三田和実-陶房KAZUMITACO.

やきものと雑談

縄文文化と小山市寺野東遺跡

2015年02月09日 | 史跡見学

元々自分の古代史への興味は、日本人及び日本のアイデンティティを探ってみたいという興味から始まり、その中心は三輪山と飛鳥を中心にしていたのだが、気がついてみるとどんどんその興味が深まり弥生、縄文時代にまでさかのぼり、とうとう最近では同時代の郷土史にまで入り込んできてしまった。天孫降臨から奈良文明へといった華々しい歴史に比べると栃木の文化は実に地味なもので古墳などは荒れ、国宝級の遺跡なども数少ないがそれを地道に研究している研究者の方々の講義を聴いていると頭が下がる思いがする。


今回は小山市にある寺野東遺跡から県内最大級の吾妻古墳近辺の古墳散策に行って来た。

寺野東遺跡は田川沿いにつづく旧石器時代から平安時代までのムラと墓地の集積地を工業団地の造成に伴い、先に発掘調査した。その一部を縄文時代後期の形で保存した広場。例によってほとんど何もないので何も知らなければゴルフ場跡に見えるが縄文後期の環状集落の地形が見てとれる。鬼怒川や那珂川といった一級河川は物資の輸送には向くがこの田川のような小さな川沿いの方が人には住みやすいようだ。遺跡も多数発掘されており中でも3万2000年前の旧石器時代の石器も発掘されているのはたいしたもの。

縄文時代というのはおよそ1万6500年(紀元前145世紀)前から紀元前10世紀迄までつづいた(資料により大きな差がある)。底が深いですな~。その間、遺跡に破壊の跡が無い事から大きな争い、戦乱といったものが無かったと言われている。本当だったらたいしたものだなー、約一万5000年間ですよ。

前回、岡本太郎の縄文でも書いたが太郎さんが発見しなければ縄文は文化と認められなかった。当時の研究者はその遺跡の荒々しい表現ににこれは野蛮人だとしか思えなかったのだろう。反面弥生の装飾性のない柔和な埴輪の雰囲気、稲作こそ日本人のルーツと認めたかったのだろう。が弥生時代こそ戦乱の時代である。開墾という重労働から首長が生まれ、領地拡大という面から他のムラを襲い、やがて古墳時代ヘとつづく豪族が頭角を現してくる。その意味ではよほど弥生人の方が野蛮人ではないか(鳥取県の青谷上寺地遺跡などその代表である)。

そう思うと、争いを避けた縄文人の約40%DNAをもつと言う現代の日本人。憲法9条の遺伝子があるのかな。

追記

ちなみに私の周りには憲法9条を守る会の人が多く、私は誘いのサインを断った事がある。9条には矛盾がある思う。しかし、それを扱う人間が信用出来ないから憲法の変更には反対なのです。改正になるとは思えません。ましてや時の政権(2分の1の過半数を持つ与党)都合が悪くなればその都度、国民を煽り国民投票で憲法の変更を狙うなどという96条の変更には絶対反対します。(法律は国民を縛るもの、憲法は権力者を縛るものなのです。)


寺野東遺跡


自然破壊は稲作の始まった弥生時代から始まったと言われてます。大規模な土地改良と米を同じ田んぼで作る事から土地の連作障害を引き起こすからです。でもやっぱりご飯は食べたいんですけど。





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