≪第4話 終戦の日に O.S.さん 執筆当時77歳≫ ~戦争体験集「なつくさ」より~
私の仕事は、飛行機の熱処理作業でした。
わずかなミスでも飛行士の人命にかかわる仕事だけに、仕事の内容もきびしく、豊富な知識と技術が要求されました。
研究会には毎回のように出席し、分からないところがあれば自分で本を買ってきて勉強し、できるだけの知識を習得しようと励みました。
戦争が日に日に激しくなり、私たちの職場は、高尾山に疎開しました。
陸軍が構築した巨大な防空壕に、機会も人も身を寄せるようにして戦火を避けたのです。
そんな状況の中でも、軍からは早く飛行機を造れと言われていました。
私は、組長をしていたので、召集の延期願いを出していました。
産業戦士として一生懸命やれということです。
なんといってもひどかったのは、2月25日の艦載機爆撃でした。
女子挺身隊の人たちが、「お母さん」「お母さん」と叫びながら死んでいきました。
兵隊が来て、手や足がバラバラになった死体を、スコップでトラックにすくいあげて、どこかに運んで行きました。
それはまるで、現在のゴミ収集のようでした。
日本からアメリカまで、一気に飛んでいける飛行機を準備していましたが、完成しない中に終戦になりました。
アメリカ兵が進駐してくるということで、「何をされるかわからない。もうこれでおしまいかもしれない」と思いました。
私たちは、それまで勉強してきた本やノートを持ち寄り、自分たちの手で燃やしてしまいました。
目の前で炎をあげ、灰になっていくノートを見詰めながら、仲間と肩を抱きあい泣きました。(聞き書き:野村さん)
私の仕事は、飛行機の熱処理作業でした。
わずかなミスでも飛行士の人命にかかわる仕事だけに、仕事の内容もきびしく、豊富な知識と技術が要求されました。
研究会には毎回のように出席し、分からないところがあれば自分で本を買ってきて勉強し、できるだけの知識を習得しようと励みました。
戦争が日に日に激しくなり、私たちの職場は、高尾山に疎開しました。
陸軍が構築した巨大な防空壕に、機会も人も身を寄せるようにして戦火を避けたのです。
そんな状況の中でも、軍からは早く飛行機を造れと言われていました。
私は、組長をしていたので、召集の延期願いを出していました。
産業戦士として一生懸命やれということです。
なんといってもひどかったのは、2月25日の艦載機爆撃でした。
女子挺身隊の人たちが、「お母さん」「お母さん」と叫びながら死んでいきました。
兵隊が来て、手や足がバラバラになった死体を、スコップでトラックにすくいあげて、どこかに運んで行きました。
それはまるで、現在のゴミ収集のようでした。
日本からアメリカまで、一気に飛んでいける飛行機を準備していましたが、完成しない中に終戦になりました。
アメリカ兵が進駐してくるということで、「何をされるかわからない。もうこれでおしまいかもしれない」と思いました。
私たちは、それまで勉強してきた本やノートを持ち寄り、自分たちの手で燃やしてしまいました。
目の前で炎をあげ、灰になっていくノートを見詰めながら、仲間と肩を抱きあい泣きました。(聞き書き:野村さん)
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このたびは、
戦争体験の記事をみつけてくださって、
ありがとうございます。
函館空襲、想像もつかない恐ろしさだったのでしょうね。
私は戦争未体験者なので、
両親や祖父からの話しか知らないのですが、
絶対に繰り返してはいけない事だというのは、
ヒシヒシと伝わってきました。
偉い人や目立つ人たちの話だけでなく、
身近な一般的な人たちの声を少しでも多くの人に知っていただきたくて載せました。
戦争体験記の記事はほんの僅かですが、
これをご縁に繋がりが広がると嬉しいです。
戦争体験をした人たちが少なくなってきました。戦争体験集を載せてくださったことに感謝しております。
世界中から戦争がなくなることを願っております。
コメント、ありがとうございます。
私自身がこの文集を書き写していて、涙があふれてしまうこと、多々あります。
場面を想像したりして、胸が痛くなります。
でも、やはりここで風化したくないのです。
誰かが伝えていかなければ・・・、
知ることから始まる何かがあるような気がします。
そんな内容なだけに、写真くらいは・・・ね。(笑)
最初の写真が非常にのどかな平和な風景だけに
体験記の内容がより鮮明に映ります。。。
「女子挺身隊」のみなさんの無念を想うと胸が痛みます。。。