春は鬱になりやすい季節かもしれない。
親も友人達も、その子の冗談好きな明るい面しかしらなかったから驚いたらしいが、春は要注意の季節である。
実は私も現在鬱になっている。
背中の左側の肩甲骨の下あたりが痛いのは、ここ一週間ほど心臓を痛めつけられるような出来事があったからだ。
私のは原因があるのだが、しかし、それは引き金であって鬱は私の本態的なものである。
以前も鬱になって精神薬を処方されて鬱以上の苦しみを味わったから2度と薬は飲まないが、鬱の苦しみは厳然とある。
が、薬は直してくれるどころか悪化させる。
それは体験したから自信を持って言える。
薬は一時的に誤魔化してくれるが、副作用で鬱は悪化する。
そんな私の現在の鬱撃退法はBlogである。
何もする気になれなくても記事を書くことはなんとかできる。
書いている間は鬱が忘れられるのである。
苦しんでいることを書くのも、それなりに効果あるが、それより昔の楽しかったことを思い出して書くことのほうが、もっと効果がある。
が、そのことを書くと「自慢話をして…」と批判する人がいることも確かである。
が、自慢話もさせてほしいと私は思う。
本当に毎日が充実しているのなら、自慢話もする必要はない。
私は何も誇るべきものは持ち合わせていないが、子育てを終えたあとは短歌に命を注いできた。
が、これがさっぱり認められないのである。
好きだから別に構わないとも言えるかもしれないが、結社に所属していても後から入った人にどんどん追い越されるのは気分の良いものではない。
私の頑張りがたりないのか、それとも素質がないのかと悩んでしまう。
好きでたまらないから止めることもできず、余計に苦しい。
この苦しみを和らげてくれるのもBlogだ。
Blogを書いていると鬱が軽快するだけでなく短歌も湧いてくる。
だから一石二鳥と言える。
短歌も、わざわざ歌集を出さなくてもBlogで不特定多数の人達に読んでいただくだけで満足できるから私は一生歌集を出さなくてもいいとも思っている。
短歌は機会詩である。
その時に詠って、その時に読んでもらうのが一番歌の良い発表方法であり、鑑賞の仕方だというのが、私の短歌に対する持論になりつつある。
ついでに書けば、歌の優劣を決めるのも邪道だ。
歌は詠った人が満足して、一人でもその歌に共感してくれる人がいれば、それで十分なのである。
選者先生などが講釈つけて解説する必要もない。
そんなことをすれば、歌の純粋さが失われるとも言っていいかもしれない。
相聞歌がたまたま上手く詠えたからと言っても、人生はそれだけではない!
そんな人が選をすること自体がおこがましいのである。
ああ、言ってしまった!書いてしまった!
でも、尊敬する先生は例外です。
★歌集など出さずBlogで歌好きな読者に読んでいただくがよし
★人生の酸いも甘いも味わつた者の選歌をするな若輩
★人間の偉さ尊さ生きてきた長さによると知れ若輩は
★老兵は去らず歌壇にのさばりて後進これに従ふべけれ
★大学を出たての若き歌人らに和歌の良し悪しわかるはずなし
★拙くてよろし作歌は上手ければ胡散臭しと思ふが正し
★下手歌の良さのわからぬ馬鹿者は生まれ直してこいと告げやる
★心臓の背側のあたりが痛いのは心臓いためつけられた所為
★わが鬱は暴力的になるらしく怒りが湧いてくるなる鬱期
★耳悪しく短歌生き甲斐なるわれの短歌を容易く選歌をするな
★選歌するときは心を込めてせよ心を込めて作りし歌の
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今日の記事は鬱のせいで普段以上にきつい文章になったかもしれないから先程フォロワーさんのところで拝見した「朧月夜」の歌詞を貼り付けて締めくくらせていただきます。
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菜の花畠(ばたけ)に 入り日薄れ見わたす山の端(は) 霞(かすみ)ふかし春風そよふく 空を見れば夕月(ゆうづき)かかりて におい淡(あわ)し
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