以下は父・佐藤憲のプロフィール(01-091229版)である。
●昭和4年(1929年)12月1日
宮城県石巻町(当時)にて、父・佐藤英雄、母・小糸の子として生まれる。
長男・庄一は夭折の記録が有るので、父は長男ではない。ただし記録には、私の祖父英雄の子としてもう一人名前が見られ、そしてそれは私が聞いたことのない名前であるので、父が第何子であるのかはまだ確認できていない。
なお、石巻の市制施行は昭和8年(1933)4月である。
●昭和 9年(1934) 4月( 4才) 石巻市立石巻幼稚園入園
●昭和11年(1936) 3月( 6才) 同卒園
●昭和11年(1936) 4月( 6才) 石巻市立石巻小学校入学
●昭和17年(1942) 3月(12才) 同卒業
●昭和17年(1942) 4月(12才) 石巻市立石巻中学校入学
●昭和19年(1944) 3月(14才) 同卒業
●昭和19年(1944) 4月(14才) 石巻商業学校(当時工業学校?)入学
●昭和23年(1948) 3月(18才) 石巻商業学校卒業
●昭和23年(1948) 4月(18才) 東北学院入学
●昭和27年(1952) 3月(22才) 東北学院大学卒業
●昭和27年(1952) 4月(22才) 宮城県立石巻高等学校にて社会科教師として赴任。
●昭和27年(1952)10月14日 父・英雄逝去(享年五十九才)。この後石巻高等学校の教職を辞し、家業の大文字屋を継ぐ。
父の家業を継ぐまでの経歴については、祖父・英雄の死亡以外は記録・資料で確認できていない。専ら家族と親戚からの聞き書きであり、それを歴史的事実とつき合わせて時系列を推定・再現している。
中でも昭和20年は終戦の年であり、この後昭和22年(1947)より学制改革(6・3・3・4制スタート)となるが、その前は旧学制であるため、中学、高校、大学への進学の詳細は不分明な部分が残る。これは今後の課題にしたい。
ただし、父は石巻高校に教師として勤務した時期に英雄が急逝し、間もなく大文字屋に入ることになったのは間違いないらしい。英雄の死亡時期は記録で確認できているので、東北学院大学卒業の年は合っているのではないかと思う。
なお、小学校から大学卒業までは、葬儀におけるサルコヤさんの井上晃雄さんの弔辞に「幼稚園二年、小学校六年間、商業四年、あの苦しい学徒動員を経て、更に東北学院で四年、実に十五年間も同室同級生だったのです」という件があったので、これに依った。
●昭和33年(1958) 喜久子(旧姓千葉)と結婚。
●昭和34年(1959)10月 第一子長男・忠典誕生。
●昭和35年(1960)10月 第二子次男・慶広誕生。
●昭和40年(1965)~昭和50年(1975)
○大文字屋を株式会社化。社長に就任。
○大文字屋の店舗兼住居として現在の3階建HDビル建設。
●昭和53年(1978年)11月21日 母・小糸逝去(享年八十二才)。
●昭和51年(1976)~平成20年(2008)
○長男・忠典が株式会社大文字屋に入社。
○長男・忠典が恵美子(旧姓・菊地)と結婚。
○脳梗塞発症。術後の経過良好につき、一時仕事に復帰。
○狭心症発症。
○腎臓を患う。
このあたりの正確な時日は未確認である。確認次第新版を出す予定である。
●平成21年(2009) 8月 2日 川開き祭りフィナーレの夕方、衰弱が激しく緊急入院。以後容体は安定。8月下旬退院の話も出るほど回復。(病院のベッド上で足上げ運動をして看護師さんに叱られたらしい。)
●平成21年(2009) 8月30日夕方6時頃 容体急変し危篤状態に。
●平成21年(2009) 8月31日未明 永眠。真浄院釋正憲居士。享年八十一歳。
最後は心房細動という状態に陥ったそうである。兄はテレビドラマ「『救命病棟24時』と同じだっちゃ。」と言っていた。心電図が激しく乱れた音を発する状況だったそうだ。もはや体が生きていくのに耐えうること適わぬ状態にあった。即ち、寿命だったのだと思う。
ふだんは静かな大町の通りも、川開き祭りには昔通りの賑わいを見せるという。その最後の晩に倒れたのは、父が街のざわめきに心躍らせ、浮き立つ気分を満喫したからかもしれない。あるいは町内会で祭りを盛り上げる役を随分長く続けてきたから、昔通りの賑わいを見て安心したのかもしれない。そんなふうに思ってみる。
はなはだ不完全な記録であることを父に詫びたい。
追記その一
旧学制について
昭和20年当時は、7年制高等学校は別として、中学は4(or5)年制であり、その上に高等学校大学予科(3年制)、それに並んで専門学校(高等商業、高等工業、高等農林(いずれも3年制))、高等師範、師範学校、実業学校とあり、そのうえこれにはかなりの地域差があって、さらに戦後の混乱が重なるのであるから、綿密な現地調査を行わないと当時の正確な修業年限は明らかにならないだろう。
追記その二
石巻商業高校について
「石巻商業高校」の歴史をHPから抜粋。(http://sekisyo.myswan.ne.jp/guide.htm)
明治44年(1911) 石巻町立商業補習学校として創立
大正 6年(1917) 石巻町立石巻商業学校開校(乙種商業学校 修業年限3年)
昭和19年(1944) 石巻工業学校に転換
昭和21年(1946) 石巻商業学校に再転換(9学級)
昭和23年(1948) 開校記念式挙行, 5月17日を開校記念日と定む
昭和29年(1954) 宮城県に県移管・宮城県石巻商業高等学校と改称
父が昭和21年入学であれば、それは「石巻工業学校」から「商業」に戻った年ということになる。県立になるのが昭和29年(1954年)であるから、父が入学時はいずれにしても市立であったのだろう。
追記その三
東北学院大学について
ルーツが1886年(明治19年)設置の私塾「仙台神学校」である。その後、1891年(明治24年)に普通高等教育を施すようになり校名を「東北学院」に改称。1949年(昭和24年)に新制大学として発足した。旧学制における「普通高等教育」「高校」は現在の大学(教養部以上)に当たるので、昭和20年当時「大学」と称していない時代でも、実質は現在の大学と同じであったと考えられる。
追記その四
参考資料
新旧の「学制」については主にwikipediaを、各学校については学校HPを参照した。
追記その五
石巻の歴史を検索していて、こんなサイトを見つけた。参考までに。
①石巻 漫画と歴史の港町
>http://www.youtube.com/watch?v=zkO5n-yAM6M
②街道をゆく ~嵯峨散歩 仙台・石巻~
>http://aya3photo.web.infoseek.co.jp/kaido-o-yuku_013.html
上記二つに、全国区の日本酒「日高見」と「墨廼江」の蔵元巡りコースを加えれば、石巻の観光はもう少し魅力を増すのではないかと思った。ただしこの二つの酒蔵、あまりその方面に色気がなさそうである。
③石巻 蔵巡り
>http://sakenihon.exblog.jp/11999754/
こちらの管理人さんからは次のようなコメントいただいてます。
>故郷に自慢できるお酒がふたつもあるなんて、羨ましいですよ。
>”日和山から見る太平洋の絶景”見てみたいです。
>日高見・墨廼江の二つの酒蔵は間違いなく石巻の強みだと思います。
>酒蔵がきっかけに街が少しでも活性化するといいですよね。
>美味しい山海の珍味と卓越した地酒。
>まさに味がある街のアピールが出来そうですよね。
ファイト、石巻!! である。
●昭和4年(1929年)12月1日
宮城県石巻町(当時)にて、父・佐藤英雄、母・小糸の子として生まれる。
長男・庄一は夭折の記録が有るので、父は長男ではない。ただし記録には、私の祖父英雄の子としてもう一人名前が見られ、そしてそれは私が聞いたことのない名前であるので、父が第何子であるのかはまだ確認できていない。
なお、石巻の市制施行は昭和8年(1933)4月である。
●昭和 9年(1934) 4月( 4才) 石巻市立石巻幼稚園入園
●昭和11年(1936) 3月( 6才) 同卒園
●昭和11年(1936) 4月( 6才) 石巻市立石巻小学校入学
●昭和17年(1942) 3月(12才) 同卒業
●昭和17年(1942) 4月(12才) 石巻市立石巻中学校入学
●昭和19年(1944) 3月(14才) 同卒業
●昭和19年(1944) 4月(14才) 石巻商業学校(当時工業学校?)入学
●昭和23年(1948) 3月(18才) 石巻商業学校卒業
●昭和23年(1948) 4月(18才) 東北学院入学
●昭和27年(1952) 3月(22才) 東北学院大学卒業
●昭和27年(1952) 4月(22才) 宮城県立石巻高等学校にて社会科教師として赴任。
●昭和27年(1952)10月14日 父・英雄逝去(享年五十九才)。この後石巻高等学校の教職を辞し、家業の大文字屋を継ぐ。
父の家業を継ぐまでの経歴については、祖父・英雄の死亡以外は記録・資料で確認できていない。専ら家族と親戚からの聞き書きであり、それを歴史的事実とつき合わせて時系列を推定・再現している。
中でも昭和20年は終戦の年であり、この後昭和22年(1947)より学制改革(6・3・3・4制スタート)となるが、その前は旧学制であるため、中学、高校、大学への進学の詳細は不分明な部分が残る。これは今後の課題にしたい。
ただし、父は石巻高校に教師として勤務した時期に英雄が急逝し、間もなく大文字屋に入ることになったのは間違いないらしい。英雄の死亡時期は記録で確認できているので、東北学院大学卒業の年は合っているのではないかと思う。
なお、小学校から大学卒業までは、葬儀におけるサルコヤさんの井上晃雄さんの弔辞に「幼稚園二年、小学校六年間、商業四年、あの苦しい学徒動員を経て、更に東北学院で四年、実に十五年間も同室同級生だったのです」という件があったので、これに依った。
●昭和33年(1958) 喜久子(旧姓千葉)と結婚。
●昭和34年(1959)10月 第一子長男・忠典誕生。
●昭和35年(1960)10月 第二子次男・慶広誕生。
●昭和40年(1965)~昭和50年(1975)
○大文字屋を株式会社化。社長に就任。
○大文字屋の店舗兼住居として現在の3階建HDビル建設。
●昭和53年(1978年)11月21日 母・小糸逝去(享年八十二才)。
●昭和51年(1976)~平成20年(2008)
○長男・忠典が株式会社大文字屋に入社。
○長男・忠典が恵美子(旧姓・菊地)と結婚。
○脳梗塞発症。術後の経過良好につき、一時仕事に復帰。
○狭心症発症。
○腎臓を患う。
このあたりの正確な時日は未確認である。確認次第新版を出す予定である。
●平成21年(2009) 8月 2日 川開き祭りフィナーレの夕方、衰弱が激しく緊急入院。以後容体は安定。8月下旬退院の話も出るほど回復。(病院のベッド上で足上げ運動をして看護師さんに叱られたらしい。)
●平成21年(2009) 8月30日夕方6時頃 容体急変し危篤状態に。
●平成21年(2009) 8月31日未明 永眠。真浄院釋正憲居士。享年八十一歳。
最後は心房細動という状態に陥ったそうである。兄はテレビドラマ「『救命病棟24時』と同じだっちゃ。」と言っていた。心電図が激しく乱れた音を発する状況だったそうだ。もはや体が生きていくのに耐えうること適わぬ状態にあった。即ち、寿命だったのだと思う。
ふだんは静かな大町の通りも、川開き祭りには昔通りの賑わいを見せるという。その最後の晩に倒れたのは、父が街のざわめきに心躍らせ、浮き立つ気分を満喫したからかもしれない。あるいは町内会で祭りを盛り上げる役を随分長く続けてきたから、昔通りの賑わいを見て安心したのかもしれない。そんなふうに思ってみる。
はなはだ不完全な記録であることを父に詫びたい。
追記その一
旧学制について
昭和20年当時は、7年制高等学校は別として、中学は4(or5)年制であり、その上に高等学校大学予科(3年制)、それに並んで専門学校(高等商業、高等工業、高等農林(いずれも3年制))、高等師範、師範学校、実業学校とあり、そのうえこれにはかなりの地域差があって、さらに戦後の混乱が重なるのであるから、綿密な現地調査を行わないと当時の正確な修業年限は明らかにならないだろう。
追記その二
石巻商業高校について
「石巻商業高校」の歴史をHPから抜粋。(http://sekisyo.myswan.ne.jp/guide.htm)
明治44年(1911) 石巻町立商業補習学校として創立
大正 6年(1917) 石巻町立石巻商業学校開校(乙種商業学校 修業年限3年)
昭和19年(1944) 石巻工業学校に転換
昭和21年(1946) 石巻商業学校に再転換(9学級)
昭和23年(1948) 開校記念式挙行, 5月17日を開校記念日と定む
昭和29年(1954) 宮城県に県移管・宮城県石巻商業高等学校と改称
父が昭和21年入学であれば、それは「石巻工業学校」から「商業」に戻った年ということになる。県立になるのが昭和29年(1954年)であるから、父が入学時はいずれにしても市立であったのだろう。
追記その三
東北学院大学について
ルーツが1886年(明治19年)設置の私塾「仙台神学校」である。その後、1891年(明治24年)に普通高等教育を施すようになり校名を「東北学院」に改称。1949年(昭和24年)に新制大学として発足した。旧学制における「普通高等教育」「高校」は現在の大学(教養部以上)に当たるので、昭和20年当時「大学」と称していない時代でも、実質は現在の大学と同じであったと考えられる。
追記その四
参考資料
新旧の「学制」については主にwikipediaを、各学校については学校HPを参照した。
追記その五
石巻の歴史を検索していて、こんなサイトを見つけた。参考までに。
①石巻 漫画と歴史の港町
>http://www.youtube.com/watch?v=zkO5n-yAM6M
②街道をゆく ~嵯峨散歩 仙台・石巻~
>http://aya3photo.web.infoseek.co.jp/kaido-o-yuku_013.html
上記二つに、全国区の日本酒「日高見」と「墨廼江」の蔵元巡りコースを加えれば、石巻の観光はもう少し魅力を増すのではないかと思った。ただしこの二つの酒蔵、あまりその方面に色気がなさそうである。
③石巻 蔵巡り
>http://sakenihon.exblog.jp/11999754/
こちらの管理人さんからは次のようなコメントいただいてます。
>故郷に自慢できるお酒がふたつもあるなんて、羨ましいですよ。
>”日和山から見る太平洋の絶景”見てみたいです。
>日高見・墨廼江の二つの酒蔵は間違いなく石巻の強みだと思います。
>酒蔵がきっかけに街が少しでも活性化するといいですよね。
>美味しい山海の珍味と卓越した地酒。
>まさに味がある街のアピールが出来そうですよね。
ファイト、石巻!! である。
西村さんには父が生前より長年にわたってお世話になっており、感謝しております。
西村会での活動は写真などでうかがい知る限り父にとって非常な楽しみであったものと思います。
父のダンスを私は見たことがないのですが、もともと野球が好きで、学生時代に陸上トラック競技全国大会入賞の経歴をもつ父ですから、運動神経はよかったと思います。
大文字屋の大黒柱となってからは、仕事以外で積極的に体を動かすことがなく、体のケアがおそろかになっているのではないかと子供の目からは見えました。
ダンスは50代から60代にかけて母と習っていたと思いますが、父にとって良い健康法になっていたのではないかと思います。
西村様には今後も大文字屋とのお付き合いを宜しくお願い致します。また父について何か思い出されることがありましたらお便りください。
もうすぐ立春ですが寒さはもう少し続くでしょう。ご自愛ください。
両親から憲ちゃんの学歴をちょっと聞いてみました。
昭和17年4月石巻商業学校入学(石中ではない!)
昭和19年商業学校が工業へ
昭和21再転換で商業に戻る
昭和22年学制改革
昭和21年3月石巻商業卒業(井上さんも商業4年間とおっしゃっていた)
昭和21年4月東北学院大学入学
昭和25年学院大学卒業
…ではないかとの事です。
☆学徒動員では原ノ町の仙台二高松風寮に泊まって軍事工場で弾等を作っていたようです。
その辺の詳細も聞いてみたので、今度メールしますね!
実は下記にて第二版がありますので参照ください。
父のプロフィール 二版
2010-06-24 13:15:45 | 日記
>http://blog.goo.ne.jp/kenchan00/e/b1a922031a897ae4520dbebac9acbcef
ただそれでもまだ謎が残るところはあるので、調べてみたいと思います。二版にある商業と学院の卒業年はまちがいないはずなのですが、疑問は残るので。