うつ解消マニュアル
(脳及び心疾患並びに認知症及び更年期障害予防)
第14回目(2008・9・29作成)
(マニュアルは第1回目にあります。常に最新版にしています。)
「再び、関牧翁と中村久子」
「なぜ君は絶望と闘えたのか 本村洋の3300日」
グー(2007.7.1開設)のブログに開設中
http://blog.goo.ne.jp/kenatu1104
今回は前回に引き続き、
臨済宗天龍寺241世管長 関牧翁(せきぼくおう、1903~1991、
旧姓岩井、武者小路実篤の「美しき村」の思想に感化され、
伊吹山麓の「愛の村」で働いていたが、
23歳の時、岐阜県瑞巌寺の和尚の説教に感動して入門、
昭和3年に得度)と
中村久子(1897.11.25~1968.3.19、3歳の時に突発性脱疽で両腕の肘関節、両足の膝関節から切断して四肢を失った)の話をもう少しします。
関さんが仏門に入ったきっかけは、
「29歳で寺を持った。
55歳まで、妻を持たない、子を持たない、
弟子を育てて座禅に明け暮れたが、奇跡はなかった。
自分の職業を通じて幸せになるしかないと悟った。」
という瑞巌寺の和尚の言葉だったと言っています。
尊敬されるべき僧侶という「聖職」を「職業」と言い切った和尚に、
全幅の信頼を寄せたのです。
関さんが生きていた時代背景もあるわけですが、
この歳になってつくづく思うのですが、
信頼出来る人というのは中々いないものです。
その後、昭和5年に臨済宗天龍寺240世管長 関精拙
(せきせいせつ、1877~1945)から法を継いだのですが、
この和尚が実に面白い。
「酒というものは、礼儀に始まり礼儀に終わるべきものである。
他人や家族に迷惑をかけるような酒は飲むべきではない。
男は身銭をきって遊ぶが良い。
タダ酒を飲んではいかん。
振る舞い酒を飲むことはならん。
食いものは、割り勘にしろ。」
私の思い出で恐縮なのですが、少しお付き合い下さい。
私は東京で採用になったのですが、
若い人たちの多い職場でしたので、学校時代の延長のようなものでした。
3年先輩は、もう大先輩です。
その先輩達に飲みに誘われるのです。
何度目かの誘いの時、毎回のご馳走に心苦しくなり、先に会計を済ませました。
先輩は烈火の如く怒り、その後の誘いはなくなりました。
先輩は仕事をしながら夜間大学に通っていたし(私も夜間大学でした)、
二つ三つしか歳も違わないことから、
恩返しのつもりで当然なことをしただけなのです。
私の小さい頃は貧乏でしたから、
小さいながらも親に負担をかけないように気を使っていました。
例えば、知り合いのおじさんやおばさんからお年玉を貰っても、
両親に渡していました。
子供心に、両親があってのお年玉と思っていましたので、
両親に渡していたのです。
お年玉は、両親からしか貰いませんでした。
だから、今でも人からご馳走になることは好きではありません。
しかし、社会人になってからは、割り切りも必要と考えました。
そこで、私は自分自身の落とし所を考えました。
それは、ご馳走になるのは生きていくために必要な食事のみに限定し、
飲酒については身銭をきるということでした。
理由は良く分からなかったのですが、何かそうしないと、
自分の何かが駄目になってしまうような気がしたのです。
先輩から叱られるのは予想していました。
今の人には理解出来ないと思いますが、
私達の時代にはまだ武士のような人がいたのです。
学生時代の延長のような職場の年齢構成のせいで、
プライドが傷つけられたのでしょう。
職場は、全国各地から採用になって来た人がほとんどでしたから、
やがてその先輩も夜間大学を卒業して、郷里に転勤することになりました。
別れの親睦会で、照れくさそうに私の傍らの来て
「お前が一番いい後輩だった。」と言ってくれました。
それから二十数年後、関牧翁さんの講演で先の和尚の言葉を聞いたのです。
その時、私の飲食に対する基本的態度を
認めてもらったような思いをしたものです。
また、この和尚には次のような話もあります。
お酒が好きで、小坊主を連れてよく祇園に遊びに行ったそうですが、
いつも顔のまずい芸者のみを大切にしたそうです。
不思議に思った関さんは、
和尚に何故一番綺麗な芸者を大事にしないのかと聞いたそうです。
そうしたら、
「お前達はまだ若輩だ。」と言われたそうです。
この真意は終ぞ語らぬままに亡くなったそうですが、
皆さんはどう思われますか。
人の心を知り尽くした、奥深い楽しい和尚さんですね。
(北海道旭川市、花菜里ランド)
さて次は、中村久子さんです。
中村さんは20歳になった時、一人で生きて行く決心をします。
国から支給される扶助料(今でいうところの傷害年金のようなものだと思います)
を断わりますが、
理由は国家の恵みにすがって生きることを潔しとしなかったからです。
こう決心した中村さんは、「だるま娘」として見世物小屋に身を売ります。
そのお金で、自分の病気治療のため母親が背負い込んでいた借金を返しました。
体を売ってでも人には迷惑をかけないという決心は、
きっと母親の厳しい教育から学びとったものだと思います。
戦後、負傷軍人が人の情けを無心している姿に、
「そのざまは何ですか。
恥を知りなさい。
私は両手両足がなくても、乞食はしたことはない。」
と厳しく叫んだそうです。
負傷兵のこのお金の無心を軽々に論ずることは出来ませんが、
中村さんは肢四を失い貧乏のどん底でも国の世話にならず、
それどころか自分の身を見世物小屋に売ってまで独立しようと決意したことには、全く敬服するばかりです。
先ほどの「タダ酒は飲むな。」と言った和尚の言葉に、
深く繋がるものを感じます。
人間としての誇りのようなものです。
安っぽいプライドには到底及びもつかない、
人間の根幹にもかかわる凜としたものです。
前回、中村さんは、座古愛子さん(1878.12.31~1945.3.10,歌人で随筆家、キリスト教信者)に出会って、「生まれて、生きて、生かされている」という境地に到達したことをお話しました。
実は中村さんは、その後キリスト教に入信することなく、
親鸞聖人の思想によって高い精神的境地に到達したのですが、
キリスト教に帰依しなかったのは、
神であろうと頼ってはいけないという信念、
自分自身に過酷なまでに厳しかったからだと思います。
(まりー・アントワネット)
次の話は、明るい話ではありません。
いつかは書かねばならないと思っていた話です。
実は前回のブログ、愚痴も含めて教育的な口調になってしまったこともあって、
今回は明るいものにしようと思っていました。
しかし、2週間前に、義妹に「なぜ君は絶望と闘えたのか
本村洋の3300日」(門田隆将著、新潮社)という本を読んでほしいと言われ、
読んでしまったのがいけませんでした。
光市母子殺害事件のことです。
この事件のことが気になってしまい、
中々ブログを書くことが出来なかったのです。
フリージャーナリスト、門田隆将(かどたりゅうしょう、1958~、2008.3に新潮社を退職)の緻密な取材とその見識の高さが感じられる力作です。
この本のお陰で、書く決心がつきました。
この事件は、余りに悲惨で絶望的な事件です。
1999年4月14日、
当時18歳の少年が、ただセックスをしたいという動機で、
排水検査を装い家に入りこみ、
23歳の弥生さん(1976.3.3生)と11ヶ月の夕夏ちゃん(1998.5.11生)を殺したのです。
激しい抵抗をした弥生さんを頸部圧迫で窒息死させ、その後に屍姦。
傍らで泣いていた夕夏ちゃんを床に叩き付け、そして紐で首を締め殺害。
夫の本村洋(1976.3.19~)さんは、
終始一貫、死刑を要求してきました。
犯人は犯行当時少年であったことから少年法で守られ、
また「永山則夫連続射殺事件」の永山基準(3人以上殺さないと死刑にはできない)がまことしやかにあり、
2000年1月23日山口地裁で無期懲役、
2002年3月14日広島高裁で控訴棄却されました。
しかし、2006年4月18日最高裁が広島高裁に審理差し戻しとなったことから、
2008年4月22日広島高裁で死刑判決。
弁護団は即日上告しました。
本村さんの3300日を振り返りながら、
丁寧に本村さんに起こったことと心情を書いています。
正に魂と魂のぶつかり合いの取材が感じられるものでした。
1991年8月11日、始めてあった23歳の本村さんから出た言葉は、
「僕は、絶対に殺します。」
母子家庭で育ち、決して経済的に恵まれていなかった妻弥生さんは、
しかし優しくて明るい人だった。
本村さんは、ネフローゼ(腎臓疾患)を患っていたことから
結婚は諦めていたこともあって、弥生さんの存在は生きる希望だったそうです。
1997年11月3日、結婚。
そして翌年には夕夏ちゃん誕生、これからという時だった。
事件のあった日、残業を終えて午後10時前、妻子の待つ自宅に帰ってきて
惨状を見ることになった本村さんを思うと涙が出ます。
信じられない、信じたくない光景、暫し呆然となり我を忘れたに違いありません。
初公判が迫った1999年7月末、
本村さんは会社に迷惑をかけてはならないと考えたのでしょう、辞表を出します。
辞表を受け取った新日鉄光製鉄所・製鋼工場長日高良一さんは、
「自分の部下の間は君を守れる。
会社には君を置いておくだけのキャパシティはある・・・
労働も納税もしない人間の声を社会は聞かない。
君は社会人たれ。」
と言って、その後1年以上経ってから辞表を破ります。
1999年10月31日
後の「全国犯罪被害者の会」に発展する会合が、
東京の岡村総合法律事務所で始まりました。
岡村弁護士は、山一証券の顧問弁護士をしていた時に、
逆恨みした男に留守宅を襲われ、
家にいた夫人が殺害されるという犯罪被害者の遺族です。
本村さんに初めて会った岡村弁護士は、こう言ったのです。
「法律がおかしいんだ。そんな法律は変えなければいけない。」
本村さんの心に衝撃が走りました。
法律は「変える」ことが出来る。
新鮮な驚きだったようです。
2000年3月21日
山口地裁判決の前日、本村さんは翌日の休暇を提出しました。
胸騒ぎを感じた上司は、
本村さんのパソコンを調べ、両親と義母宛の遺書を発見します。
上司は独身寮に走り、「バカなことは考えるな」と叱ります。
3人以上死なねば死刑にならないという永山基準なるものが囁かれていたこともあって、自分が死ねば3人になるという思いもあったようです。
2000年3月22日
山口地裁の判決は無期懲役でした。
担当の吉池検事は、目に涙をため
「このまま判決を認めたら、今度はこれが基準になってしまう・・・
司法を変えるために一緒に闘ってくれませんか。」
と言うのです。
本村さんは、自殺を考えたことや「この手で殺す」と言っていた自分を反省します。
2000年5月12日
「犯罪被害者保護法」「改正刑事訴訟法」「改正検察審査会法」が国会を通過した。
これによって、傍聴しか出来なかった犯罪被害者の意見陳述が認められた。
本村さん達の声が、確実に世の中を動かし始めたのです。
(北海道旭川市、花菜里ランド)
2002年1月、本村さんは、
日本テレビの「スーパーテレビ情報最前線」という企画番組で、
アメリカ・テキサス州の「ポランスキー刑務所」を訪ねています。
犯行当時18歳(現在25歳)の黒人死刑囚ビーズリーとの面会です。
車を盗みに入ったガレージに、
突然出てきた家人の67歳白人男性を銃で撃ち殺してしまったのです。
死刑判決がされて、
「母が家族が泣き崩れるのを見て、
初めて遺族にもこんな悲しみを与えてしまったことに気付きました。
母の姿を見て、人の命の大切さを知ったのです・・・
死刑判決を受けて、初めて命について深く考えました。」
と言うのです。
ビーズリーは、4ヶ月後の2002年5月に死刑が執行されました。
人を殺した者の報いは、
どのように更正しても「死刑」しかないという本村さんの信念は、
揺ぎませんでした。
被害者の無念や断ち切られた夢や希望は、
どうやっても償うことが出来ないからです。
しかし、この面会で、人は死ぬまで反省が出来るし、
深い反省はその人を聖人たらしめることもあると知って、
本村さんは嬉しかったようです。
本村さんの闘いは、
結果的に少年法の見直しや被害者やその家族の実情を広く知らせしめ、
法律まで変えたのです。
私がここで着目したいのは、
私達がしたことはどんなことでも結果責任を免れないということです。
ハムラビ法典の報復や日本の仇討ち思想は、
人として生まれてきた以上、自然なものに違いありません。
つまり、人を殺した償いは死をもってしか償えないのです。
だから、人を殺してはいけないのです。
人を殺すことは自分を殺すことに等しいからです。
動物行動学者の竹内久美子さんは、
「なぜ人を殺してはいけないのか」の問いに、
「殺していいとか、いけないの問題ではない。
ただ、殺せば相手の身内から復讐される。
ゆえに殺すべきではないのだ。」
と言い切っています。
私達は神や仏ではないことをしっかり肝に銘じておかなければなりません。
そういえば、日本では政治的敗者が神社や寺に祭られることがあります。
やはり、死界からの報復、祟りや呪いを恐れたのでしょうか。
そう考えれば、報復論は己の死を考えざるを得ないから、
殺人の抑止力にはなりますね。
だから、大量殺人を余儀なくされる戦争は、絶対にしてはならないのです。
それと、大事なことをもうひとつ話をして、今回は終わります。
先に信頼に値する人は少ないと書きましたが、
本村さんのように真摯に生きていれば、
家族は勿論のこと、上司や同僚・弁護士・検事・国民が支えてくれるのだということを教えられたような気がします。
(脳及び心疾患並びに認知症及び更年期障害予防)
第14回目(2008・9・29作成)
(マニュアルは第1回目にあります。常に最新版にしています。)
「再び、関牧翁と中村久子」
「なぜ君は絶望と闘えたのか 本村洋の3300日」
グー(2007.7.1開設)のブログに開設中
http://blog.goo.ne.jp/kenatu1104
今回は前回に引き続き、
臨済宗天龍寺241世管長 関牧翁(せきぼくおう、1903~1991、
旧姓岩井、武者小路実篤の「美しき村」の思想に感化され、
伊吹山麓の「愛の村」で働いていたが、
23歳の時、岐阜県瑞巌寺の和尚の説教に感動して入門、
昭和3年に得度)と
中村久子(1897.11.25~1968.3.19、3歳の時に突発性脱疽で両腕の肘関節、両足の膝関節から切断して四肢を失った)の話をもう少しします。
関さんが仏門に入ったきっかけは、
「29歳で寺を持った。
55歳まで、妻を持たない、子を持たない、
弟子を育てて座禅に明け暮れたが、奇跡はなかった。
自分の職業を通じて幸せになるしかないと悟った。」
という瑞巌寺の和尚の言葉だったと言っています。
尊敬されるべき僧侶という「聖職」を「職業」と言い切った和尚に、
全幅の信頼を寄せたのです。
関さんが生きていた時代背景もあるわけですが、
この歳になってつくづく思うのですが、
信頼出来る人というのは中々いないものです。
その後、昭和5年に臨済宗天龍寺240世管長 関精拙
(せきせいせつ、1877~1945)から法を継いだのですが、
この和尚が実に面白い。
「酒というものは、礼儀に始まり礼儀に終わるべきものである。
他人や家族に迷惑をかけるような酒は飲むべきではない。
男は身銭をきって遊ぶが良い。
タダ酒を飲んではいかん。
振る舞い酒を飲むことはならん。
食いものは、割り勘にしろ。」
私の思い出で恐縮なのですが、少しお付き合い下さい。
私は東京で採用になったのですが、
若い人たちの多い職場でしたので、学校時代の延長のようなものでした。
3年先輩は、もう大先輩です。
その先輩達に飲みに誘われるのです。
何度目かの誘いの時、毎回のご馳走に心苦しくなり、先に会計を済ませました。
先輩は烈火の如く怒り、その後の誘いはなくなりました。
先輩は仕事をしながら夜間大学に通っていたし(私も夜間大学でした)、
二つ三つしか歳も違わないことから、
恩返しのつもりで当然なことをしただけなのです。
私の小さい頃は貧乏でしたから、
小さいながらも親に負担をかけないように気を使っていました。
例えば、知り合いのおじさんやおばさんからお年玉を貰っても、
両親に渡していました。
子供心に、両親があってのお年玉と思っていましたので、
両親に渡していたのです。
お年玉は、両親からしか貰いませんでした。
だから、今でも人からご馳走になることは好きではありません。
しかし、社会人になってからは、割り切りも必要と考えました。
そこで、私は自分自身の落とし所を考えました。
それは、ご馳走になるのは生きていくために必要な食事のみに限定し、
飲酒については身銭をきるということでした。
理由は良く分からなかったのですが、何かそうしないと、
自分の何かが駄目になってしまうような気がしたのです。
先輩から叱られるのは予想していました。
今の人には理解出来ないと思いますが、
私達の時代にはまだ武士のような人がいたのです。
学生時代の延長のような職場の年齢構成のせいで、
プライドが傷つけられたのでしょう。
職場は、全国各地から採用になって来た人がほとんどでしたから、
やがてその先輩も夜間大学を卒業して、郷里に転勤することになりました。
別れの親睦会で、照れくさそうに私の傍らの来て
「お前が一番いい後輩だった。」と言ってくれました。
それから二十数年後、関牧翁さんの講演で先の和尚の言葉を聞いたのです。
その時、私の飲食に対する基本的態度を
認めてもらったような思いをしたものです。
また、この和尚には次のような話もあります。
お酒が好きで、小坊主を連れてよく祇園に遊びに行ったそうですが、
いつも顔のまずい芸者のみを大切にしたそうです。
不思議に思った関さんは、
和尚に何故一番綺麗な芸者を大事にしないのかと聞いたそうです。
そうしたら、
「お前達はまだ若輩だ。」と言われたそうです。
この真意は終ぞ語らぬままに亡くなったそうですが、
皆さんはどう思われますか。
人の心を知り尽くした、奥深い楽しい和尚さんですね。
(北海道旭川市、花菜里ランド)
さて次は、中村久子さんです。
中村さんは20歳になった時、一人で生きて行く決心をします。
国から支給される扶助料(今でいうところの傷害年金のようなものだと思います)
を断わりますが、
理由は国家の恵みにすがって生きることを潔しとしなかったからです。
こう決心した中村さんは、「だるま娘」として見世物小屋に身を売ります。
そのお金で、自分の病気治療のため母親が背負い込んでいた借金を返しました。
体を売ってでも人には迷惑をかけないという決心は、
きっと母親の厳しい教育から学びとったものだと思います。
戦後、負傷軍人が人の情けを無心している姿に、
「そのざまは何ですか。
恥を知りなさい。
私は両手両足がなくても、乞食はしたことはない。」
と厳しく叫んだそうです。
負傷兵のこのお金の無心を軽々に論ずることは出来ませんが、
中村さんは肢四を失い貧乏のどん底でも国の世話にならず、
それどころか自分の身を見世物小屋に売ってまで独立しようと決意したことには、全く敬服するばかりです。
先ほどの「タダ酒は飲むな。」と言った和尚の言葉に、
深く繋がるものを感じます。
人間としての誇りのようなものです。
安っぽいプライドには到底及びもつかない、
人間の根幹にもかかわる凜としたものです。
前回、中村さんは、座古愛子さん(1878.12.31~1945.3.10,歌人で随筆家、キリスト教信者)に出会って、「生まれて、生きて、生かされている」という境地に到達したことをお話しました。
実は中村さんは、その後キリスト教に入信することなく、
親鸞聖人の思想によって高い精神的境地に到達したのですが、
キリスト教に帰依しなかったのは、
神であろうと頼ってはいけないという信念、
自分自身に過酷なまでに厳しかったからだと思います。
(まりー・アントワネット)
次の話は、明るい話ではありません。
いつかは書かねばならないと思っていた話です。
実は前回のブログ、愚痴も含めて教育的な口調になってしまったこともあって、
今回は明るいものにしようと思っていました。
しかし、2週間前に、義妹に「なぜ君は絶望と闘えたのか
本村洋の3300日」(門田隆将著、新潮社)という本を読んでほしいと言われ、
読んでしまったのがいけませんでした。
光市母子殺害事件のことです。
この事件のことが気になってしまい、
中々ブログを書くことが出来なかったのです。
フリージャーナリスト、門田隆将(かどたりゅうしょう、1958~、2008.3に新潮社を退職)の緻密な取材とその見識の高さが感じられる力作です。
この本のお陰で、書く決心がつきました。
この事件は、余りに悲惨で絶望的な事件です。
1999年4月14日、
当時18歳の少年が、ただセックスをしたいという動機で、
排水検査を装い家に入りこみ、
23歳の弥生さん(1976.3.3生)と11ヶ月の夕夏ちゃん(1998.5.11生)を殺したのです。
激しい抵抗をした弥生さんを頸部圧迫で窒息死させ、その後に屍姦。
傍らで泣いていた夕夏ちゃんを床に叩き付け、そして紐で首を締め殺害。
夫の本村洋(1976.3.19~)さんは、
終始一貫、死刑を要求してきました。
犯人は犯行当時少年であったことから少年法で守られ、
また「永山則夫連続射殺事件」の永山基準(3人以上殺さないと死刑にはできない)がまことしやかにあり、
2000年1月23日山口地裁で無期懲役、
2002年3月14日広島高裁で控訴棄却されました。
しかし、2006年4月18日最高裁が広島高裁に審理差し戻しとなったことから、
2008年4月22日広島高裁で死刑判決。
弁護団は即日上告しました。
本村さんの3300日を振り返りながら、
丁寧に本村さんに起こったことと心情を書いています。
正に魂と魂のぶつかり合いの取材が感じられるものでした。
1991年8月11日、始めてあった23歳の本村さんから出た言葉は、
「僕は、絶対に殺します。」
母子家庭で育ち、決して経済的に恵まれていなかった妻弥生さんは、
しかし優しくて明るい人だった。
本村さんは、ネフローゼ(腎臓疾患)を患っていたことから
結婚は諦めていたこともあって、弥生さんの存在は生きる希望だったそうです。
1997年11月3日、結婚。
そして翌年には夕夏ちゃん誕生、これからという時だった。
事件のあった日、残業を終えて午後10時前、妻子の待つ自宅に帰ってきて
惨状を見ることになった本村さんを思うと涙が出ます。
信じられない、信じたくない光景、暫し呆然となり我を忘れたに違いありません。
初公判が迫った1999年7月末、
本村さんは会社に迷惑をかけてはならないと考えたのでしょう、辞表を出します。
辞表を受け取った新日鉄光製鉄所・製鋼工場長日高良一さんは、
「自分の部下の間は君を守れる。
会社には君を置いておくだけのキャパシティはある・・・
労働も納税もしない人間の声を社会は聞かない。
君は社会人たれ。」
と言って、その後1年以上経ってから辞表を破ります。
1999年10月31日
後の「全国犯罪被害者の会」に発展する会合が、
東京の岡村総合法律事務所で始まりました。
岡村弁護士は、山一証券の顧問弁護士をしていた時に、
逆恨みした男に留守宅を襲われ、
家にいた夫人が殺害されるという犯罪被害者の遺族です。
本村さんに初めて会った岡村弁護士は、こう言ったのです。
「法律がおかしいんだ。そんな法律は変えなければいけない。」
本村さんの心に衝撃が走りました。
法律は「変える」ことが出来る。
新鮮な驚きだったようです。
2000年3月21日
山口地裁判決の前日、本村さんは翌日の休暇を提出しました。
胸騒ぎを感じた上司は、
本村さんのパソコンを調べ、両親と義母宛の遺書を発見します。
上司は独身寮に走り、「バカなことは考えるな」と叱ります。
3人以上死なねば死刑にならないという永山基準なるものが囁かれていたこともあって、自分が死ねば3人になるという思いもあったようです。
2000年3月22日
山口地裁の判決は無期懲役でした。
担当の吉池検事は、目に涙をため
「このまま判決を認めたら、今度はこれが基準になってしまう・・・
司法を変えるために一緒に闘ってくれませんか。」
と言うのです。
本村さんは、自殺を考えたことや「この手で殺す」と言っていた自分を反省します。
2000年5月12日
「犯罪被害者保護法」「改正刑事訴訟法」「改正検察審査会法」が国会を通過した。
これによって、傍聴しか出来なかった犯罪被害者の意見陳述が認められた。
本村さん達の声が、確実に世の中を動かし始めたのです。
(北海道旭川市、花菜里ランド)
2002年1月、本村さんは、
日本テレビの「スーパーテレビ情報最前線」という企画番組で、
アメリカ・テキサス州の「ポランスキー刑務所」を訪ねています。
犯行当時18歳(現在25歳)の黒人死刑囚ビーズリーとの面会です。
車を盗みに入ったガレージに、
突然出てきた家人の67歳白人男性を銃で撃ち殺してしまったのです。
死刑判決がされて、
「母が家族が泣き崩れるのを見て、
初めて遺族にもこんな悲しみを与えてしまったことに気付きました。
母の姿を見て、人の命の大切さを知ったのです・・・
死刑判決を受けて、初めて命について深く考えました。」
と言うのです。
ビーズリーは、4ヶ月後の2002年5月に死刑が執行されました。
人を殺した者の報いは、
どのように更正しても「死刑」しかないという本村さんの信念は、
揺ぎませんでした。
被害者の無念や断ち切られた夢や希望は、
どうやっても償うことが出来ないからです。
しかし、この面会で、人は死ぬまで反省が出来るし、
深い反省はその人を聖人たらしめることもあると知って、
本村さんは嬉しかったようです。
本村さんの闘いは、
結果的に少年法の見直しや被害者やその家族の実情を広く知らせしめ、
法律まで変えたのです。
私がここで着目したいのは、
私達がしたことはどんなことでも結果責任を免れないということです。
ハムラビ法典の報復や日本の仇討ち思想は、
人として生まれてきた以上、自然なものに違いありません。
つまり、人を殺した償いは死をもってしか償えないのです。
だから、人を殺してはいけないのです。
人を殺すことは自分を殺すことに等しいからです。
動物行動学者の竹内久美子さんは、
「なぜ人を殺してはいけないのか」の問いに、
「殺していいとか、いけないの問題ではない。
ただ、殺せば相手の身内から復讐される。
ゆえに殺すべきではないのだ。」
と言い切っています。
私達は神や仏ではないことをしっかり肝に銘じておかなければなりません。
そういえば、日本では政治的敗者が神社や寺に祭られることがあります。
やはり、死界からの報復、祟りや呪いを恐れたのでしょうか。
そう考えれば、報復論は己の死を考えざるを得ないから、
殺人の抑止力にはなりますね。
だから、大量殺人を余儀なくされる戦争は、絶対にしてはならないのです。
それと、大事なことをもうひとつ話をして、今回は終わります。
先に信頼に値する人は少ないと書きましたが、
本村さんのように真摯に生きていれば、
家族は勿論のこと、上司や同僚・弁護士・検事・国民が支えてくれるのだということを教えられたような気がします。