うつ解消マニュアル
(脳及び心疾患並びに認知症及び更年期障害予防)
第15回目(2008・10・19作成)
(マニュアルは第1回目にあります。常に最新版にしています。)
「猫クロのこと」
「犬リキのこと」
「猫のみみとまりのこと」
「ビアフラ共和国のこと」
グー(2007.7.1開設)のブログに開設中
http://blog.goo.ne.jp/kenatu1104
『ねこ』
「ぼくはねこの手をはたきました
ねこはおこりました
おこってぼくの手をかっちゃいたので
ぼくはうそなきをしました
ねこはわるかったという
かおをしました
ぼくが「えへへ」とわらうと
ねこはおこって
あっちのほうへいきました」
これは、私が小学2年生の時に書いた詩です。
名前は、体毛が真っ黒黒助だったので、
文字どおり「くろ」です。
とても賢い猫で、私に良くなついていました。
私の姿を見つけると、犬のように飛んで来ました。
まだ子供だった私は面白半分で、
よく宙に放り投げたり、
壁に投げつけたりして遊んだものです。
「くろ」は、ニャンパラリと体を翻し、
オリンピック選手のように見事に着地しました。
「くろ」は、逃げるどころか、
直ぐに私の元に飛んで帰って来ました。
その元気な「くろ」も歳老いたある日、
姿が見えなくなりました。
・・・身を隠すように縁の下で死んでいました。
自分では気が付いていなかったのですが、
私はどうもこの猫が余程気に入っていたとみえて、
縁の下の「くろ」の傍らで暫らく涙が止まりませんでした。
その後35年間、猫を飼うことはありませんでした。
(みみ之助左衛門)
中学生の時には、犬を飼いました。
名前は「力」(りき・・当時の国民的格闘家・力道山に因んで命名)といいました。
猫の「くろ」に増して賢い犬で、これもまた私になついていました。
保健所に追われた犬達を連れて、
私にかくまって欲しいということもありました。
力の話では、少し悲しい想い出があります。
私の部屋の勉強机から、
窓越しに見えるところに「力」の犬小屋がありました。
夜になってスタンドを点けると、
決まって「クンクン」と鳴くのです。
勉強している私には、
その鳴き声はとてもうるさく聞こえてしまい、
外に出て拳骨で頭を殴りました。
しかし、力は逃げるどころか尻尾を振りながら、
私に近づいてくるのです。
今になって、「クンクン」という実に悲しそうな声は、
私に少しでも多く接していたい
という「力」の想いではなかったのかと思うのです。
犬の何とも悲しい性(サガ・・
人間を愛せずにはいられないというサガ)を知った今、
もう少し優しくしてやれば良かったと後悔しています。
思い起こせば、それは冬に多く、
特に寒い日だったような気がします。
当時の私は、
残念ながら犬の思いに至る感性を
持ち合わせてはいませんでした。
でも、「力」のことを思うと何故か悲しくなるので、
「力」の死後は犬を飼うことはありませんでした。
今、家には猫が2匹います。
一匹目は名前を「みみ之助左右衛門」といいます。
鳴き声が鳥のようでとても可愛い三毛猫です。
二匹目は「まりー・アントワネット」といいます。
とても臆病な白が多い三毛猫です。
12年前に、生まれて間もない子猫を貰ってきて以来の家族です。
2匹とも雄猫です。
可哀想なことをしたと思うのですが、虚勢をしました。
そのせいかどうか、人には決して爪を立てません。
しかし、爪を出さない猫など見たことがないので、
本当の理由は分かりません。
(まりー・アントワネット)
最後に申し訳ありません。
もう一つの詩にお付き合い下さい。
高校生時代に書いた詩です。
戦争や内戦の哀しみを詩いました。
1967年5月30日に
ナイジェリア(北部のサウサ族、
西部のヨルバ族、東部のイボ族の三大部族と、
その他多くの少数民族からなっていた)から独立
1970年1月11日に
ナイジェリアに降伏して消滅した
幻の国「ビアフラ共和国」のことです。
この内戦による饑餓・栄養不足・病気、
北部州での虐殺にる死亡者は、
なんと200万人にのぼったと言われています。
『ビアフラの詩』
「20世紀―
ユダヤ民族の抹殺があってから
ここにこんな悲劇がある
1966年5月
ビアフラの悲劇は
ドラマの如く初めをなしたという
イボ族の大虐殺があってから
今にして200万人近くの餓死があり
飢えによる幼児の死は数多いという
タンパク質と含水炭素不足で
死直前の少年の髪は真っ白で
手足は黄色だといい
大人の親指くらいの太さだという
悲しみに最大のものは死であり
ここにそれがある
冷たい空気の充満しているこの地に
人影はあっても人間を感じさせないという
静けさの中に安らぎを得られぬ
生の満足に浸れぬ者と
たとえ同じであっても
それは自由な人間ではない
空の海の青さを知る者は幸いであり
自然の美しさを眼に出来る者は
なお幸いである
罪のない子供の死に
母親は泣き叫び祈ったであろう
恐らく不安と恐怖の中で
只ひたすらに現実からの脱皮を思慮したであろう
彼らに残された只ひとつの自由に
一心に神に祈ったであろう
降伏するより戦いを
降伏するより飢え死にを
彼らは信じている
哀しみの中から
ビアフラの自由の詩を
うたう日がきっと来ると・・・」
(脳及び心疾患並びに認知症及び更年期障害予防)
第15回目(2008・10・19作成)
(マニュアルは第1回目にあります。常に最新版にしています。)
「猫クロのこと」
「犬リキのこと」
「猫のみみとまりのこと」
「ビアフラ共和国のこと」
グー(2007.7.1開設)のブログに開設中
http://blog.goo.ne.jp/kenatu1104
『ねこ』
「ぼくはねこの手をはたきました
ねこはおこりました
おこってぼくの手をかっちゃいたので
ぼくはうそなきをしました
ねこはわるかったという
かおをしました
ぼくが「えへへ」とわらうと
ねこはおこって
あっちのほうへいきました」
これは、私が小学2年生の時に書いた詩です。
名前は、体毛が真っ黒黒助だったので、
文字どおり「くろ」です。
とても賢い猫で、私に良くなついていました。
私の姿を見つけると、犬のように飛んで来ました。
まだ子供だった私は面白半分で、
よく宙に放り投げたり、
壁に投げつけたりして遊んだものです。
「くろ」は、ニャンパラリと体を翻し、
オリンピック選手のように見事に着地しました。
「くろ」は、逃げるどころか、
直ぐに私の元に飛んで帰って来ました。
その元気な「くろ」も歳老いたある日、
姿が見えなくなりました。
・・・身を隠すように縁の下で死んでいました。
自分では気が付いていなかったのですが、
私はどうもこの猫が余程気に入っていたとみえて、
縁の下の「くろ」の傍らで暫らく涙が止まりませんでした。
その後35年間、猫を飼うことはありませんでした。
(みみ之助左衛門)
中学生の時には、犬を飼いました。
名前は「力」(りき・・当時の国民的格闘家・力道山に因んで命名)といいました。
猫の「くろ」に増して賢い犬で、これもまた私になついていました。
保健所に追われた犬達を連れて、
私にかくまって欲しいということもありました。
力の話では、少し悲しい想い出があります。
私の部屋の勉強机から、
窓越しに見えるところに「力」の犬小屋がありました。
夜になってスタンドを点けると、
決まって「クンクン」と鳴くのです。
勉強している私には、
その鳴き声はとてもうるさく聞こえてしまい、
外に出て拳骨で頭を殴りました。
しかし、力は逃げるどころか尻尾を振りながら、
私に近づいてくるのです。
今になって、「クンクン」という実に悲しそうな声は、
私に少しでも多く接していたい
という「力」の想いではなかったのかと思うのです。
犬の何とも悲しい性(サガ・・
人間を愛せずにはいられないというサガ)を知った今、
もう少し優しくしてやれば良かったと後悔しています。
思い起こせば、それは冬に多く、
特に寒い日だったような気がします。
当時の私は、
残念ながら犬の思いに至る感性を
持ち合わせてはいませんでした。
でも、「力」のことを思うと何故か悲しくなるので、
「力」の死後は犬を飼うことはありませんでした。
今、家には猫が2匹います。
一匹目は名前を「みみ之助左右衛門」といいます。
鳴き声が鳥のようでとても可愛い三毛猫です。
二匹目は「まりー・アントワネット」といいます。
とても臆病な白が多い三毛猫です。
12年前に、生まれて間もない子猫を貰ってきて以来の家族です。
2匹とも雄猫です。
可哀想なことをしたと思うのですが、虚勢をしました。
そのせいかどうか、人には決して爪を立てません。
しかし、爪を出さない猫など見たことがないので、
本当の理由は分かりません。
(まりー・アントワネット)
最後に申し訳ありません。
もう一つの詩にお付き合い下さい。
高校生時代に書いた詩です。
戦争や内戦の哀しみを詩いました。
1967年5月30日に
ナイジェリア(北部のサウサ族、
西部のヨルバ族、東部のイボ族の三大部族と、
その他多くの少数民族からなっていた)から独立
1970年1月11日に
ナイジェリアに降伏して消滅した
幻の国「ビアフラ共和国」のことです。
この内戦による饑餓・栄養不足・病気、
北部州での虐殺にる死亡者は、
なんと200万人にのぼったと言われています。
『ビアフラの詩』
「20世紀―
ユダヤ民族の抹殺があってから
ここにこんな悲劇がある
1966年5月
ビアフラの悲劇は
ドラマの如く初めをなしたという
イボ族の大虐殺があってから
今にして200万人近くの餓死があり
飢えによる幼児の死は数多いという
タンパク質と含水炭素不足で
死直前の少年の髪は真っ白で
手足は黄色だといい
大人の親指くらいの太さだという
悲しみに最大のものは死であり
ここにそれがある
冷たい空気の充満しているこの地に
人影はあっても人間を感じさせないという
静けさの中に安らぎを得られぬ
生の満足に浸れぬ者と
たとえ同じであっても
それは自由な人間ではない
空の海の青さを知る者は幸いであり
自然の美しさを眼に出来る者は
なお幸いである
罪のない子供の死に
母親は泣き叫び祈ったであろう
恐らく不安と恐怖の中で
只ひたすらに現実からの脱皮を思慮したであろう
彼らに残された只ひとつの自由に
一心に神に祈ったであろう
降伏するより戦いを
降伏するより飢え死にを
彼らは信じている
哀しみの中から
ビアフラの自由の詩を
うたう日がきっと来ると・・・」