小学校も英語必修 5、6年生 教員養成に課題 中教審部会 (産経新聞) - goo ニュース
小学校で英語を「義務教育で」教えることが、果たして本当に必要なのだろうか。
小さいころから英語に慣れ親しむこと自体は賛成である。外国語というものには、小さい子供達には少なからず未知の世界という琴線を大いに刺激するもので、学習意欲も高まろうというもの。本物の外人さんとしゃべることが出来れば学校に行っても鼻高々になるだろうし、少なくとも中学生活を考えれば、大きなアドバンテージになることは間違いない。受験対策と考えたとしても、昨今大学入試センター試験でもリスニングが必須となる情勢なので、少なくともリスニングという科目に於いては、非常に大きなアドバンテージを得ることが出来よう。加えてしゃべることもできれば、大学に入れば海外留学かホームステイか…という夢まで膨らんでくる。
しかし、こと「日本語」を考えた場合、その浸透度ははっきりいってお寒い状況ではないか。
テレビのテロップなどでよく見受けられるが、公共の電波たるものが、「そうゆう」「今日わ」などというテロップを恥ずかしくもなく垂れ流す神経は、もはや本来美しいはずの日本語を冒涜しているとさえ思うのである。
「言う」は本来「いう」であって、発音の「ゆう」とは書かないとは、「~は」「~へ」を「~わ」「~え」と書かないこととワンセットで、小学校一年生でうるさいほど学ぶことなのだが、本当にリアルで知らないだけなのか、単にテロップ作成者の自意識過剰な個性のアピールなのかはわからないが、前者ならば制作者の頭の中身が知られようし、後者は制作者の日本語のモラルが問われよう。
ブログでも「今日ゎ…」なんていう書き方が、若い女性を中心に流行っているが、はっきり言ってそんな書き方をするブログは読む気すら起こらないし、そんな書き方をすればかわいく思われるなどと思ったら大間違いである。正しい日本語を使おうと思えば、いくら匿名とはいえあんな書き方を世間一般にまき散らすことは出来ないと思うのだが。
例えば「役不足」「情けは人のためならず」という言葉の本来使われるべき用法を知っているか……などという難しいことは問うてない(っていうより自分も正しく認識してない_| ̄|○)。それ以前の、日本語の最低限の基礎知識が、今の日本には欠けてはいないだろうか。
そのような状況で新たに外国語を義務で習得させることが、果たして本当に子供達のためになるのかどうか、今一度日本のお役人の皆様方にはお考え頂きたい。
「英語」と聞けば、響きはいいかもしれないが、その前に美しい日本語があるということを、子供達に教えることが先決なのではないだろうか。
昨今の日本語事情を見て、強くそう思う。
小学校英語の充実を検討してきた中央教育審議会の外国語専門部会は二十七日、小学校で全国一律に英語を実施するよう事実上の必修化を求める審議報告をまとめた。報告では成績をつける教科としてではないが、五、六年で平均週一回の必修化を検討するよう要請した。三十一日の教育課程部会に報告する。
現在、全国の96%を超える小学校で歌やゲームなど何らかの「英語活動」が導入されている現状を踏まえ、国際コミュニケーション能力養成の一環として充実を図った。今後、中教審の教育課程部会で国語など他教科との兼ね合いを審議。最終決定後、文科省では早ければ来年度にも学習指導要領の改定に臨む。
審議報告では、高学年(五、六年)で「年間三十五単位時間(平均週一回)程度で共通の教育内容を設定するよう検討する必要がある」とした。ただ、児童を数値評定する「教科化」は「今後の課題とする」と慎重な表現にとどめ、まず「領域または総合学習で位置づける」とした。
道徳や特別活動と同じ位置づけの「領域」の場合、指導要領に教育目標や内容を明示しつつも成績はつけない。「総合学習」なら指導要領で趣旨などを定め、教育内容は各校に任される。
一方、審議報告では教員にも英語を幅広く課すよう要請。将来、小学教員を目指す学生が学ぶ大学の小学校教員養成課程に英語を導入するよう求めたほか、現職教員には研修プログラムを開発して実施するよう提言。さらに、指導者については、「学級担任とALT(外国語指導助手)、英語が堪能な人材とのチームティーチングが基本」と指摘した。
文部科学省の調査では、小学校英語必修化について教員の過半数が消極的だった。発音指導に自信が持てない教員も相当数いるという。背景には、大学で英語の指導法を学んでこなかったことや、現職向けの英語研修が普及していない実情があるとみられている。
小学校で英語を「義務教育で」教えることが、果たして本当に必要なのだろうか。
小さいころから英語に慣れ親しむこと自体は賛成である。外国語というものには、小さい子供達には少なからず未知の世界という琴線を大いに刺激するもので、学習意欲も高まろうというもの。本物の外人さんとしゃべることが出来れば学校に行っても鼻高々になるだろうし、少なくとも中学生活を考えれば、大きなアドバンテージになることは間違いない。受験対策と考えたとしても、昨今大学入試センター試験でもリスニングが必須となる情勢なので、少なくともリスニングという科目に於いては、非常に大きなアドバンテージを得ることが出来よう。加えてしゃべることもできれば、大学に入れば海外留学かホームステイか…という夢まで膨らんでくる。
しかし、こと「日本語」を考えた場合、その浸透度ははっきりいってお寒い状況ではないか。
テレビのテロップなどでよく見受けられるが、公共の電波たるものが、「そうゆう」「今日わ」などというテロップを恥ずかしくもなく垂れ流す神経は、もはや本来美しいはずの日本語を冒涜しているとさえ思うのである。
「言う」は本来「いう」であって、発音の「ゆう」とは書かないとは、「~は」「~へ」を「~わ」「~え」と書かないこととワンセットで、小学校一年生でうるさいほど学ぶことなのだが、本当にリアルで知らないだけなのか、単にテロップ作成者の自意識過剰な個性のアピールなのかはわからないが、前者ならば制作者の頭の中身が知られようし、後者は制作者の日本語のモラルが問われよう。
ブログでも「今日ゎ…」なんていう書き方が、若い女性を中心に流行っているが、はっきり言ってそんな書き方をするブログは読む気すら起こらないし、そんな書き方をすればかわいく思われるなどと思ったら大間違いである。正しい日本語を使おうと思えば、いくら匿名とはいえあんな書き方を世間一般にまき散らすことは出来ないと思うのだが。
例えば「役不足」「情けは人のためならず」という言葉の本来使われるべき用法を知っているか……などという難しいことは問うてない(っていうより自分も正しく認識してない_| ̄|○)。それ以前の、日本語の最低限の基礎知識が、今の日本には欠けてはいないだろうか。
そのような状況で新たに外国語を義務で習得させることが、果たして本当に子供達のためになるのかどうか、今一度日本のお役人の皆様方にはお考え頂きたい。
「英語」と聞けば、響きはいいかもしれないが、その前に美しい日本語があるということを、子供達に教えることが先決なのではないだろうか。
昨今の日本語事情を見て、強くそう思う。
本当にネイティブと渡り歩くなら、ぶっちゃけ「外人にオトコかオンナを作れ」って教えてやったさ。そのほうが早いもん。絶対に。
だから、英会話学校は俺はいいと思う。訓練の場になるし、職場に外人さんがいれば間違いなくプラスにはなりますよ。
まあ、あとは「文法」でどれだけ崩れない頭を持つかが問題で…。