うつ解消マニュアル(脳及び心疾患・癌・認知症・更年期障害等々)

医者や薬は、むしろ症状を悪化させます!
治すのは、自分自身です! 
1回目並びにQ&A及び解説も、必ず読んで下さい!

第49回目 再録!「関牧翁」・「中村久子」・「宮沢賢治」・「風のガーデン」・「上野砂由紀」

2009年08月30日 16時46分46秒 | 「素晴らしき人々!」
うつ解消マニュアル
(脳及び心疾患並びに認知症及び更年期障害予防)

第49回目(2009・8・30作成)
(マニュアルは第1回目にあります。常に最新版にしています。)

リクエストに応えて、再録します!
カテゴリー「人、ひと、人物」

グー(2007.7.1開設)のブログに開設中
http://blog.goo.ne.jp/kenatu1104


ブログの左側のカテゴリーを手がかりに
記事を読んでくれている幾人かのブログフレンドから、
適切に仕分けされていない記事があるという話がありました。

実は、投稿記事に対して、カテゴリーはひとつしか付けられません。
だから、二つ以上のカテゴリーを含む記事の時は、
主な記事のカテゴリーにしていました。

カテゴリーで読んでいる、読みたい、再読したいの要望に応えるべく、
二つ以上のカテゴリーを含んでいる投稿記事をカテゴリー別にしてみました。

最初からお付き合い戴いている、
全部読んでいると言うブログフレンドの皆さんは、
44回目から51回目は飛ばして下さい。

以下、再録したものです。
悪しからず。







第13回目(2008・9・8作成)から抜粋
「関牧翁の和尚と叱るということ」
「中村久子の母の愛」


今日は突然なのですが、ちょっと気になったことを書きます。

最近、叱る人がいなくなったことです。
叱るのは親ばかりでなく、
やはり年長者、上司だったり先輩だったりするのですが、
この人達が子供や後輩を叱らなくなってきています。

先日歓迎会があったのですが、幹事は遅れてくるし主賓まで遅れてくる始末です。
そして、驚くべきことに遅れてきた幹事や主賓は謝らないどころか、
その上司や年配者が叱ろうともしないのです。
最も、上司の一部も遅れて来たのですが・・・
嘆かわしいことです。

私の常識では、幹事からの謝罪と説明はあって然るべきです。
最低の常識だと思うのですが、私は古い人間なのでしょうか。

叱ると言えば、
臨済宗天龍寺管長関牧翁(せきぼくおう、1903~1991)
の話を思い出します。

23歳の時、岐阜県瑞巌寺の和尚の説教に感動して遅い入門をしますが、
その頃の話です。

お寺には、7歳から13歳くらいの小僧
(まだ貧しい時代のことですから、人減らしもあったのだと思います。)
が7人おりましたが、まだ幼い身、
夜になると母親を思い出してシクシクと泣くのだそうです。

しかし、和尚は、「やかましい」と言って小僧の頭を叩くので、
それを不憫に思った関さんは、和尚に「何故、叱るのですか」と尋ねました。
その時、和尚さんはこう言ったのです。

「わしが今、頭を叩いておかないと他人に叩かれるからだ。」

可哀相だと思って、何も言わないことはたやすいことです。
和尚の気持ちは、
「そばにいれば面倒もみれるが、外に一歩出れば何も出来ない。
だから、万事厳しくして、世間に通用する人間にしているのだ。」
と、いうことだと思います。

耳に痛いことは、言う方も聞く方も嫌なものです。
愛情を持って叱ってくれる人はなかなかいません。
その人の未来を憂いていなければ、叱ることは出来ないのです。

叱るとは心配することであり、その人の未来を案じることです。
正に愛情そのものです。

一歩外に出れば、愛情深く接してくれる人は少ない。
常識のないことをすれば、次第に人は離れていきます。
間違ったことをしても叱ってもらえないというのは、
その人にとって致命的になります。
私達は、子供や年少者、後輩にもっと責任を持つべきだと思います。

子供への責任と言えば、
親の愛情について深く考えさせられたことを少し書きます。



(北海道旭川市、花菜里ランド)


中村久子さん(1897.11.25~1968.3.19)のことです。
三重苦と言えばヘレン・ケラー(1880.6.27~1968.6.1)
を思い出しますが、小林さんはそれに匹敵します。
謂わば、日本のヘレン・ケラーです。

3歳の時に突発性脱疽
(とっぱつせいだっそ・・・高熱のため肉が焼け骨が腐っていく病)で
両腕の肘関節、両足の膝関節から切断して、四肢を失いました。

久子さんが11歳の頃、お母さんは彼女に裁縫をさせることを思い立ちます。
①着物を解く②ハサミを使う③口で糸を通すこと を課しました。
当然、出来ずに泣いていると、
「人間は働くために生まれてきた。出来ないとは何事ですか。」
と言って、叱るのです。
どうしたら出来るかの問いにも、
「自分で考えなさい。」
と言うばかりで何も教えてくれません。

口の中は針のせいで真っ赤な血に染まります。

母は鬼になります。
いつまでも自分が生きているわけではない。
自分は間違いなく、先に死ぬ。
だから、「この子が一人でも生きていくことが出来るようにしなければらない」
と考えた結果の鬼です。

お母さんの気持ちと久子さんのあまりに厳しい状況を思うと、
胸が苦しくなります。

誰が可愛い我が子を苦しめて嬉しいでしょう。
出来ない子を叱る母の気持ちを考えると涙が出て来ます。
深い母の愛です。

久子さん15歳の頃には、
①小刀で鉛筆を削る②口で字を書く③歯と唇を使い針に糸を通す
④糸を口の中で玉結びする・・・
つまり、着物を縫うことが出来るまでになります。

母あやさんが病気で亡くなったのは、久子さん24歳の時でした。

久子さんは33歳の時、
33年間ベッドに寝たままの51歳の座古愛子
(1878.12.31~1945.3.10,歌人で随筆家、キリスト教信者)
と出会い、
「生かされている」という境地と共に、母の深い愛にあらためて気が付くのです。

「自分は自分の力で生きているのではない。
神様の力でいかされているのだ。」
という座古さんの言葉に痛く感銘をうけるのです。
間もなく、
久子さんは「生まれて、生きて、生かされている」という境地に達します。

座古さんは結婚もしてないし、もちろん子もいない。
それなのに心は感謝で満ちあふれている。
それに比べ、自分には夫がおり子供もいる。

両手両足のない我が身を呪い、
両親と神仏まで呪い恨んできた自分を反省したのです。
(それにしても久子さんは、頭の良い、優れた暖かい精神を持った人です。)

厳しく育ててくれた母の深い愛に、気が付いた瞬間でもあったのです。

中村久子さんの素晴らしい言葉を二つ贈ります。

「両手両足を切り落とされたこの体こそが、
自分に人間というものを、人間としてどう生きるかということを教えてくれた、
最高最大の先生であった。」

「人の命とはつくづく不思議なもの。
確かなことは、自分で生きているのではない。
生かされているのだと言うことです。
どんなところにも必ず生かされていく道がある。
すなわち人生に絶望なし。
いかなる人生にも決して絶望はないのだ。」


母の愛でもう一つ思い出したのですが、道新の「いずみ」欄です。
題名も投稿者も何時だったかも忘れてしまいました。

母は娘にこう言ったというのです。
「お前は不細工なのだから、決して笑顔を忘れてはならない。」

現実の世界の厳しさを知り尽くしているからこそ、
子供の歩く道から少しでも茨を除いてあげたい
との母の悲しい思いが伝わってきます。
今でこそ、ウソ笑いでも健康に良いと言われているし、
またミラー細胞理論から言っても、母の進言は的確なのです。


母の愛情を悟った投稿者の笑顔は、
どんな美人の笑顔より美しいに違いありません。







第14回目(2008・9・29作成)から抜粋
「再び、関牧翁と中村久子」


今回は前回に引き続き、
臨済宗天龍寺241世管長 関牧翁(せきぼくおう、1903~1991、
旧姓岩井、武者小路実篤の「美しき村」の思想に感化され、
伊吹山麓の「愛の村」で働いていたが、
23歳の時、岐阜県瑞巌寺の和尚の説教に感動して入門、
昭和3年に得度)と
中村久子(1897.11.25~1968.3.19、3歳の時に突発性脱疽で両腕の肘関節、両足の膝関節から切断して四肢を失った)の話をもう少しします。

関さんが仏門に入ったきっかけは、
「29歳で寺を持った。
55歳まで、妻を持たない、子を持たない、
弟子を育てて座禅に明け暮れたが、奇跡はなかった。
自分の職業を通じて幸せになるしかないと悟った。」
という瑞巌寺の和尚の言葉だったと言っています。
尊敬されるべき僧侶という「聖職」を「職業」と言い切った和尚に、
全幅の信頼を寄せたのです。

関さんが生きていた時代背景もあるわけですが、
この歳になってつくづく思うのですが、
信頼出来る人というのは中々いないものです。

その後、昭和5年に臨済宗天龍寺240世管長 関精拙
(せきせいせつ、1877~1945)から法を継いだのですが、
この和尚が実に面白い。

「酒というものは、礼儀に始まり礼儀に終わるべきものである。
他人や家族に迷惑をかけるような酒は飲むべきではない。
男は身銭をきって遊ぶが良い。
タダ酒を飲んではいかん。
振る舞い酒を飲むことはならん。
食いものは、割り勘にしろ。」

私の思い出で恐縮なのですが、少しお付き合い下さい。
私は東京で採用になったのですが、
若い人たちの多い職場でしたので、学校時代の延長のようなものでした。
3年先輩は、もう大先輩です。
その先輩達に飲みに誘われるのです。

何度目かの誘いの時、毎回のご馳走に心苦しくなり、先に会計を済ませました。
先輩は烈火の如く怒り、その後の誘いはなくなりました。

先輩は仕事をしながら夜間大学に通っていたし(私も夜間大学でした)、
二つ三つしか歳も違わないことから、
恩返しのつもりで当然なことをしただけなのです。

私の小さい頃は貧乏でしたから、
小さいながらも親に負担をかけないように気を使っていました。
例えば、知り合いのおじさんやおばさんからお年玉を貰っても、
両親に渡していました。
子供心に、両親があってのお年玉と思っていましたので、
両親に渡していたのです。
お年玉は、両親からしか貰いませんでした。

だから、今でも人からご馳走になることは好きではありません。
しかし、社会人になってからは、割り切りも必要と考えました。

そこで、私は自分自身の落とし所を考えました。
それは、ご馳走になるのは生きていくために必要な食事のみに限定し、
飲酒については身銭をきるということでした。
理由は良く分からなかったのですが、何かそうしないと、
自分の何かが駄目になってしまうような気がしたのです。

先輩から叱られるのは予想していました。
今の人には理解出来ないと思いますが、
私達の時代にはまだ武士のような人がいたのです。
学生時代の延長のような職場の年齢構成のせいで、
プライドが傷つけられたのでしょう。

職場は、全国各地から採用になって来た人がほとんどでしたから、
やがてその先輩も夜間大学を卒業して、郷里に転勤することになりました。
別れの親睦会で、照れくさそうに私の傍らの来て
「お前が一番いい後輩だった。」と言ってくれました。

それから二十数年後、関牧翁さんの講演で先の和尚の言葉を聞いたのです。
その時、私の飲食に対する基本的態度を
認めてもらったような思いをしたものです。

また、この和尚には次のような話もあります。
お酒が好きで、小坊主を連れてよく祇園に遊びに行ったそうですが、
いつも顔のまずい芸者のみを大切にしたそうです。
不思議に思った関さんは、
和尚に何故一番綺麗な芸者を大事にしないのかと聞いたそうです。
そうしたら、
「お前達はまだ若輩だ。」と言われたそうです。

この真意は終ぞ語らぬままに亡くなったそうですが、
皆さんはどう思われますか。
人の心を知り尽くした、奥深い楽しい和尚さんですね。



(北海道旭川市、花菜里ランド)


さて次は、中村久子さんです。

中村さんは20歳になった時、一人で生きて行く決心をします。
国から支給される扶助料(今でいうところの傷害年金のようなものだと思います)
を断わりますが、
理由は国家の恵みにすがって生きることを潔しとしなかったからです。

こう決心した中村さんは、「だるま娘」として見世物小屋に身を売ります。
そのお金で、自分の病気治療のため母親が背負い込んでいた借金を返しました。

体を売ってでも人には迷惑をかけないという決心は、
きっと母親の厳しい教育から学びとったものだと思います。

戦後、負傷軍人が人の情けを無心している姿に、
「そのざまは何ですか。
恥を知りなさい。
私は両手両足がなくても、乞食はしたことはない。」
と厳しく叫んだそうです。

負傷兵のこのお金の無心を軽々に論ずることは出来ませんが、
中村さんは肢四を失い貧乏のどん底でも国の世話にならず、
それどころか自分の身を見世物小屋に売ってまで独立しようと決意したことには、全く敬服するばかりです。

先ほどの「タダ酒は飲むな。」と言った和尚の言葉に、
深く繋がるものを感じます。
人間としての誇りのようなものです。
安っぽいプライドには到底及びもつかない、
人間の根幹にもかかわる凜としたものです。

前回、中村さんは、座古愛子さん(1878.12.31~1945.3.10,歌人で随筆家、キリスト教信者)に出会って、「生まれて、生きて、生かされている」という境地に到達したことをお話しました。
実は中村さんは、その後キリスト教に入信することなく、
親鸞聖人の思想によって高い精神的境地に到達したのですが、
キリスト教に帰依しなかったのは、
神であろうと頼ってはいけないという信念、
自分自身に過酷なまでに厳しかったからだと思います。




(北海道美瑛町、ポピーの丘と名付けました)



第18回目(2008・11・2作成)から抜粋
「宮沢賢治の涙」


最後に,
宮沢賢治(1896.8.27~1933.9.21)の
「雨ニモマケズ」
(1931.11.3、急性肺炎で療養中、手帳に書き留めたものである)
を書いて終わります。

私は、この詩がとても好きです。
農民の悲惨な境遇に自分の無力を痛感しながら、
しかし込み上げる思いをこの詩に託したのではないかと思うのです。
きっと賢治は、はらはらと美しい涙を流しながら、
この詩を書いたのに違いありません。


『雨ニモマケズ
風ニモマケズ

雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ

慾ハナク
決シテ瞋(イカ)ラズ

イツモシヅカニワラッテヰル

一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ

アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ

ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ

野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ

東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ

西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ

南ニ死ニソウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイゝトイヒ

北ニケンクワヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ

ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ

ミンナニデクノボートヨバレ

ホメラレモセズ
クニモサレズ

サウイフモノニ
ワタシハナリタイ』







第23回目(2008・12・23作成)から抜粋
「風のガーデン」


今日も
我が家のマリーアントワネットとミミ之助左右衛門(通称、みみとまり)は、
日溜まりの中、気持ちよさそうに幸せそうに眠っています。
時折、イビキをかいています。
広い野原を思いっきりかけているのでしょうか、小さな足が宙を走っています。

それにしても我が家の猫は、起きているときも寝ているときも、幸せそうです。



(我が家のみみとまり)



(北海道旭川市、上野ファーム・「風のガーデン」のガーディナー)


ところで、
私が毎週楽しみにしていた倉本聡脚本「風のガーデン」(11話)が
先週で終わってしまいました。

命の期限を知った人間のその後を描いていますが・・・
倉本も歳を取って死と真っ正面から向き合わざるを得なくなったのではないかと思います。

「連続ドラマはこれが最後になるかも知れない」と言っていますが、
私達が絶対に避けられない死を題材にした、
地に足の着いた作品をこれから書ける境地に立てているのに、
全く残念なことです。

倉本は大好きな脚本家だから、あえて言いますが、
今までの作品はリアリティ不足で、
私達の永遠のテーマである
「人間はどこから来て、どこへ行くのか」
という視点に欠けていたように思います。

偉そうなことを言えば、「どこからとどこへ」の、
最も大きな長い時間である中間をどう生きるべきかを、
もっと書いて欲しいと思うのです。
中間の人生というものが充実したものになれば、
きっと、「どこから来て、どこへの行くのか」の意味も、
自ずと答が出て来るような気がするのですが、皆さんはどう思いますか。

もっと言えば、「幸せとは何か」に迫る作品を、もっと書いてもらいですね。

ところで、この作品に出てくるガーデンの美しさには、
心が暫し奪われ、そして心が和みます。

新富良野プリンスホテルのピクニックガーデン内600坪に、
上野砂由紀さん(1974年生まれ、北海道旭川市の上野ファームのガーディナー)が
約2年間かけて庭作りをしたそうです。

イングリッシュ・ガーデン、良いですね。
ターシャ・テューダー(1915.8.28~2008.6.18、ガーディナー・人形作家・絵本作家)
のガーデンを彷彿とさせますね。

それと、「風のガーデン」のテーマ曲、平原綾香の「ノクターン」は最高です。

この人は、本当に歌が上手ですね。
倉本の前作品「優しい時間」のテーマ曲、「明日」も良いですよね。
それから、「Jupiter」も良いですね。


最後に、
ターシャ・テューダーの次の言葉を贈ります。

『何もしなければ、何も生まれてこない』

何とも素敵なおばあちゃんじゃないですか。

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