うつ解消マニュアル
(脳及び心疾患並びに認知症及び更年期障害予防)
第48回目(2009・8・30作成)
(マニュアルは第1回目にあります。常に最新版にしています。)
リクエストに応えて、再録します!
カテゴリー「人間関係の達人になるために」
グー(2007.7.1開設)のブログに開設中
http://blog.goo.ne.jp/kenatu1104
ブログの左側のカテゴリーを手がかりに
記事を読んでくれている幾人かのブログフレンドから、
適切に仕分けされていない記事があるという話がありました。
実は、投稿記事に対して、カテゴリーはひとつしか付けられません。
だから、二つ以上のカテゴリーを含む記事の時は、
主な記事のカテゴリーにしていました。
カテゴリーで読んでいる、読みたい、再読したいの要望に応えるべく、
二つ以上のカテゴリーを含んでいる投稿記事をカテゴリー別にしてみました。
最初からお付き合い戴いている、
全部読んでいると言うブログフレンドの皆さんは、
44回目から51回目は飛ばして下さい。
以下、再録したものです。
悪しからず。
第19回目(2008・11・22作成)から抜粋
「オアシス運動」
今回は、
私たちが失いかけている大切な言葉の話を、
少ししたいと思います。
『オアシス運動』というのを知っていますか。
先ずは、「オ」です。
「オ」は、「おはようございます」です。
朝は年少者が年長者に挨拶をするのが
当たり前のことだったのですが、
最近は挨拶の声が聞こえてきません。
歳が下であるとか上であるとかは、
実は重要なことではないのですが、
挨拶がないというのは、
悪く言えば
相手に悪意を持っているとも取られかねません。
「私はあなたが好きです。」と言わないまでも、
「私はあなたに悪意を持っていません。」
という自己表現と考えるといいのではないでしょうか。
馬のそばに近づくときに
「ドウ、ドウ」と言って
馬をビックリさせないようにしますが、
これと同じ事だと思うのです。
朝の挨拶は、一歩外に出た途端、
自分のテリトリーから
公の場所乃至他人のテリトリーに入ることですから、
やはり挨拶は必要なのです。
侍の時代であれば、黙って側を通ろうものなら、
きっと刀でバッサリと切られてしまうでしょう。
外国ならどうでしょう。
つまり、挨拶は人のためにするものではなく、
結局自分のためにするものだと思うのですが、
如何でしょうか。
それにしても、挨拶をされると気分は良いし、
その人に好感を持ってしまうのは何故でしょうか。
だから、力一杯自分から挨拶をしましょう。
私は古い人間だから、挨拶は常識中の常識ですが、
例えば恥ずかしいなどと言い訳している人も含め、
自分のために挨拶をして欲しいものです。
よろしくお願いしますね。
「ア」は、「有り難うございます」です。
有り難うを言うときは、
社交辞令で言う時もありますが、
ほとんどの場合、
自分のために他の人が
何かをしてくれた時に出る喜びの言葉です。
私たちはやはり社会的動物なのですね、
「有り難う」と言われると
とても嬉しくなります。
つまり、言う方は勿論ですが、
言われた方も幸せになるのです。
「有り難う」も結局自分のためになっています。
自分のために何かをしてくれた人に
「有り難う」を言っただけなのに、
その人から好感を持たれるのですからね。
古い私には、
「有り難う」を言うのは常識なのですが、
これも恥ずかしくて言えないという人も含めて、
自分自身が幸せになるために
元気に大きな声で「有り難う」と言ってみませんか。
「シ」は、「失礼します(失礼しました)」です。
やはり黙ってその場を離れると失礼になります。
先にテリトリーの話をしましたが、
公の場所や他人のテリトリーに入るのですから
「失礼します」は当たり前です。
そこから離れる時も自然に出てきて
然るべき言葉ではないでしょうか。
最後に、「ス」の「すみません(すみませんでした)」です。
最近は自己主張をする人が多く、
謙虚な人が少なくなったと思いませんか。
東京に就職したばかりの時、
朝の通勤ラッシュの電車の中で
よく足を踏まれたものですが、
何故か踏まれた自分の方が謝っていました。
そんな時、ある先輩が笑いながら
「そんなことでは東京では生きていけないぞ。
東京やアメリカでは、
例え自分が人の足を踏んでも謝ってはならない。
むしろ何故踏んだと怒らねばならない。」
などと言うのです。
そうしないと、「訴えられるぞ」と脅すのです。
でも、私の拙い人生経験をお話しすれば、
訴えられたことはないし、
私に非が無いことが明らかであればあるほど、
相手は恐縮するのです。
だから、大抵のことは平和裡に終わったものです。
考えてみると、私の『オアシス』は、
両親や善良なる年長者から
自然に教えられてきたことだったような気がします。
私の『オアシス』の傍らには、何時も笑顔がありました。
ところで、これは妻から聞いたことなのですが、
ある大手の会社の朝の挨拶は、
「頭を良くしよう」から始まるのだそうです。
なんと、
ア「明るく」
タ「楽しく」
マ「前向きに」
「オアシス」なんかは当たり前のことで、
その上を行っているようですね。
(脳及び心疾患並びに認知症及び更年期障害予防)
第48回目(2009・8・30作成)
(マニュアルは第1回目にあります。常に最新版にしています。)
リクエストに応えて、再録します!
カテゴリー「人間関係の達人になるために」
グー(2007.7.1開設)のブログに開設中
http://blog.goo.ne.jp/kenatu1104
ブログの左側のカテゴリーを手がかりに
記事を読んでくれている幾人かのブログフレンドから、
適切に仕分けされていない記事があるという話がありました。
実は、投稿記事に対して、カテゴリーはひとつしか付けられません。
だから、二つ以上のカテゴリーを含む記事の時は、
主な記事のカテゴリーにしていました。
カテゴリーで読んでいる、読みたい、再読したいの要望に応えるべく、
二つ以上のカテゴリーを含んでいる投稿記事をカテゴリー別にしてみました。
最初からお付き合い戴いている、
全部読んでいると言うブログフレンドの皆さんは、
44回目から51回目は飛ばして下さい。
以下、再録したものです。
悪しからず。
第19回目(2008・11・22作成)から抜粋
「オアシス運動」
今回は、
私たちが失いかけている大切な言葉の話を、
少ししたいと思います。
『オアシス運動』というのを知っていますか。
先ずは、「オ」です。
「オ」は、「おはようございます」です。
朝は年少者が年長者に挨拶をするのが
当たり前のことだったのですが、
最近は挨拶の声が聞こえてきません。
歳が下であるとか上であるとかは、
実は重要なことではないのですが、
挨拶がないというのは、
悪く言えば
相手に悪意を持っているとも取られかねません。
「私はあなたが好きです。」と言わないまでも、
「私はあなたに悪意を持っていません。」
という自己表現と考えるといいのではないでしょうか。
馬のそばに近づくときに
「ドウ、ドウ」と言って
馬をビックリさせないようにしますが、
これと同じ事だと思うのです。
朝の挨拶は、一歩外に出た途端、
自分のテリトリーから
公の場所乃至他人のテリトリーに入ることですから、
やはり挨拶は必要なのです。
侍の時代であれば、黙って側を通ろうものなら、
きっと刀でバッサリと切られてしまうでしょう。
外国ならどうでしょう。
つまり、挨拶は人のためにするものではなく、
結局自分のためにするものだと思うのですが、
如何でしょうか。
それにしても、挨拶をされると気分は良いし、
その人に好感を持ってしまうのは何故でしょうか。
だから、力一杯自分から挨拶をしましょう。
私は古い人間だから、挨拶は常識中の常識ですが、
例えば恥ずかしいなどと言い訳している人も含め、
自分のために挨拶をして欲しいものです。
よろしくお願いしますね。
「ア」は、「有り難うございます」です。
有り難うを言うときは、
社交辞令で言う時もありますが、
ほとんどの場合、
自分のために他の人が
何かをしてくれた時に出る喜びの言葉です。
私たちはやはり社会的動物なのですね、
「有り難う」と言われると
とても嬉しくなります。
つまり、言う方は勿論ですが、
言われた方も幸せになるのです。
「有り難う」も結局自分のためになっています。
自分のために何かをしてくれた人に
「有り難う」を言っただけなのに、
その人から好感を持たれるのですからね。
古い私には、
「有り難う」を言うのは常識なのですが、
これも恥ずかしくて言えないという人も含めて、
自分自身が幸せになるために
元気に大きな声で「有り難う」と言ってみませんか。
「シ」は、「失礼します(失礼しました)」です。
やはり黙ってその場を離れると失礼になります。
先にテリトリーの話をしましたが、
公の場所や他人のテリトリーに入るのですから
「失礼します」は当たり前です。
そこから離れる時も自然に出てきて
然るべき言葉ではないでしょうか。
最後に、「ス」の「すみません(すみませんでした)」です。
最近は自己主張をする人が多く、
謙虚な人が少なくなったと思いませんか。
東京に就職したばかりの時、
朝の通勤ラッシュの電車の中で
よく足を踏まれたものですが、
何故か踏まれた自分の方が謝っていました。
そんな時、ある先輩が笑いながら
「そんなことでは東京では生きていけないぞ。
東京やアメリカでは、
例え自分が人の足を踏んでも謝ってはならない。
むしろ何故踏んだと怒らねばならない。」
などと言うのです。
そうしないと、「訴えられるぞ」と脅すのです。
でも、私の拙い人生経験をお話しすれば、
訴えられたことはないし、
私に非が無いことが明らかであればあるほど、
相手は恐縮するのです。
だから、大抵のことは平和裡に終わったものです。
考えてみると、私の『オアシス』は、
両親や善良なる年長者から
自然に教えられてきたことだったような気がします。
私の『オアシス』の傍らには、何時も笑顔がありました。
ところで、これは妻から聞いたことなのですが、
ある大手の会社の朝の挨拶は、
「頭を良くしよう」から始まるのだそうです。
なんと、
ア「明るく」
タ「楽しく」
マ「前向きに」
「オアシス」なんかは当たり前のことで、
その上を行っているようですね。