百か日が12月8日火曜日(2009年)なので、それに近い休日ということで12月5日土曜日に帰省した。
これはその備忘録である。
仙台にはお昼前に着いた。兄の忠典が車でお出迎えである。仙台の市場で仕事と食事をし、石巻に着いたのが午後4時頃。車内でだいぶいろいろな話をした。兄の体のこと、享おんちゃんのこと、トヨさんが交通事故の影響で早めに教職を退いたこと、春彦おんちゃんのこと、大塚の牡蠣の美味いこと、これも大塚だが、昔素潜りの漁師の舟に乗って採れたて海栗(うに)を私が食べ損なったこと(小舟の揺れに恐怖で泣き叫んでいたため)、etc。
本当は道すがら松島の享さんを訪問したかったが、リハビリとはいえ入院中でありご家族が多忙であり気候も気候だったので、今回は遠慮した。
この帰省の目的は、一つには父の墓参りであり、もう一つは父の歴史を整理し記録することである。
この日は、とりあえず、父の遺した書籍や手帳、写真を整理、参考になるものは持ち帰ることに。
大文字屋家の歴史も少しずつ整理したいので(というより余りに知らな過ぎるので)、仏壇にあったお経の本みたいな命日を記した冊子を全部転記。
夕方、母が銭湯に行くとのことなので便乗。最近家の風呂はあまり使わないとのこと。駅近くの銭湯まで恵美子さん(兄の妻、私の姉、以下恵美ちゃん)に車で乗せていってもらう。車中で恵美ちゃんに「石巻は何が変わったすか」と訊かれた。少し考えて「人が少なくなった。」と答えた。さびしいことである。しかしそれが現実である。こういう現実を憚ることなく口にできる程度には私も大人になった。
銭湯に着くと、なんでも1時間後に迎えに来るという。銭湯で1時間の入浴は小学5年頃に近所の小原昌之くんらとのダラダラだべりながらの入浴以来である。ふだんは頭洗って体洗って湯船浸かっての20分程度なので、1時間もたせるのはちょとたいへんだった。でもいい湯だった。
夕餉は宝来さんの寿司と某店の焼き鳥。お酒はビールのほかに恵美ちゃんが気を遣ってくれたのか日本酒の浦霞と日高見。どれも美味かった。
兄は同級会(飲み会)に顔を出すとかで不在。(だから仙台からの車中で時間をつくったのだろう。)9時頃帰宅すると、女子フィギュアスケート中継(グランプリファイナル、安藤美姫が2位に入った)で盛り上がる我々を見てやや蚊帳の外気分。かなりお疲れで3階で休憩。朝から動いていたからな、と思ったら、前日サッカーW杯のドロー(組み合わせ抽選会)の中継を深夜3時頃まで見ていたとのこと。なーんだ。
食べ飲みながら、母と恵美ちゃんに生い立ちやプロフィールを訊く。母の高城時代の話は、初めて聞くものばかりで新鮮な驚きがあった。太宰の『斜陽』さながらである。母の少女時代の写真を発見した。これも驚きである。それにしても母の父のことは今ひとつ分からない。恵美ちゃんは少女時代の転勤の多さ、意外に近くに住んでいたことに驚く。
翌日6日の日曜日は、午前中に女川のおんちゃん(淳こちゃん)と信子おばちゃんが墓参りに来てくれていて、帰りに大文字屋に寄って食事をしていってくれた。女川から車である。さすがに最近は夜の運転は控えているとのことだがお元気である。
私も昼頃に墓参。
称法寺は昔は本堂に地獄絵巻が掛かっていたが、今回見たら掛かっていなかった。
帰り道に北上河畔を歩いた。岸辺には漁船もあったがヨットの方が目立っていた。中瀬に造船所が残っているのを発見。昔通った石巻柔道会道場の辺りに行ったが駐車場になっていた。
尾形佳宏くんの店がある坂を登り、日和山へ。
小春日和。頂上付近は、人影まばらで、近所のおじさん連中がのんびり散歩したり、ベンチでタバコをすったりしていた。それでも日曜日ということもあってか、ドライブ途中らしき若いカップルや家族連れが、峠の団子屋を賑わしていた。
鹿島御児神社の鳥居から見遥かす太平洋は、水平線が視線上まで迫ってきて壮観だった。公園内に宮澤賢治の碑があって、「聞いていた海と実際の海があまりにちがうので驚いた」という意味のことが記されていたが、当たり前である。こんな海は、そんじょそこいらではお目にかかることができない。
本当に石巻は楽園なのだ。
つつじ園あたりのアヒルと鹿を見る。市女高あたりから噂に聞いたホワイトハウスも目撃したので満足して下山。
石巻小学校に寄る。葬儀の時にも来たが、そのときは工事で閉鎖され中に入れなかった。この日も耐震工事中だったが、中に入ることはできた。野球のユニフォームを来た子供たちが練習をしていた。仮校舎らしいプレハブが校庭の1/4ぐらいのスペースをとって建っていた。講堂―体育館でなくあくまで講堂である―は、かなりの補修されて、それでも昔のものがそのまま使われていた。
4時頃帰宅して、荷物の整理・身支度をする。
夕食に楼蘭さんの五目そばをいただく。母は広東麺みたいなものを食べていた。
帰りの切符は兄が用意してくれた。忝い。
石巻で午後7時の電車に乗れば、夜11時には自宅に着く。(神奈川県川崎市多摩区、最寄り駅は小田急線の生田駅。)便利になったものである。
仙台駅では、往路の待ち時間に駅内を逍遥して日本酒を売る店を見つけておいたので、復路の待ち時間に寄って「阿部勘(あべかん)」の「於面多加(おもたか)」(亀の尾、純米吟醸、4合、1850円)を購入。「阿部勘」は宮城県塩竃市の酒造で浦霞で有名な佐浦酒造の至近にある。「阿部勘」は県外向け、「於面多加」は県内向け商品名とのこと。帰宅後飲んだが、純米のしっかりした味わい、亀の尾特有か葡萄・苺の吟醸香、後味とキレがよく、可憐なる美酒であった。
新幹線はやての車内で父の遺品から持ち帰った一冊『小説 政変石巻―闇の中での政治家たちの戦い―』(野上茂・著、野上茂・刊)を読む。発売元に「古本屋三十五反(千石町)」とある。A・K戦争(○木和夫市長と○須光男県議の政治抗争)に材をとったフィクション。私が上京して後の石巻の町の動きを知ることができて面白かった。巻頭の「まえがき」に、
「かつて評論家の臼井吉見が、いみじくも『政争の街石巻』と決めつけたのもむべなるかなである。」
とあるが、私も仕事上臼井吉見の本は読んだことがある(『自分をつくる』筑摩書房は持っている)が、何の因果で石巻に言及しているのか訝った。
こうして帰省は完了したのである。次回はおそらく来年の春のお彼岸だろう。
付記その一
私は父の死に水もとれず、骨を拾うこともなく、納骨にも立ち会わなかった。それだけ普段の行いが悪いのだろう。
父は8月30日夕方危篤になっておよそ8時間余りで亡くなった。その時私は東京で仕事中だった。
火葬の際は、葬儀会場に事情の分かる人間が必要ということで早めに火葬場を後にした。
納骨は、49日あたりだったが、仕事がつまっていることもあって欠席した。
ただ私はそういう儀式に執着はないので気にしていない。父の骨は父ではない。
今の私にとって問題なのは、もっと父について知りたいということであり、私が知っている父について、それを知らない人に伝えたいということである。
それが父の死の効果であることはまちがいない。
付記その二
納骨は10月18日の日曜日、四十九日もかねて行われ、矢本の英雄さん・トヨさん、仙台の春彦さん・カヨさんらが来て下さったとのこと。
これはその備忘録である。
仙台にはお昼前に着いた。兄の忠典が車でお出迎えである。仙台の市場で仕事と食事をし、石巻に着いたのが午後4時頃。車内でだいぶいろいろな話をした。兄の体のこと、享おんちゃんのこと、トヨさんが交通事故の影響で早めに教職を退いたこと、春彦おんちゃんのこと、大塚の牡蠣の美味いこと、これも大塚だが、昔素潜りの漁師の舟に乗って採れたて海栗(うに)を私が食べ損なったこと(小舟の揺れに恐怖で泣き叫んでいたため)、etc。
本当は道すがら松島の享さんを訪問したかったが、リハビリとはいえ入院中でありご家族が多忙であり気候も気候だったので、今回は遠慮した。
この帰省の目的は、一つには父の墓参りであり、もう一つは父の歴史を整理し記録することである。
この日は、とりあえず、父の遺した書籍や手帳、写真を整理、参考になるものは持ち帰ることに。
大文字屋家の歴史も少しずつ整理したいので(というより余りに知らな過ぎるので)、仏壇にあったお経の本みたいな命日を記した冊子を全部転記。
夕方、母が銭湯に行くとのことなので便乗。最近家の風呂はあまり使わないとのこと。駅近くの銭湯まで恵美子さん(兄の妻、私の姉、以下恵美ちゃん)に車で乗せていってもらう。車中で恵美ちゃんに「石巻は何が変わったすか」と訊かれた。少し考えて「人が少なくなった。」と答えた。さびしいことである。しかしそれが現実である。こういう現実を憚ることなく口にできる程度には私も大人になった。
銭湯に着くと、なんでも1時間後に迎えに来るという。銭湯で1時間の入浴は小学5年頃に近所の小原昌之くんらとのダラダラだべりながらの入浴以来である。ふだんは頭洗って体洗って湯船浸かっての20分程度なので、1時間もたせるのはちょとたいへんだった。でもいい湯だった。
夕餉は宝来さんの寿司と某店の焼き鳥。お酒はビールのほかに恵美ちゃんが気を遣ってくれたのか日本酒の浦霞と日高見。どれも美味かった。
兄は同級会(飲み会)に顔を出すとかで不在。(だから仙台からの車中で時間をつくったのだろう。)9時頃帰宅すると、女子フィギュアスケート中継(グランプリファイナル、安藤美姫が2位に入った)で盛り上がる我々を見てやや蚊帳の外気分。かなりお疲れで3階で休憩。朝から動いていたからな、と思ったら、前日サッカーW杯のドロー(組み合わせ抽選会)の中継を深夜3時頃まで見ていたとのこと。なーんだ。
食べ飲みながら、母と恵美ちゃんに生い立ちやプロフィールを訊く。母の高城時代の話は、初めて聞くものばかりで新鮮な驚きがあった。太宰の『斜陽』さながらである。母の少女時代の写真を発見した。これも驚きである。それにしても母の父のことは今ひとつ分からない。恵美ちゃんは少女時代の転勤の多さ、意外に近くに住んでいたことに驚く。
翌日6日の日曜日は、午前中に女川のおんちゃん(淳こちゃん)と信子おばちゃんが墓参りに来てくれていて、帰りに大文字屋に寄って食事をしていってくれた。女川から車である。さすがに最近は夜の運転は控えているとのことだがお元気である。
私も昼頃に墓参。
称法寺は昔は本堂に地獄絵巻が掛かっていたが、今回見たら掛かっていなかった。
帰り道に北上河畔を歩いた。岸辺には漁船もあったがヨットの方が目立っていた。中瀬に造船所が残っているのを発見。昔通った石巻柔道会道場の辺りに行ったが駐車場になっていた。
尾形佳宏くんの店がある坂を登り、日和山へ。
小春日和。頂上付近は、人影まばらで、近所のおじさん連中がのんびり散歩したり、ベンチでタバコをすったりしていた。それでも日曜日ということもあってか、ドライブ途中らしき若いカップルや家族連れが、峠の団子屋を賑わしていた。
鹿島御児神社の鳥居から見遥かす太平洋は、水平線が視線上まで迫ってきて壮観だった。公園内に宮澤賢治の碑があって、「聞いていた海と実際の海があまりにちがうので驚いた」という意味のことが記されていたが、当たり前である。こんな海は、そんじょそこいらではお目にかかることができない。
本当に石巻は楽園なのだ。
つつじ園あたりのアヒルと鹿を見る。市女高あたりから噂に聞いたホワイトハウスも目撃したので満足して下山。
石巻小学校に寄る。葬儀の時にも来たが、そのときは工事で閉鎖され中に入れなかった。この日も耐震工事中だったが、中に入ることはできた。野球のユニフォームを来た子供たちが練習をしていた。仮校舎らしいプレハブが校庭の1/4ぐらいのスペースをとって建っていた。講堂―体育館でなくあくまで講堂である―は、かなりの補修されて、それでも昔のものがそのまま使われていた。
4時頃帰宅して、荷物の整理・身支度をする。
夕食に楼蘭さんの五目そばをいただく。母は広東麺みたいなものを食べていた。
帰りの切符は兄が用意してくれた。忝い。
石巻で午後7時の電車に乗れば、夜11時には自宅に着く。(神奈川県川崎市多摩区、最寄り駅は小田急線の生田駅。)便利になったものである。
仙台駅では、往路の待ち時間に駅内を逍遥して日本酒を売る店を見つけておいたので、復路の待ち時間に寄って「阿部勘(あべかん)」の「於面多加(おもたか)」(亀の尾、純米吟醸、4合、1850円)を購入。「阿部勘」は宮城県塩竃市の酒造で浦霞で有名な佐浦酒造の至近にある。「阿部勘」は県外向け、「於面多加」は県内向け商品名とのこと。帰宅後飲んだが、純米のしっかりした味わい、亀の尾特有か葡萄・苺の吟醸香、後味とキレがよく、可憐なる美酒であった。
新幹線はやての車内で父の遺品から持ち帰った一冊『小説 政変石巻―闇の中での政治家たちの戦い―』(野上茂・著、野上茂・刊)を読む。発売元に「古本屋三十五反(千石町)」とある。A・K戦争(○木和夫市長と○須光男県議の政治抗争)に材をとったフィクション。私が上京して後の石巻の町の動きを知ることができて面白かった。巻頭の「まえがき」に、
「かつて評論家の臼井吉見が、いみじくも『政争の街石巻』と決めつけたのもむべなるかなである。」
とあるが、私も仕事上臼井吉見の本は読んだことがある(『自分をつくる』筑摩書房は持っている)が、何の因果で石巻に言及しているのか訝った。
こうして帰省は完了したのである。次回はおそらく来年の春のお彼岸だろう。
付記その一
私は父の死に水もとれず、骨を拾うこともなく、納骨にも立ち会わなかった。それだけ普段の行いが悪いのだろう。
父は8月30日夕方危篤になっておよそ8時間余りで亡くなった。その時私は東京で仕事中だった。
火葬の際は、葬儀会場に事情の分かる人間が必要ということで早めに火葬場を後にした。
納骨は、49日あたりだったが、仕事がつまっていることもあって欠席した。
ただ私はそういう儀式に執着はないので気にしていない。父の骨は父ではない。
今の私にとって問題なのは、もっと父について知りたいということであり、私が知っている父について、それを知らない人に伝えたいということである。
それが父の死の効果であることはまちがいない。
付記その二
納骨は10月18日の日曜日、四十九日もかねて行われ、矢本の英雄さん・トヨさん、仙台の春彦さん・カヨさんらが来て下さったとのこと。
ダイモンは大活躍ですね。
それと父のプロフィールを調べるのに石小、石中、石商、東北学院などに問い合わせをしていたんですが、学校には個人の記録というのが意外に残っていなくて、結構調べるのが難しいんですね。学校では法律上学籍(生徒の記録)を二十年間保存しておく義務があるのですが、逆に言えば、二十年を超えると破棄される(破棄しなくても紛失した場合に責任を問われない…変な言い方ですが)んですね。卒業台帳だけは保存されるという説もありますが、これは確かではありません。
なぜこのような話をするかと言いますと、先年石中の同窓会のお知らせを岡義人さんの名前で頂いいていて、私は忙しさにかまけてご返事しそびれたんですが、父の場合を考えると、私たちの学校での活動記録というのも、私自身が残していかないといけない、ですから、こういう会というのもできるだけ大切にしないといけないな、と思ったわけです。
毛塚さんからのお便りでその思いを一層強くしたわけですが、それにしても、「ガンジ」で分かっちゃうっていうのもスゴイですね。「トッショロ」さんの方は誰かはっきりしないのですが(スイマセン!!)、できたら上の名前か下の名前だけでもお知らせください。
私の方は「大活躍」どころかまだまだ活躍不足なのですが、とりあえず今年は6月と一周忌(お盆かお彼岸)に帰省する予定ですので機会があったら飲みましょう。本当にお便りありがとうございます。
>私たちの学校での活動記録というのも、私自身が残していかないといけない
の「私自身」は、正しくは「私たち自身」です。訂正いたします。
次の帰省は6月とお盆を予定しております。毛塚さんとガンジによろしくお伝えください。
mail:y310@celery.ocn.ne.jp
TEL&FAX:044-911-8231
追って連絡お待ちしています。