11月12日(水) 道の駅「土岐美濃焼街道 どんぶり会館」で地元の人達と談笑を終えた私たちは、町全体がテーマパークとして整備され、全国にアピールしている日本大正村に向かった。
晩秋の東濃地方を行く愛車エステイマの車窓からは、美しく紅葉した山稜が移り変わっていく。
愛車は程なく、小里川の橋を渡り前方を見上げると、大きな高架橋が見えている。
平成16年に完成した小里川ダム建設の為、付け替え道路として作られた小里城大橋である。橋長=420m、橋脚の最大スパン=135m、橋脚の高さは79.5と日本でも、有数の高さを誇る橋である。
あまりの高さに驚きながら、高架橋の下を通り抜けて、30分程で明智町(現在は恵那市)の大正村駐車場に到着する。
明智町は古くから南北街道と、中馬街道が交差する重要な交通の拠点であった。
伊勢湾の塩を信州などの内陸に運び、山国の産物を沿岸に運び出す、商いや情報の道筋の一点として栄えていた。
南北道は伊勢湾岸地から足助、明智、恵那、中津川、付知など現国道257号線を北上して下呂、高山など飛騨路へ至る。
また、中馬街道は名古屋から瀬戸、柿野、土岐市、明智に至り、上矢作から南信州飯田に通じる道路であるが、狭く四~五匹の牛馬を、一人の親方が引ける程度の道であった為に、中馬と呼ばれていた。
日本大正村入り口の看板を通り抜けて散策に向かう
日本大正村は、小高い山に囲まれた小さな街の中にあるテーマパークである。
明治村(愛知県犬山市)や昭和村(岐阜県美濃加茂市)のような特定の敷地内に設けられた施設ではなく、街全体として大正時代前後に作られた多くの建築物が現存、店舗、資料館、博物館などが、当時の雰囲気をそのまま活かしている。
その中心的な建物が、大正村役場、大正ロマン館、大正村資料館、おもちゃ資料館、大正時代館などである。
駐車場の脇にあり快晴の空に映える銀杏の紅葉
大正村ロマン館近くの大明山竜護寺の紅葉
昭和61年1月10日大正村初代村長 高峰三枝子歓迎セレモニーで大勢の人たちから大歓迎を受ける新村長
1999年5月2日に就任、日本大正村二代目村長 司葉子
駐車場横にある「浪漫亭」食事やショッピングが楽しめる
駐車場近くののロマンコース橋付近
大正露地 大正役場庁舎前の通り
この露地は年貢米を納めた米蔵と、江戸時代から続く旧家の、呉服問屋の反物類を入れた蔵の並ぶ路地である。
蔵の白と黒のコントラストが、日本風で鮮やかである。
黒い羽目板を取外すと、一面が土壁となって防火壁の役目を果たしている。
この緩やかな坂を真っ直ぐ上って行くと、日本大正村役場庁舎があり、突当りが紫式部の源氏絵巻などを展示している絵画館である。
日本大正村役場庁舎
明治22年7月明智町は町制を布き、明治39年明智町庁舎として建築された日本大正村役場庁舎。
瓦葺き、寄せ棟造り、2階建ての木造洋館建て造りは、当時としては大変モダンな建物であった。
以来、町の中心として衆議をはかり、町の発展を見つめてきた建物である。
昭和32年まで町役場として、現在は日本大正村役場として使われている。
平成12年に文化庁の登録有形文化財に指定される。
日本大正村役場庁舎入口
源氏物語絵巻を展示している絵画館 非常時に打鳴らす半鐘
玄関前の左に元春日野理事長、右に高峰三枝子初代村長の像が立つ大正ロマン館
大正のモダンをイメージした洋風建築は、初代日本大正村長の高峰三枝子、初代議長の春日野清隆(元横綱栃錦)の記念館として、平成6年5月にオープン。
両氏の遺品の品々が寄託され展示されている。
10室の展示室には、この他大正時代のヨーロッパの家具やオルゴール、オリンピックの歩み、洋画の父と言われる当地出身の山本芳翠の絵画なども展示され、地代にちなんだ企画展も催されている。
大正ロマン館方向を望む
大正村ロマンコースにある橋上より
大正時代館(天久資料館)横には大正時代のカフェがある
私は、日本大正村の役場庁舎や大正ロマン館などを散策していて、急に大正はどういった時代であったか! また、世界はどういったことが! など、急に興味が湧いてきた。
鎖国の江戸時代から幕末を迎え、近代国家の樹立を目指した明治時代、そして近代化の打ち寄せえる波の中、大正時代はどんなことが起こっていたのだろうか!
そのように考えている時に、この大正時代館にやってきた。
大正時代の暮らしぶりなどをテーマに、一階には新聞やレトロなポスターなどが展示されている。
当時のポスター画風を見ていると、すごく古いものを見ているようにも感じるが、何か新鮮で落ちついた印象を受けてくる。
入口には当時の新聞を印刷する機械が設置され、自分の誕生日の新聞やニュースも知ることも出来る。(有料)
大正時代の十大ニュース(国内)
①関東大震災の発生、死者・不明10万人以上(大正12年9月1日)
②全国で米騒動、焼き討ち相次ぐ(大正7年)
③明治天皇崩御、乃木希典将軍殉死(明治45年ー大正元年)
④初の本格政党内閣の原敬内閣誕生・原首相暗殺(大正7-10年)
⑤大正政変、民衆が軍閥政治倒す(大正2年)
⑥大正天皇のご病気と皇太子の摂政就任(大正10年)
⑦普通選挙法と治安維持法の同時成立(大正14年)
⑧対華21ケ条要求、日中関係悪化(大正4年)
⑨桜島が大爆発、大隈半島と陸続きに(大正3年)
⑩吉野作造が「民本主義=国民の意思を尊重して政治を行うことを建前とする主義、実質的な民主主義に同じ」を提唱、大正デモクラシーの理論的支柱(大正5年)
日本の国内情勢は、民衆の声を背景とした政党政治を志向する力と、富国強兵を国是とする軍閥政治の対立によって彩られた。
普通選挙法と治安維持法の成立に、これを端的に見ることが出来る。
大正デモクラシーの言葉も生まれ、弾圧を受けながらも自由に考え、自由に行動する人々の層が増えた時代であった。
特に、この時代は、東京、大阪、名古屋といった都市人口がいちじるしく増加し、人々の生活の都市化が進む。
大都市にはデパートが作られ、電灯は勿論、電話、水道、ガスなどが普及していった。
また、十大ニュースには入らないが、街では洋服姿の女性も現れ、「タイピスト」や「バスガール」などにも女性が進出、モダンなどの言葉と共にハイカラ文化が家庭内や、外出する時に人々を魅了したり楽しんだりしていた。
大正時代は暗い時代という人がいるが、結構自由を謳歌した人も少なくなかった。
明暗の挟間の中にあった時代と言えそうだ。
大正時代の十大ニュース(国際)
①第一次世界大戦勃発(1914年、大正3年)
②ロシアで社会主義革命(1917年 大正6年)
③ベルサイユ講和条約締結と国際連盟発足(1919年大正8年ー20年大正9年)
④ヒトラーがナチス党首に就任、ファッシズムの前兆(1921年大正10年)
⑤スペイン風邪が大流行、死者2500万人(1918年大正7年ー19年大正8年)
⑥ワシントン軍縮条約締結(1922年大正11年) 米、英、日の主力艦の比率を5:5:3と決定される。
⑦孫文が2回にわたり広東政府を樹立(1917年大正6年ー21年大正10年)
⑧モスクワでコミンテルン創立大会(1919年大正8年)
⑨インドでガンジーが不服従運動開始(1919年大正8年)
⑩アインシュタインが相対性理論を発表(1916年大正5年)
大正の世界史は革命に誘発された内戦の時代であった。
特に第一次世界大戦とロシア革命が世界各地に及ぼした影響は大きく、反戦平和を求める国、自国の政治体制に不満を持つ人々の台頭、民衆の力が強大になった時代であった。
パナマ運河の開通は世界航路の円滑をもたらし、科学技術の目覚しい発展の頂点に、アインシュタインの相対性理論が生まれたのが、この時代の特徴である。
スペイン風邪は国の規模をのりこえ、多くの若い日本人が死亡したことも伝えられている。
帝国高貴御対顔之図
明治天皇・昭憲皇太后へ御対顔される嘉仁皇太子(のちの大正天皇)・九条節子(のちの貞明皇后)
大正天皇・皇后の写真
大正天皇御成婚時(1900年)の写真、皇太子(大正天皇)満20歳、九条公爵四女節子(満15歳)。
明治天皇とは対照的に、結婚後は子供に恵まれた。
1901年に迪宮(みちのみや)後に昭和天皇、1902年に淳宮(あつのみや)後に秩父宮、1905年に光宮(てるのみや)後に高松宮がそれぞれ生まれ、元気に育った。
皇太子は子煩悩で、三人の子供達と会食や合唱などをして、よく遊んだと伝えられている。
皇太子は臣下や国民誰とでも屈託なく話したがる性格が、より発露されていた。
謹言実直で余計なことはしゃべってはならぬ。 という帝王学を身につけていた明治天皇に対し、思ったことは率直にモノを言う性格であった。
1926年(大正15年)12月25日、大正天皇は皇后や皇太子などの皇族や生母が見守る中、葉山で崩御される。時に満47歳であった。
明治天皇の59歳、昭和天皇の87歳に比べても、短すぎる生涯であった。
大正時代の喫茶店(カフエー)
大正時代の服装をした女性がコーヒーを入れてくれる。
大正時代の大きなラッパの蓄音機からは、霧島昇の「君は心の妻だから・・、」の曲が流れている。
少し大正時代に帰ったような気分を味合わせてくれる。
日本大正村資料館
明治末期の建築で、この地方の城に匹敵する街のシンボル「銀行蔵」と、南隣の「大正の館」を含む一郭が中心になっている。
いずれも、この建築物そのものも重要な資料としての役割を果たしている。
資料館の中には、様々な大正文化の資料を展示している。
季節や催しによって展示替えもされているようである。
大正の館入り口 大正村資料館入り口
大正時代の情緒溢れるレトロ的なポスター
現在も業務を行っている通信資料館(旧郵便局)
久しぶりに訪れた大正村、こういった大正時代の施設がよく残っていると思う。
見学していて、大正時代のことをもっと知りたいと思えてくる。
明治と昭和の挟間にある大正時代、武士の世界の色濃さが残る明治と、それを脱して、近代化の世界に足を踏み入れた大正時代。
日本人の心の大きな変革の時代で合ったように思えてくる。
晩秋の東濃地方を行く愛車エステイマの車窓からは、美しく紅葉した山稜が移り変わっていく。
愛車は程なく、小里川の橋を渡り前方を見上げると、大きな高架橋が見えている。
平成16年に完成した小里川ダム建設の為、付け替え道路として作られた小里城大橋である。橋長=420m、橋脚の最大スパン=135m、橋脚の高さは79.5と日本でも、有数の高さを誇る橋である。
あまりの高さに驚きながら、高架橋の下を通り抜けて、30分程で明智町(現在は恵那市)の大正村駐車場に到着する。
明智町は古くから南北街道と、中馬街道が交差する重要な交通の拠点であった。
伊勢湾の塩を信州などの内陸に運び、山国の産物を沿岸に運び出す、商いや情報の道筋の一点として栄えていた。
南北道は伊勢湾岸地から足助、明智、恵那、中津川、付知など現国道257号線を北上して下呂、高山など飛騨路へ至る。
また、中馬街道は名古屋から瀬戸、柿野、土岐市、明智に至り、上矢作から南信州飯田に通じる道路であるが、狭く四~五匹の牛馬を、一人の親方が引ける程度の道であった為に、中馬と呼ばれていた。
日本大正村入り口の看板を通り抜けて散策に向かう
日本大正村は、小高い山に囲まれた小さな街の中にあるテーマパークである。
明治村(愛知県犬山市)や昭和村(岐阜県美濃加茂市)のような特定の敷地内に設けられた施設ではなく、街全体として大正時代前後に作られた多くの建築物が現存、店舗、資料館、博物館などが、当時の雰囲気をそのまま活かしている。
その中心的な建物が、大正村役場、大正ロマン館、大正村資料館、おもちゃ資料館、大正時代館などである。
駐車場の脇にあり快晴の空に映える銀杏の紅葉
大正村ロマン館近くの大明山竜護寺の紅葉
昭和61年1月10日大正村初代村長 高峰三枝子歓迎セレモニーで大勢の人たちから大歓迎を受ける新村長
1999年5月2日に就任、日本大正村二代目村長 司葉子
駐車場横にある「浪漫亭」食事やショッピングが楽しめる
駐車場近くののロマンコース橋付近
大正露地 大正役場庁舎前の通り
この露地は年貢米を納めた米蔵と、江戸時代から続く旧家の、呉服問屋の反物類を入れた蔵の並ぶ路地である。
蔵の白と黒のコントラストが、日本風で鮮やかである。
黒い羽目板を取外すと、一面が土壁となって防火壁の役目を果たしている。
この緩やかな坂を真っ直ぐ上って行くと、日本大正村役場庁舎があり、突当りが紫式部の源氏絵巻などを展示している絵画館である。
日本大正村役場庁舎
明治22年7月明智町は町制を布き、明治39年明智町庁舎として建築された日本大正村役場庁舎。
瓦葺き、寄せ棟造り、2階建ての木造洋館建て造りは、当時としては大変モダンな建物であった。
以来、町の中心として衆議をはかり、町の発展を見つめてきた建物である。
昭和32年まで町役場として、現在は日本大正村役場として使われている。
平成12年に文化庁の登録有形文化財に指定される。
日本大正村役場庁舎入口
源氏物語絵巻を展示している絵画館 非常時に打鳴らす半鐘
玄関前の左に元春日野理事長、右に高峰三枝子初代村長の像が立つ大正ロマン館
大正のモダンをイメージした洋風建築は、初代日本大正村長の高峰三枝子、初代議長の春日野清隆(元横綱栃錦)の記念館として、平成6年5月にオープン。
両氏の遺品の品々が寄託され展示されている。
10室の展示室には、この他大正時代のヨーロッパの家具やオルゴール、オリンピックの歩み、洋画の父と言われる当地出身の山本芳翠の絵画なども展示され、地代にちなんだ企画展も催されている。
大正ロマン館方向を望む
大正村ロマンコースにある橋上より
大正時代館(天久資料館)横には大正時代のカフェがある
私は、日本大正村の役場庁舎や大正ロマン館などを散策していて、急に大正はどういった時代であったか! また、世界はどういったことが! など、急に興味が湧いてきた。
鎖国の江戸時代から幕末を迎え、近代国家の樹立を目指した明治時代、そして近代化の打ち寄せえる波の中、大正時代はどんなことが起こっていたのだろうか!
そのように考えている時に、この大正時代館にやってきた。
大正時代の暮らしぶりなどをテーマに、一階には新聞やレトロなポスターなどが展示されている。
当時のポスター画風を見ていると、すごく古いものを見ているようにも感じるが、何か新鮮で落ちついた印象を受けてくる。
入口には当時の新聞を印刷する機械が設置され、自分の誕生日の新聞やニュースも知ることも出来る。(有料)
大正時代の十大ニュース(国内)
①関東大震災の発生、死者・不明10万人以上(大正12年9月1日)
②全国で米騒動、焼き討ち相次ぐ(大正7年)
③明治天皇崩御、乃木希典将軍殉死(明治45年ー大正元年)
④初の本格政党内閣の原敬内閣誕生・原首相暗殺(大正7-10年)
⑤大正政変、民衆が軍閥政治倒す(大正2年)
⑥大正天皇のご病気と皇太子の摂政就任(大正10年)
⑦普通選挙法と治安維持法の同時成立(大正14年)
⑧対華21ケ条要求、日中関係悪化(大正4年)
⑨桜島が大爆発、大隈半島と陸続きに(大正3年)
⑩吉野作造が「民本主義=国民の意思を尊重して政治を行うことを建前とする主義、実質的な民主主義に同じ」を提唱、大正デモクラシーの理論的支柱(大正5年)
日本の国内情勢は、民衆の声を背景とした政党政治を志向する力と、富国強兵を国是とする軍閥政治の対立によって彩られた。
普通選挙法と治安維持法の成立に、これを端的に見ることが出来る。
大正デモクラシーの言葉も生まれ、弾圧を受けながらも自由に考え、自由に行動する人々の層が増えた時代であった。
特に、この時代は、東京、大阪、名古屋といった都市人口がいちじるしく増加し、人々の生活の都市化が進む。
大都市にはデパートが作られ、電灯は勿論、電話、水道、ガスなどが普及していった。
また、十大ニュースには入らないが、街では洋服姿の女性も現れ、「タイピスト」や「バスガール」などにも女性が進出、モダンなどの言葉と共にハイカラ文化が家庭内や、外出する時に人々を魅了したり楽しんだりしていた。
大正時代は暗い時代という人がいるが、結構自由を謳歌した人も少なくなかった。
明暗の挟間の中にあった時代と言えそうだ。
大正時代の十大ニュース(国際)
①第一次世界大戦勃発(1914年、大正3年)
②ロシアで社会主義革命(1917年 大正6年)
③ベルサイユ講和条約締結と国際連盟発足(1919年大正8年ー20年大正9年)
④ヒトラーがナチス党首に就任、ファッシズムの前兆(1921年大正10年)
⑤スペイン風邪が大流行、死者2500万人(1918年大正7年ー19年大正8年)
⑥ワシントン軍縮条約締結(1922年大正11年) 米、英、日の主力艦の比率を5:5:3と決定される。
⑦孫文が2回にわたり広東政府を樹立(1917年大正6年ー21年大正10年)
⑧モスクワでコミンテルン創立大会(1919年大正8年)
⑨インドでガンジーが不服従運動開始(1919年大正8年)
⑩アインシュタインが相対性理論を発表(1916年大正5年)
大正の世界史は革命に誘発された内戦の時代であった。
特に第一次世界大戦とロシア革命が世界各地に及ぼした影響は大きく、反戦平和を求める国、自国の政治体制に不満を持つ人々の台頭、民衆の力が強大になった時代であった。
パナマ運河の開通は世界航路の円滑をもたらし、科学技術の目覚しい発展の頂点に、アインシュタインの相対性理論が生まれたのが、この時代の特徴である。
スペイン風邪は国の規模をのりこえ、多くの若い日本人が死亡したことも伝えられている。
帝国高貴御対顔之図
明治天皇・昭憲皇太后へ御対顔される嘉仁皇太子(のちの大正天皇)・九条節子(のちの貞明皇后)
大正天皇・皇后の写真
大正天皇御成婚時(1900年)の写真、皇太子(大正天皇)満20歳、九条公爵四女節子(満15歳)。
明治天皇とは対照的に、結婚後は子供に恵まれた。
1901年に迪宮(みちのみや)後に昭和天皇、1902年に淳宮(あつのみや)後に秩父宮、1905年に光宮(てるのみや)後に高松宮がそれぞれ生まれ、元気に育った。
皇太子は子煩悩で、三人の子供達と会食や合唱などをして、よく遊んだと伝えられている。
皇太子は臣下や国民誰とでも屈託なく話したがる性格が、より発露されていた。
謹言実直で余計なことはしゃべってはならぬ。 という帝王学を身につけていた明治天皇に対し、思ったことは率直にモノを言う性格であった。
1926年(大正15年)12月25日、大正天皇は皇后や皇太子などの皇族や生母が見守る中、葉山で崩御される。時に満47歳であった。
明治天皇の59歳、昭和天皇の87歳に比べても、短すぎる生涯であった。
大正時代の喫茶店(カフエー)
大正時代の服装をした女性がコーヒーを入れてくれる。
大正時代の大きなラッパの蓄音機からは、霧島昇の「君は心の妻だから・・、」の曲が流れている。
少し大正時代に帰ったような気分を味合わせてくれる。
日本大正村資料館
明治末期の建築で、この地方の城に匹敵する街のシンボル「銀行蔵」と、南隣の「大正の館」を含む一郭が中心になっている。
いずれも、この建築物そのものも重要な資料としての役割を果たしている。
資料館の中には、様々な大正文化の資料を展示している。
季節や催しによって展示替えもされているようである。
大正の館入り口 大正村資料館入り口
大正時代の情緒溢れるレトロ的なポスター
現在も業務を行っている通信資料館(旧郵便局)
久しぶりに訪れた大正村、こういった大正時代の施設がよく残っていると思う。
見学していて、大正時代のことをもっと知りたいと思えてくる。
明治と昭和の挟間にある大正時代、武士の世界の色濃さが残る明治と、それを脱して、近代化の世界に足を踏み入れた大正時代。
日本人の心の大きな変革の時代で合ったように思えてくる。