吉岡引退! グランプリがラストラン - スポニチアネックス
。・゜・(ノД`)・゜・。
吉岡が、吉岡が…(´;ω;`)
まあ、驚くと言うほど驚くわけではなく、実はこの噂は前々から立っていた。
吉岡が今年のグランプリで引退…ということは、ファンの間でも前々から噂になっていたことだから、半信半疑ながらも、今更このような話が出ても、一応心の準備は出来ていた。
ただ、一部の情報筋では、年明けの大宮記念の参加の返答があったことから、この噂は結果的にはガセ…と思っていたのだが…。
なんかね、一つの時代の、そして競輪がまだ悪くて良い頃だった頃(意味が通じなくてスマソ)の時代が、これで終わると思うと、寂しくて仕方がない。
1990年デビュー。バンク2周半を丸々先行する「F1先行」の異名を取り、その先行力たるや、現在の競輪に規制をかけるまでの強さだった。今では残り2周回(800メートル)を過ぎなければ先頭誘導員を追い抜いてはいけない決まりなので、このような先行を見ることは、もうない。
栃木に神山雄一郎が出てきたら、「先行の神山、捲りの吉岡」という図式が出来上がり、1990年代半ばは、二人によってタイトルが争われていたと言っていい。
突然ペースが上がるとついていけないもろさはあったものの、その分、一旦かかってしまえばどこからでも飛んでくる、あるいは誰も近寄れない圧倒的な強さがあって、その強さ故に、熱狂的なファンが多かったことでも知られる。
一度覚えているのは、たしか1998年の前橋の寛仁親王牌だったかで、負け戦の一発で吉岡が7番手から1センターで捲ると、あっという間に先団を飲み込み、後ろにいた加倉正義はついていくのが精一杯。あれは実際生で見たから覚えているのかも知れないが、恐ろしいほど強かったよなあ…。吉岡→加倉の1点勝負をしていて、車券でも儲かったし、あの印象は強烈に残っている。
しかし、吉岡も度重なる落車のケガには勝てなかった。
21世紀に入ると、あの頃の強さは影を潜め、ファンの落胆を誘った。
年齢的にも30を過ぎた頃。先行主体から自在性に転換しようとして失敗することも多々あった。番手に回っての失敗も多々あったことから、基本的には自らが先行することがまた増えだした矢先の、引退宣言。
確かに、「八千代市のヒーロー」、往年の「怪物」滝澤正光大先生のように、元々恐ろしいほどの地脚を持って、かつ番手でも大丈夫な、いわゆる「横の脚」を持ちうる選手なら、番手に回っても十分勝ち星を重ねることは出来るだろうが、先に述べたとおり、一瞬のペースアップに対応できないもろさがあって、番手では持ち味が発揮できない…となると、やはり、これ以上栄光に傷を付けないうちに、華のあるうちに引退を選ぶ方が…という考え方も、まあ納得できるものではある。
思えば同郷(ホームバンクは違うが)の中野浩一も、まだまだ若いうちに引退したんだっけ。吉岡の後ろを井上茂徳と取り合っていた頃を懐かしく思いだす。
吉岡が輝いていた1990年代。
1996年のグランプリでは、立川市長が「グランプリ売り上げ100億」を目標にして、見事突破してファンから喝采を浴びたものだった。いまやそんな時代も、もはや夢物語なのか。
吉岡の勇姿をこの目に焼き付けようかな。
イモ洗いの京王閣競輪場に行こうかな。
…でも、この記事。
他紙が追随していないことを考えると、飛ばし記事ってことも考えられるよなあ…。
↑惜別! 吉岡稔真!!
グランプリ2勝、G1・11回の優勝を飾った競輪界のスーパースター・吉岡稔真(よしおかとしまさ)(36=福岡)がKEIRINグランプリ06(30日、京王閣)を最後に引退することが26日、分かった。90年デビュー以来、17年間にわたってトップレーサーとして君臨。「F1先行」は3日後に迫った大一番で見納めとなる。
3年ぶりの出場を決めた競輪最大のレース、グランプリでトップレーサーがバンクに別れを告げる。「F1先行」と言われた圧倒的な先行力を武器に競輪界の頂点に君臨した吉岡が引退を意識したのは今年11月。松山記念準決勝(22日、7着)で格下の先行選手にまさかの敗戦を喫したのがきっかけだった。「さすがにショック。あれじゃ、恥ずかしくて走れない」と、努めて明るく話したが、次走に予定していた今月2日開幕の全日本選抜を直前でキャンセル。そのころから吉岡の周囲では引退がささやかれ始めた。
今年3月には日本選手権決勝を逃げ切り、7年ぶりのG1制覇。度重なる落車事故で満身創痍(い)となりながら復活にかけてきた男は「まだ自力(自ら先行する戦法)が通用することが分かった」と号泣した。
だが、「F1先行」をアピールできたのは日本選手権だけだった。その後のG1・3戦はすべて予選敗退。9月以降はG3でも4シリーズ連続で大敗した。イメージ通りのレースができない。もどかしい日々が続いた。36歳という年齢が吉岡の心と体に重くのしかかる。全日本選抜欠場後は「一からつくり直す。グランプリでは見とってください」と語り、グランプリ06にすべてを懸けて練習に明け暮れた。普段、控えめな男が口にした異例とも思える強気のコメント。自ら主宰する競輪選手の練習グループ「不動会」のメンバーには「年齢から考えても、今年が最後のグランプリになるやろうなあ」と漏らした。例年ならとっくに終わっているはずの翌年用のユニホーム、練習着のメーカーとの契約更改も保留にしたままだ。すでに引退の意思が固まっていた。
まだ早い、いやもう立派に競輪界に貢献した…。ファンはさまざまな見方をするだろう。だが、世界戦V10の中野浩一(現競輪評論家)の後を引き継ぎ、数々の金字塔を打ち立てたヒーローは、30日の大一番で燃え尽きようとしている。「今はグランプリに集中している。すべてはそれが終わってから」と吉岡は多くを語らないが、引退の決意を胸に最後の戦いに挑むのは間違いない。グランプリ06は選手生活17年間の集大成となる。
。・゜・(ノД`)・゜・。
吉岡が、吉岡が…(´;ω;`)
まあ、驚くと言うほど驚くわけではなく、実はこの噂は前々から立っていた。
吉岡が今年のグランプリで引退…ということは、ファンの間でも前々から噂になっていたことだから、半信半疑ながらも、今更このような話が出ても、一応心の準備は出来ていた。
ただ、一部の情報筋では、年明けの大宮記念の参加の返答があったことから、この噂は結果的にはガセ…と思っていたのだが…。
なんかね、一つの時代の、そして競輪がまだ悪くて良い頃だった頃(意味が通じなくてスマソ)の時代が、これで終わると思うと、寂しくて仕方がない。
1990年デビュー。バンク2周半を丸々先行する「F1先行」の異名を取り、その先行力たるや、現在の競輪に規制をかけるまでの強さだった。今では残り2周回(800メートル)を過ぎなければ先頭誘導員を追い抜いてはいけない決まりなので、このような先行を見ることは、もうない。
栃木に神山雄一郎が出てきたら、「先行の神山、捲りの吉岡」という図式が出来上がり、1990年代半ばは、二人によってタイトルが争われていたと言っていい。
突然ペースが上がるとついていけないもろさはあったものの、その分、一旦かかってしまえばどこからでも飛んでくる、あるいは誰も近寄れない圧倒的な強さがあって、その強さ故に、熱狂的なファンが多かったことでも知られる。
一度覚えているのは、たしか1998年の前橋の寛仁親王牌だったかで、負け戦の一発で吉岡が7番手から1センターで捲ると、あっという間に先団を飲み込み、後ろにいた加倉正義はついていくのが精一杯。あれは実際生で見たから覚えているのかも知れないが、恐ろしいほど強かったよなあ…。吉岡→加倉の1点勝負をしていて、車券でも儲かったし、あの印象は強烈に残っている。
しかし、吉岡も度重なる落車のケガには勝てなかった。
21世紀に入ると、あの頃の強さは影を潜め、ファンの落胆を誘った。
年齢的にも30を過ぎた頃。先行主体から自在性に転換しようとして失敗することも多々あった。番手に回っての失敗も多々あったことから、基本的には自らが先行することがまた増えだした矢先の、引退宣言。
確かに、「八千代市のヒーロー」、往年の「怪物」滝澤正光大先生のように、元々恐ろしいほどの地脚を持って、かつ番手でも大丈夫な、いわゆる「横の脚」を持ちうる選手なら、番手に回っても十分勝ち星を重ねることは出来るだろうが、先に述べたとおり、一瞬のペースアップに対応できないもろさがあって、番手では持ち味が発揮できない…となると、やはり、これ以上栄光に傷を付けないうちに、華のあるうちに引退を選ぶ方が…という考え方も、まあ納得できるものではある。
思えば同郷(ホームバンクは違うが)の中野浩一も、まだまだ若いうちに引退したんだっけ。吉岡の後ろを井上茂徳と取り合っていた頃を懐かしく思いだす。
吉岡が輝いていた1990年代。
1996年のグランプリでは、立川市長が「グランプリ売り上げ100億」を目標にして、見事突破してファンから喝采を浴びたものだった。いまやそんな時代も、もはや夢物語なのか。
吉岡の勇姿をこの目に焼き付けようかな。
イモ洗いの京王閣競輪場に行こうかな。
…でも、この記事。
他紙が追随していないことを考えると、飛ばし記事ってことも考えられるよなあ…。
↑惜別! 吉岡稔真!!
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