〈よしみ〉
 大切にしてゆきたいものです

  







🔴植樹・仙䑓枝垂桜🔴2025.3.11

2025-03-11 14:08:00 | 日記




 
  その昔 ここは
 宮城県警察学校の射撃場
  屋根も柵も無く
 土塁に的🎯を立てて
    パンパンパン🔫
  その後 住宅地と変化
 射撃場は警察学校と共に
    南隣の名取市へ移転

  跡地へマンションが建設され
 その際 敷地内にあった
  通称 種蒔櫻 と呼ばれ
   町内のシンボルツリーで
 あった桜の老木の保存を
  建設会社にお願いし
   フェンスを曲げて
  残していただきました
   それが2002年
  その頃も老木で 
   その後23年間
 頑張りましたが 猛暑や
  うろ に雨水が溜まり
 樹木の芯が腐り始めたことで
  倒木を案じ 伐採決定

 仙台市公園課で
  新しい櫻の木を
   植樹してくれました

 100年程の年月
  様々な出来事 人々の営み
 喜び哀しみ 出会いと別れ
  そして 東日本大震災も・・
 静かに見守ってくれた
   櫻の木
  
  今日は14年目の3.11 
            亡くなられた方々
  行方知れずの方々
 そして 残された方々のこと
   世は移り変われど
  忘れません いつまでも

🟣歯🦷・発芽🟣2025.3.3

2025-03-10 13:53:00 | 日記
 おじいちゃん
おばあちゃん 見て 見て
  僕の歯🦷
 出て来たよっ
   初めは下に2本なんだって 
  ムズムズするな〜って
 思ってたんだ💦



 それからね お父さんに
自分で持ってストローで飲む
  カップを買ってもらったんだ

 麦茶を入れてもらって
  飲んでみたら
 なあ〜んだ
   簡単に飲めちゃったよ

  歯🦷は生えてきたし
   ストローマグから
 飲める様になったし
  お兄ちゃん気分だよ
   今度見せてあげるね