1980年6月5日、東京・日本橋をスタートし、足かけ29年、のべ493日間に渡り、日本列島の外周を、公共交通機関「等」で巡る、種村直樹先生の「日本列島外周気まぐれ列車」は、昨日6月6日15時、無事にスタート地点である東京・日本橋の「東京市道路原標」に到着しました。
雑記帳 鉄道作家の種村さん、29年かけ日本一周ゴール(毎日新聞) - Yahoo!ニュース
日本外周列車の旅、30年目でゴール のべ493日間(朝日新聞) - goo ニュース
いつゴールするのかすら、当人は元より、旅を共にしたことがある方々でさえも、全く予想すらつかなかった、「日本列島外周気まぐれ列車」の旅は、ついに東京・日本橋にゴール。
予めこの旅のゴールインの日時は、レイルウェイ・ライター友の会の会報で周知されていたので、この日だけは…と思い、完全に予定を空けておくことに。
正直、予定を空けてはいても、その場に知人と分かる人がいなければ、全く身動きが取れそうにない気配。うむ、どうしよう?
その昔、汽車旅派をリードしてきた2大鉄道作家、一人旅を好む宮脇俊三先生の「宮脇派」と、鈍行乗り継ぎやレールラリー、汽車旅おにごっこ(ある地域を対象に、三日三晩レイルウェイ・ライターを「鬼」に模し、その姿を探して旅をし続ける、ある意味地獄のゲーム)など、ゲーム性を盛り込むなどで、「集団」での旅を好んだ「種村派」に分けられ、その両者の旅のスタイルから、両者による喧々囂々たる議論が今の世にも残っているほど。「横のつながりが出来やすい」のが種村式の旅の面白さでもある反面、「横のつながりが出来ないと全く面白くもない」という裏があるのもまた真なりで、横のつながりだけで行われてきた「外周の旅」は、ともすればそういった批判の第一の矢面に立たされることになった。
そんなおいらも、15年前ならいざしらず、種村先生の読者の皆さんとお会いする機会は、学生時代に別れを告げる1997年頃を境にしてほぼぷっつりと途絶えており、僅かにミクシィ経由で、汽車旅を共にしたことがある方々とつながりがある程度に過ぎなくなっていた。というより、おいらがミクシィに加入したのが2006年3月で、ミクシィに加入することがなければ、この方々とも接点を持つことは皆無だったのだ。
とりあえず日取りは空けておいたけれど、さてどうするかな…と思案していたら、当ブログでもコメントを寄せて下さるへいちゃん氏が、奈良の生駒からこの日のために出てくるというので、安心して出かけることに。
安心して出かけるといっても、実はへいちゃん氏と会うのも、実に15年ぶりくらいという勢いになるのだが…。
あと、これは余談だけれども、「へいちゃん」で変換しようとすると、うちのとっても素晴らしいATOK様は、一発目で塀ちゃんと出して下さるので涙、涙、涙。
外周の旅の最後の日程に同行しているというへいちゃん氏から受ける実況で、とりあえず昼過ぎに行動開始。というより、家を出たのが昼過ぎという時点で、選択肢はほぼゴール地点の日本橋直行しかなかったのだが。
地元の駅から京成エアポート快速で出発。船の科学館から豊洲→通三丁目バス停…という行程を聞き出し、もしかすると豊洲で合流できるかも…との期待もあったが、さすがに都営浅草線ルートで豊洲へ回ると、その時点でゴール目標の午後3時に近づきそうな気配なので、通三丁目バス停なら東京駅八重洲口の一つ前のバス停で場所も分かるので、エアポート快速から三崎口行き快特に乗り継いで宝町で下車、バス停で、それなりに分からないように待ち伏せすることにした。
行き交う高速バスやツアーバスを眺めつつ張ることおよそ15分。
これまでも東京駅八重洲口へ向かうバスは2台ほど見送ったが、1台だけあからさまに超満員の東16系統がやって来てこりゃもうビンゴww
へいちゃんさんとも、およそ14年半ぶりの再会。おー懐かしい、心の友よ。
しかし。
へいちゃん氏と初めて出会ったのが、「日本縦断JRウオッチング」の1988年末だから21年前。
横のつながりをほぼ断ち切ったのが12年前。
否応なしに過ぎ去った年月を痛感させられることになる。
…誰が誰だかわかりゃせんorz
この辺の記憶はぷっつりと断絶しているので、通三丁目バス停から日本橋へ歩く道すがら、いや日本橋のたもとにいる時でさえも、あまりに脳みその奥深くに眠り込んだ記憶を揺り起こすのでもう精一杯。
なにせ、21年前にお世話になった方々の姿を思い返すだけでも一苦労で、へいちゃんさんに「この方が○×さんだよ」と教えられない限り、その人の顔を見ても全く思い出せないのだから、20年という時の流れは非情なものだ。こちとらも、汽車旅仲間の顔を思い出せないのだから、たいがいだよなあ…。
お陰様をもちまして、種村先生が拍手の中を日本橋にゴールして、記念撮影やら新聞取材やらを受けている間、あたしは脳みその中の記憶の掘り起こしに必死になっておりました。
いや、本当に誰が誰だか全く思い出せなくて…。
こうした出会いがあったので、日本橋や神田駅前の「酔ってけ」に場所を移して2次会、3次会、4次会と、夕方からほぼノンストップで飲み続け、気がついたら日暮里23時40分の終電に間に合うか…という時間。
これだけ長い間飲み続けるということ自体は、実は野球観戦でデーゲームでまず飲んで、試合が終わってまた飲んで…というパターンで慣れているのだけれど、野球観戦である程度アルコールが飛ぶのならともかく、夕方から場所をいろいろと変えながら飲み続けたので、アルコールが発散される間もなく、酔いはしなかったけれど、しこたま飲んだな…と思えるほど飲んだ。
なんかね。
一人だけ十数年ぶりに出て行く同窓会に出て行ったようなもんでございまして。
不義理をしたサークルの皆さん(ただ単に貧乏で会費が払えずトンズラした)ともお会いできて、自分の中だけにあったわだかまりが、少しは解消できたのかなと思う。
この出会いが、また一つきっかけとなって、横のつながりを再び築けていければ…と思います。
当日ご挨拶させていただいた皆様、本当にありがとうございました。
そして、種村先生とも実に13年近くの時を隔てての再会。
おいらのことを「メガネカマキリ」と呼んでいた先生も、大病を患ったこともあり、生憎と覚えていらっしゃらなかったのは仕方がない。なにせ前にお会いしたのが1990年代中盤なのだから、覚えていて欲しいという方が無茶である。
しかし、先生の目は未だにしっかりしていらっしゃったのがなにより嬉しかった。
もう、それだけです…。・゜・(ノД`)・゜・。
種村先生。
外周の旅ゴール、おめでとうございます。
雑記帳 鉄道作家の種村さん、29年かけ日本一周ゴール(毎日新聞) - Yahoo!ニュース
列車などで日本一周の旅をしていた鉄道作家の種村直樹さん(73)が6日、ゴールの東京・日本橋に到着した。「日本列島外周気まぐれ列車」と銘打ち、29年かけ北海道から沖縄まで反時計回りに巡った。
80年6月に日本橋を出発、年に数回旅に出かけた。バスや船を乗り継ぎ、鉄道のない半島や離島にも足を運んだ。体を壊し4度入院したが、行く先々で住民とふれあい、「旅をやめたいとは思わなかった」。
約100人のファンに大きな拍手で出迎えられた種村さんは「行きたいところは、他にもたくさんある。100歳まで列車に乗りたい」。気まぐれ列車の「終点」は、まだ見えない。【山本将克】
日本外周列車の旅、30年目でゴール のべ493日間(朝日新聞) - goo ニュース
鉄道ライターの種村直樹さん(73)が6日、日本外周列車の旅を始めて30年目にして、スタート地点の東京都中央区の日本橋に戻ってきた。
年に数回、のべ493日間の旅を続けた。気ままがモットーで、計画を練るのは前夜。なるべく鈍行を使うようにし、何年かかるか予想もできなかった。
だが意外と鉄道が少なく、徒歩やバスでの移動が多かった。最も楽しかったのは、鉄道のない離島での人々とのふれあい。「今後、鉄道のないところも旅したい」
いつゴールするのかすら、当人は元より、旅を共にしたことがある方々でさえも、全く予想すらつかなかった、「日本列島外周気まぐれ列車」の旅は、ついに東京・日本橋にゴール。
予めこの旅のゴールインの日時は、レイルウェイ・ライター友の会の会報で周知されていたので、この日だけは…と思い、完全に予定を空けておくことに。
正直、予定を空けてはいても、その場に知人と分かる人がいなければ、全く身動きが取れそうにない気配。うむ、どうしよう?
その昔、汽車旅派をリードしてきた2大鉄道作家、一人旅を好む宮脇俊三先生の「宮脇派」と、鈍行乗り継ぎやレールラリー、汽車旅おにごっこ(ある地域を対象に、三日三晩レイルウェイ・ライターを「鬼」に模し、その姿を探して旅をし続ける、ある意味地獄のゲーム)など、ゲーム性を盛り込むなどで、「集団」での旅を好んだ「種村派」に分けられ、その両者の旅のスタイルから、両者による喧々囂々たる議論が今の世にも残っているほど。「横のつながりが出来やすい」のが種村式の旅の面白さでもある反面、「横のつながりが出来ないと全く面白くもない」という裏があるのもまた真なりで、横のつながりだけで行われてきた「外周の旅」は、ともすればそういった批判の第一の矢面に立たされることになった。
そんなおいらも、15年前ならいざしらず、種村先生の読者の皆さんとお会いする機会は、学生時代に別れを告げる1997年頃を境にしてほぼぷっつりと途絶えており、僅かにミクシィ経由で、汽車旅を共にしたことがある方々とつながりがある程度に過ぎなくなっていた。というより、おいらがミクシィに加入したのが2006年3月で、ミクシィに加入することがなければ、この方々とも接点を持つことは皆無だったのだ。
とりあえず日取りは空けておいたけれど、さてどうするかな…と思案していたら、当ブログでもコメントを寄せて下さるへいちゃん氏が、奈良の生駒からこの日のために出てくるというので、安心して出かけることに。
安心して出かけるといっても、実はへいちゃん氏と会うのも、実に15年ぶりくらいという勢いになるのだが…。
あと、これは余談だけれども、「へいちゃん」で変換しようとすると、うちのとっても素晴らしいATOK様は、一発目で塀ちゃんと出して下さるので涙、涙、涙。
外周の旅の最後の日程に同行しているというへいちゃん氏から受ける実況で、とりあえず昼過ぎに行動開始。というより、家を出たのが昼過ぎという時点で、選択肢はほぼゴール地点の日本橋直行しかなかったのだが。
地元の駅から京成エアポート快速で出発。船の科学館から豊洲→通三丁目バス停…という行程を聞き出し、もしかすると豊洲で合流できるかも…との期待もあったが、さすがに都営浅草線ルートで豊洲へ回ると、その時点でゴール目標の午後3時に近づきそうな気配なので、通三丁目バス停なら東京駅八重洲口の一つ前のバス停で場所も分かるので、エアポート快速から三崎口行き快特に乗り継いで宝町で下車、バス停で、それなりに分からないように待ち伏せすることにした。
行き交う高速バスやツアーバスを眺めつつ張ることおよそ15分。
これまでも東京駅八重洲口へ向かうバスは2台ほど見送ったが、1台だけあからさまに超満員の東16系統がやって来てこりゃもうビンゴww
へいちゃんさんとも、およそ14年半ぶりの再会。おー懐かしい、心の友よ。
しかし。
へいちゃん氏と初めて出会ったのが、「日本縦断JRウオッチング」の1988年末だから21年前。
横のつながりをほぼ断ち切ったのが12年前。
否応なしに過ぎ去った年月を痛感させられることになる。
…誰が誰だかわかりゃせんorz
この辺の記憶はぷっつりと断絶しているので、通三丁目バス停から日本橋へ歩く道すがら、いや日本橋のたもとにいる時でさえも、あまりに脳みその奥深くに眠り込んだ記憶を揺り起こすのでもう精一杯。
なにせ、21年前にお世話になった方々の姿を思い返すだけでも一苦労で、へいちゃんさんに「この方が○×さんだよ」と教えられない限り、その人の顔を見ても全く思い出せないのだから、20年という時の流れは非情なものだ。こちとらも、汽車旅仲間の顔を思い出せないのだから、たいがいだよなあ…。
お陰様をもちまして、種村先生が拍手の中を日本橋にゴールして、記念撮影やら新聞取材やらを受けている間、あたしは脳みその中の記憶の掘り起こしに必死になっておりました。
いや、本当に誰が誰だか全く思い出せなくて…。
こうした出会いがあったので、日本橋や神田駅前の「酔ってけ」に場所を移して2次会、3次会、4次会と、夕方からほぼノンストップで飲み続け、気がついたら日暮里23時40分の終電に間に合うか…という時間。
これだけ長い間飲み続けるということ自体は、実は野球観戦でデーゲームでまず飲んで、試合が終わってまた飲んで…というパターンで慣れているのだけれど、野球観戦である程度アルコールが飛ぶのならともかく、夕方から場所をいろいろと変えながら飲み続けたので、アルコールが発散される間もなく、酔いはしなかったけれど、しこたま飲んだな…と思えるほど飲んだ。
なんかね。
一人だけ十数年ぶりに出て行く同窓会に出て行ったようなもんでございまして。
不義理をしたサークルの皆さん(ただ単に貧乏で会費が払えずトンズラした)ともお会いできて、自分の中だけにあったわだかまりが、少しは解消できたのかなと思う。
この出会いが、また一つきっかけとなって、横のつながりを再び築けていければ…と思います。
当日ご挨拶させていただいた皆様、本当にありがとうございました。
そして、種村先生とも実に13年近くの時を隔てての再会。
おいらのことを「メガネカマキリ」と呼んでいた先生も、大病を患ったこともあり、生憎と覚えていらっしゃらなかったのは仕方がない。なにせ前にお会いしたのが1990年代中盤なのだから、覚えていて欲しいという方が無茶である。
しかし、先生の目は未だにしっかりしていらっしゃったのがなにより嬉しかった。
もう、それだけです…。・゜・(ノД`)・゜・。
種村先生。
外周の旅ゴール、おめでとうございます。
6日はありがとう!4次会までお疲れさまでした。(っていうか、引っ張り回したのはワタクシですが・・・)
ワタクシもお会いできて、ホンマに嬉しかったよ。
ワタクシもあのサークルから離れて久しいけど、覚えてくれてる人、声かけてくれる人がいて、有り難いことです。
先生のゴールインには心からお祝いするとともに、先生のおかげでこれだけのご縁が出来た事に、心から感謝したいです。
先生には、ホンマ100歳まで乗って、書き続けてもらいたいね。
まさか私も、最後の最後で外周の旅のゴールに立ち会うことが出来るとは、当時は予想だにせず、いろんな方々との再会もあって、とても嬉しい一時を過ごさせて頂きました。
嬉しさもある一方で、「歳を取ったなおい…」と思う場面が多々あったのも事実ではございますが。
これも何かのご縁として、横のつながりをもう一度構築できれば良いなと思っております。
ありがとうございました。
当日私は仕事のため立会い出来ず残念至極。代わりというわけではありませんが公休だった4日に参加させて頂きました。
メガネカマキリ、あったねぇ、懐かしいなぁ。たしか元ネタはアメリカ横断ウルトラクイズだったと思われ。
最後にお会いしたのはいつでしょうか…。
おしゃべり会でないとすると、1992年頃まで遡るのでしょうか。
あれってウルトラクイズが元ネタだったんですか。
初めて知りました。