先月、釣行中の事故によって鮎蔵さんがお亡くなりになられました
行方不明の一報を聞いたとき、なんとも信じられなく、ひょっこり元気に川を上がってこられるんじゃないかとの期待を捨てきれなかったのですが…
自分と鮎蔵さんが知り合ったのは、もうかれこれ20年も前のことになります。当時の自分は、釣友も知り合いもなく、好きな釣りに出るときはいつも一人で釣りの話をする仲間もおらず…という感じでした。また、その当時はネット世界もまだ常時接続が普及しておらず、ブログやSNSもない時代。自分から発信するための方法はホームページを開設するしかない時代。そんな時代ですから、高津川の鮎釣り情報をネット上で公開してるウェブサイトなんて、一つ二つ三つと数えるほどしかない状況でした。そんなころ鮎蔵さんは、当時所属されていた釣友会のホームページを立ち上げ、管理者になり、他のホームページを探索し、この「かずべ~の釣り情報」を見つけてくれ、掲示板に交流のメッセージを書き込んでくださった、、それが初めての出会いでした。
その後、お互いのホムペの掲示板での書き込みで、交流を深め合いました。時には伊藤稔名人を含めて、当時の新竿である「ゼロドライブ」のコンセプトについて議論を交わしたこともありました。当時の鮎蔵さんは、渓流釣りでも鮎釣りでもいつもイダ掛け師さんと一緒の釣行。そこへ僕も交じらせてもらって一緒に釣りをしたことも何度かありました。また、その頃には、僕もこのホムペを通じてつながり合えた仲間も増え、「チームかずべ~」として毎年オフ会をして交流会を開いていたのですが、鮎蔵さんはそんな時には、いくら自分が絶好調に鮎を掛けていたときでも集合時間には駆けつけて、オフ会を賑わせてくださいました。そんなやさしさ、人とのつながりを大切にする温かい人柄を持ち合わせていらっしゃる方でした。
また、ある終盤の鮎釣り。佐波川が好調で、鮎蔵さん、イダ掛け師さんに和鮎さんも加わって来川された時、用事を終えて、急ぎ鮎蔵さんが入っているポイントへ行き、日が暮れるまで一緒に竿を出した事がありました。夕方、竿をたたんで鮎蔵さんの元へ行って「ちょうど40匹でした。」というと、鮎蔵さんは舟から鮎を出して「1,2,3,4…41。なんとか面目を保てました。」って、僕は交流のつもりでしたが、なんとも勝負好きで負けず嫌いな鮎蔵さんの性格がよくうかがえました。その負けず嫌いさでメキメキと活躍の場を広め、ついにマスターズ全国大会にも出場されるほどに活躍するトーナメンターになられました。そんな姿を陰ながら応援していました。4年間も執拗にバンブーストリートに通って確立した鮎蔵式玉使いは、他の誰もまねできることのない鮎蔵さんだけができる必殺釣法でした。
年月が立ち、それぞれの生活にも変化があり、その後、ご一緒する機会は減ったけれど、トーナメントや普段の釣りの釣り場で出会ったときは、必ず挨拶を交わし、一言二言言葉を交わす間柄。つながり合ったホームページは今も相互リンクの間柄でした。
これからもガンガン活躍される姿を見せてもらえると思ったのにとても残念で寂しいです。でもきっと鮎蔵さんはあっちの川でもバンバン駆け回って鮎を掛け続けていくんだろうなと思います。
これまでの交友と数々のお世話に感謝してここに追悼し、ご冥福をお祈りしたいと思います。
自分と鮎蔵さんが知り合ったのは、もうかれこれ20年も前のことになります。当時の自分は、釣友も知り合いもなく、好きな釣りに出るときはいつも一人で釣りの話をする仲間もおらず…という感じでした。また、その当時はネット世界もまだ常時接続が普及しておらず、ブログやSNSもない時代。自分から発信するための方法はホームページを開設するしかない時代。そんな時代ですから、高津川の鮎釣り情報をネット上で公開してるウェブサイトなんて、一つ二つ三つと数えるほどしかない状況でした。そんなころ鮎蔵さんは、当時所属されていた釣友会のホームページを立ち上げ、管理者になり、他のホームページを探索し、この「かずべ~の釣り情報」を見つけてくれ、掲示板に交流のメッセージを書き込んでくださった、、それが初めての出会いでした。
その後、お互いのホムペの掲示板での書き込みで、交流を深め合いました。時には伊藤稔名人を含めて、当時の新竿である「ゼロドライブ」のコンセプトについて議論を交わしたこともありました。当時の鮎蔵さんは、渓流釣りでも鮎釣りでもいつもイダ掛け師さんと一緒の釣行。そこへ僕も交じらせてもらって一緒に釣りをしたことも何度かありました。また、その頃には、僕もこのホムペを通じてつながり合えた仲間も増え、「チームかずべ~」として毎年オフ会をして交流会を開いていたのですが、鮎蔵さんはそんな時には、いくら自分が絶好調に鮎を掛けていたときでも集合時間には駆けつけて、オフ会を賑わせてくださいました。そんなやさしさ、人とのつながりを大切にする温かい人柄を持ち合わせていらっしゃる方でした。
また、ある終盤の鮎釣り。佐波川が好調で、鮎蔵さん、イダ掛け師さんに和鮎さんも加わって来川された時、用事を終えて、急ぎ鮎蔵さんが入っているポイントへ行き、日が暮れるまで一緒に竿を出した事がありました。夕方、竿をたたんで鮎蔵さんの元へ行って「ちょうど40匹でした。」というと、鮎蔵さんは舟から鮎を出して「1,2,3,4…41。なんとか面目を保てました。」って、僕は交流のつもりでしたが、なんとも勝負好きで負けず嫌いな鮎蔵さんの性格がよくうかがえました。その負けず嫌いさでメキメキと活躍の場を広め、ついにマスターズ全国大会にも出場されるほどに活躍するトーナメンターになられました。そんな姿を陰ながら応援していました。4年間も執拗にバンブーストリートに通って確立した鮎蔵式玉使いは、他の誰もまねできることのない鮎蔵さんだけができる必殺釣法でした。
年月が立ち、それぞれの生活にも変化があり、その後、ご一緒する機会は減ったけれど、トーナメントや普段の釣りの釣り場で出会ったときは、必ず挨拶を交わし、一言二言言葉を交わす間柄。つながり合ったホームページは今も相互リンクの間柄でした。
これからもガンガン活躍される姿を見せてもらえると思ったのにとても残念で寂しいです。でもきっと鮎蔵さんはあっちの川でもバンバン駆け回って鮎を掛け続けていくんだろうなと思います。
これまでの交友と数々のお世話に感謝してここに追悼し、ご冥福をお祈りしたいと思います。
合掌