振り向けば大宮の夜が明ける。 少し変わった角度から眺めるの!

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その時々の目に留まったことなどを楽しくユーモアも交えて
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見沼田んぼを掘ると縄文貝殻が出てくるかも?

2018-10-18 23:08:54 | ブログ

 浦和パルコの前で面白い看板を発見しました。

雨の降る日に傘をさしながら写真を撮りました。

 

題して「県沼の簡単な歴史」

 

 

へえ〜〜〜!

 

2万年前の氷河期最盛期の海面は現在より120cm低かった。

その後海面上昇により縄文時代は、海面が3〜5cm高かった。(推定)

見沼田圃は、東京湾の海水が入り込む入江でこの時に堆積した土砂により見沼田んぼ

の低地が形成されたという。

 

見沼田圃周辺は、そのころ形成された縄文時代前期の貝塚などの遺跡が数多く見られる。

 

 

 

 

 

 

弥生時代から1628年頃までは、沼、湿地の時代でした。


奥東京湾は弥生時代(約6000年前)に入ると海岸線が後退し、荒川の下流が土砂で

次第に高くなり東京湾と分離した沼や湿地となり・入江沼・鳩沼・深作沼(鶴巻沼)

など多数の沼が繋がる広大な沼沢地となった。

 

 

 見沼は、(三沼・箕沼・御沼とも表記されているのは、当時沼であったな残り)、

Y字型3方向に湾曲して伸び、岬や入江も多い複雑な地形だった。

 

 


 


1629年から1727年頃は、農業用溜池の時代

灌漑用水確保のため堤防を作り水をためたこの灌漑用ダムを「県沼溜井」と呼び、

土砂堆積で溜井の貯水能力は低下の一途をたどり、沼周辺では水害が頻発するよう

になった。

 




「浦和見沼の歴史」の画像検索結果

世紀の大工事!

 

 


水色が見沼

世紀の大工事!

 

 

 

 

 

 

そして1728年から現在までは、田園の時代と区分される。


 

江戸時代入ると、それまで手付かずであった見沼も開発が始まった。

 

1727年(享保12年)享保の改革(幕府の財政改革)で吉宗(8代将軍)が新田

開発を命じた。

 

1728年(享保13年)見沼溜池を干拓、代用に利根川から見沼代水西縁・東縁を

掘り水を引き見沼は田圃として生まれ変わった。


 

見沼干拓後は加田屋など商業資本も加わった新田開発が進み、開発面積1,228ha

新田面積1,172haの見沼田圃が完成した。


それ以後、この地は肥沃な穀倉地帯となった。

さらに、見沼干拓に併せて八丁堤跡に、江戸とを結ぶ県沼通船が開通、

見沼代用水流域の川船輸送の発達にもつながった。

 

 

現在埼玉県は「見沼田圃の保全・活用・創造の基本方針」を策定し県沼を保護

している。

これ以後現在に至るまで、急速な都市化の波が押し寄せたにもかかわらず、

首都圏最大と言われる緑地帯を保っている。

 

簡単ですみません。

白雪姫は知らなかったので驚きました。

 


 

裁定が下った!

桃を流して下さい。

 

 



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