SHIHOP

日々のあれこれ。他愛のないこと。。

受け入れること

2008-08-14 | Weblog
今朝

ダンナと、ウォーキングがてら隣町のファミレスでモーニングしよう
と、家を出て15分。
目的地はまだまだ遥か先なのに
お腹すきすぎて目の前のファミレスに飛び込んだしほです。

そのあとのモーニングの美味かったこと


前回
余命いくばくもないように書いた
わたしのおばあちゃん。

持ち直してます

大正生まれは、ほんま逞しいわ・・・

私はこの夏
友達との飲みを片っ端からキャンセルしたけど
持ち直してます


大正生まれ、ほんましぶといわ・・・



とはいえ
一日三食の介助と介護は変わりなく
今年のGW前から入退院繰り返してた祖母を介護してた母はそろそろ限界で
今までは弱音を吐かなかった母が
私が手伝いに帰ると
明らかにほっとした顔をするのが
老老介護の大変さを著実に物語っていて
息が詰まるほどに胸が苦しかった。


私があんまり家をあけると
両親が旦那のことを心配するので
週末は千葉に平日は岡山に
単身赴任のお父さん状態の私


おばあちゃんは
持ち直したとはいえ
93歳なのでいつどうなるか分かったものではなく

正直、気持ちが休まらないし
親より若いとはいえ体もきつい。


人を看取るということ
人の命を看取るということの重さを
日々感じて過ごしています。


息子君は、まだたった9歳だけど
二度目の身内の死を身近に感じて
今、かなりナイーブになってる。

でも、子供のうちから
身近な人の死を体験して受け入れることは
とてもとても大切なことだと私は思う。


それは、人の命と向き合うことだから。


子供の哀しみも受け入れなくてはいけない親は大変だけど
逃げちゃいけないと思う。
それは、人が人として生きていく上で
受け入れ続けなくてはいけないことだから。



私は、31歳の今日まで
片手では数えきれない大切な人の死に直面してきた。

何度も何度も、繰り返し泣いてうなされて乗り越えてきた。


苦しいことだけど
哀しいことだけど
それは受け入れていくしかないことだから。


息子君が
今、自分なりに受け入れようとしている姿が
私には辛くて直視できないのだけど

それも含めて
自分の出来うる限りのことを
おばあちゃんにはしてあげたい。


それが、私にも親にも息子君にも
そして、もちろんおばあちゃんにも
結果的には、救いになるんだと思うから。








最後に

2008-08-05 | Weblog
30過ぎてから
ショートパンツやノースリーワンピなどなど
目覚めてしまったしほです

周りの迷惑考えろ
な今日この頃です。。
えらいことすんません{/hiyo_shock2/


言い訳させてもらうなら
22で子供生んで太ってしまって
その後アップダウンを繰りかえし
一昨年からサイズダウンして、独身の頃のサイズに近づいたもんで

はじけたいのよぉぉぉ


閑話休題。。



先月末から
息子君が一人で私の実家に夏休みのお泊り
のはずが

おばあちゃん(私の祖母で息子君の僧祖母)が
肺炎で緊急入院しちゃって余命1週間なんて言われたもんでさぁ大変!


私も仕事休んですっとんで帰ったら
90過ぎても矍鑠と自分の身の回りは自分でしてきた
大正生まれの逞しさを体現していたおばあちゃんが
たった3日の入院生活ですっかり呆けてしまって
ご飯のお茶碗すら一人でもてなくなってしまっていた。


今年93になった年寄りを身内に抱えていても
ついつい他人事のように考えていた介護が
いまずっしりと家族の肩にのしかかっている。


病院にいて、朝昼晩のご飯の解除に行くだけなのだけど
それも実際やってみると
そのことに完全に生活の基盤をうばわれてしまって
たった一週間手伝っただけで、くたくたになってしまった。


すっかりボケたおばあちゃんは
私の顔がわからず看護師さんとよんだり
毎日見舞う母に「置き去りにした!」と延々責めたり
かと思えば初曾孫の息子君の声だけは聞き分けたり

自分の世界の中で、時々現実に帰ってきて
私たちを存分にかき乱してくれる。。。


ダンナも仕事もほっぽりだして実家に帰ってたもんで
親が心配して、今は千葉に帰ってきてます。
ダンナにせめてもので、毎日好物つくってあげて
冷凍庫にいっぱい保存して、また岡山に帰る準備してます。


この夏は
息子君は実家のじじばばと思いっきり楽しむ予定で
私とダンナは久々(約10年ぶり)の二人の時間を楽しむ予定で
それが根底から覆されてしまった夏休み。


それでも、90年以上も生きてきたおばあちゃんの最後が
ささやかでも温かなものであるように
私も明後日からまた実家に帰って介護手伝ってきます。


人の死、というものは
慣れることはないけど
受け入れ方を学んでいくことはできる。


けして、悲しいばかりではない。


ましてや
大切に思う人たちに囲まれることができたなら
それは幸せな最後だと思う。


おばあちゃんの今が、そうであるように。