「ケイリン」学生に開放案 経産省 (朝日新聞) - goo ニュース
競輪なんて19の頃からやってましたがなにか?
競輪の初打ちは忘れもしない、1994年12月30日の立川競輪場。
そう、お察しの付く方はお気づきの通り、競輪グランプリ開催日だったなあ。
当時喘息と、それによる微熱が続いて医者にかかっていて、それが治まったから大丈夫かなと思って出かけた立川競輪場。
いや、参ったね。
グランプリをなめきってますた。
なにせ場内は、3歩進めば誰かと肩が触れあうような混雑。おじいちゃんに連れられてきた子供は泣き叫ぶという阿鼻叫喚の地獄絵図。金網越しにグランプリを見たんだっけ。
確か、「もう終わったとされていた」井上茂徳→滝澤正光大先生と入ったんじゃなかったかな。千葉から来たから、同じ八千代市って事もあって、滝澤大先生から応援しようと、確か車券は大先生から流していたような気がする。まさか2着に来るなんて夢にも思わなかったわけだが。
当時は3連単はおろか、今で言う2車単もなくって、今で言う2枠単、当時はそれが当たり前で連勝式って呼んでいた。十年一昔とは言うけれど、前半3レースまで連勝式は複式、後半は単式になっていた頃が懐かしい。もちろん、当時は窓口は皆口頭発売。窓口ごとにおばちゃんがいて、買い目と金額をいくらずつと言いながら買っていた。今となってはマークカードが当たり前になっていて、とても3連単をおばちゃんのいる窓口で口頭で買おうなんて思わないしね。
そんな地獄絵図の立川競輪場を後にした俺が、その2、3日後、熱を再発して気管支炎まで併発するという憂き目にあったのは、1995年早々。親に担がれながら八千代台の病院に連れて行かれた。競輪場に行って気管支炎なんかもらってくるんじゃねー!!と、当時の相方にさんざん怒られた記憶が生々しく蘇る。だってその前だって結局10日間くらい、家で軟禁状態にされていたんだから、いいじゃん出かけたって。ダメ?
結局気管支炎が災いし、その年に本格的に動けるようになったのは、阪神淡路大震災が起こる、1月17日まで待たなくてはならなかったのだった。
しかし、競輪って、入場者数が96年の半分だったとは思わなかった。
確かにその頃から競輪が斜陽産業と言われていたのは記憶している。96年の競輪グランプリで、売り上げが100億に到達して喜んだ記憶があるのだが、その頃から比べれば、各場とも売り上げ、入場人員ともにがたがたと崩れ落ちていっているのは気にかけている。立川や川崎だって10年前は平日でも確実に1万人は入っていたのに、今じゃなんとか5000人入るのが精一杯。地元千葉競輪なんてそりゃもうひどいもので、96年3月の千葉ダービーの時には、入場者は15000人を数えたものなのに、今なんか下手したら2000人を割るような閑古鳥。売り上げなんてもう目が当てられないくらい。一日総売上5000万とか6000万とか、10年前を知っている者にはあり得ない数字のオンパレード。ここはどこの田舎の競輪場かと。
さりとて、経済産業省も、競輪の復興に本腰を入れて対策を立てないと、日本が誇るオリンピック競技ケイリンも、本丸ごと沈没という事態になりかねない。そのためには、学生の車券購入を合法化するのも一手だろうが(というより、本当に好きな奴は年齢詐称して買っているw)、世間一般をどれだけ競輪に向けさせるかという、簡単なようでとても難しい作業に取りかからねば、競輪の復興はあり得ない。
なにせ競輪というと、いろいろダーティーなイメージが取り憑いてしまっているわけで、そこをいかにクリアにするか。また、本来持っている競輪の競技性にも着目したらいかがであろう。
ずぶの初心者が車券を買うとき、競輪ほど予備知識のいるギャンブルもないだろう。「1と2が同県同士の先輩後輩だからこれが引っ張って4が捲って5はそれに付いていって9なんか別線ラインの流れ込み狙い…」なんて、初心者にいらぬイメージを与えるだけのような気がするのだが…。まあ、それが競輪の醍醐味でもあるわけで、一概にいいとも悪いとも言えないのが泣き所。
とにかく、やれることからどんどんやっていこう。
鹿野山あたりに行くと、遠乗りしている競輪選手に出会ったりして、やっぱり応援したくなるもんなあ。
頑張れ、競輪!
経済産業省は、集客力不足で売り上げが落ちている競輪事業の改革案をまとめた。車券購入が禁じられている学生に門戸を開くほか、自治体に「上納」させた交付金の一部を競輪場設備の改修などにかけた費用に応じて還付する。関係団体などの意見を聞き、2月中に改革案を決める方針だ。
経産省の案によると、すでに学生の馬券購入を認めている競馬を念頭に、自転車競技法を改正して19歳以上なら学生でも車券を購入できるようにする。他競技のスター選手を転身しやすくしたり、外国人選手の出場制限も緩和したりして、レースの活性化も図る考えだ。
また、競輪実施自治体が日本自転車振興会に納めることを義務づけられている交付金については、施設整備に投資した自治体に一定の割合で還付する方向で検討する。自治体側は交付金の削減を求めているが、経産省は老朽化した施設の改善を促す形で自治体の負担軽減を図る。
04年度の競輪入場者数は1073万人余りで、96年度の半分以下に急落。売り上げも9150億円と2年連続して1兆円を割り込んだ。
競輪なんて19の頃からやってましたがなにか?
競輪の初打ちは忘れもしない、1994年12月30日の立川競輪場。
そう、お察しの付く方はお気づきの通り、競輪グランプリ開催日だったなあ。
当時喘息と、それによる微熱が続いて医者にかかっていて、それが治まったから大丈夫かなと思って出かけた立川競輪場。
いや、参ったね。
グランプリをなめきってますた。
なにせ場内は、3歩進めば誰かと肩が触れあうような混雑。おじいちゃんに連れられてきた子供は泣き叫ぶという阿鼻叫喚の地獄絵図。金網越しにグランプリを見たんだっけ。
確か、「もう終わったとされていた」井上茂徳→滝澤正光大先生と入ったんじゃなかったかな。千葉から来たから、同じ八千代市って事もあって、滝澤大先生から応援しようと、確か車券は大先生から流していたような気がする。まさか2着に来るなんて夢にも思わなかったわけだが。
当時は3連単はおろか、今で言う2車単もなくって、今で言う2枠単、当時はそれが当たり前で連勝式って呼んでいた。十年一昔とは言うけれど、前半3レースまで連勝式は複式、後半は単式になっていた頃が懐かしい。もちろん、当時は窓口は皆口頭発売。窓口ごとにおばちゃんがいて、買い目と金額をいくらずつと言いながら買っていた。今となってはマークカードが当たり前になっていて、とても3連単をおばちゃんのいる窓口で口頭で買おうなんて思わないしね。
そんな地獄絵図の立川競輪場を後にした俺が、その2、3日後、熱を再発して気管支炎まで併発するという憂き目にあったのは、1995年早々。親に担がれながら八千代台の病院に連れて行かれた。競輪場に行って気管支炎なんかもらってくるんじゃねー!!と、当時の相方にさんざん怒られた記憶が生々しく蘇る。だってその前だって結局10日間くらい、家で軟禁状態にされていたんだから、いいじゃん出かけたって。ダメ?
結局気管支炎が災いし、その年に本格的に動けるようになったのは、阪神淡路大震災が起こる、1月17日まで待たなくてはならなかったのだった。
しかし、競輪って、入場者数が96年の半分だったとは思わなかった。
確かにその頃から競輪が斜陽産業と言われていたのは記憶している。96年の競輪グランプリで、売り上げが100億に到達して喜んだ記憶があるのだが、その頃から比べれば、各場とも売り上げ、入場人員ともにがたがたと崩れ落ちていっているのは気にかけている。立川や川崎だって10年前は平日でも確実に1万人は入っていたのに、今じゃなんとか5000人入るのが精一杯。地元千葉競輪なんてそりゃもうひどいもので、96年3月の千葉ダービーの時には、入場者は15000人を数えたものなのに、今なんか下手したら2000人を割るような閑古鳥。売り上げなんてもう目が当てられないくらい。一日総売上5000万とか6000万とか、10年前を知っている者にはあり得ない数字のオンパレード。ここはどこの田舎の競輪場かと。
さりとて、経済産業省も、競輪の復興に本腰を入れて対策を立てないと、日本が誇るオリンピック競技ケイリンも、本丸ごと沈没という事態になりかねない。そのためには、学生の車券購入を合法化するのも一手だろうが(というより、本当に好きな奴は年齢詐称して買っているw)、世間一般をどれだけ競輪に向けさせるかという、簡単なようでとても難しい作業に取りかからねば、競輪の復興はあり得ない。
なにせ競輪というと、いろいろダーティーなイメージが取り憑いてしまっているわけで、そこをいかにクリアにするか。また、本来持っている競輪の競技性にも着目したらいかがであろう。
ずぶの初心者が車券を買うとき、競輪ほど予備知識のいるギャンブルもないだろう。「1と2が同県同士の先輩後輩だからこれが引っ張って4が捲って5はそれに付いていって9なんか別線ラインの流れ込み狙い…」なんて、初心者にいらぬイメージを与えるだけのような気がするのだが…。まあ、それが競輪の醍醐味でもあるわけで、一概にいいとも悪いとも言えないのが泣き所。
とにかく、やれることからどんどんやっていこう。
鹿野山あたりに行くと、遠乗りしている競輪選手に出会ったりして、やっぱり応援したくなるもんなあ。
頑張れ、競輪!
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