一条きらら 近況

【 近況&身辺雑記 】

2本の日本映画

2010年03月16日 | 最近のできごと
 昨年、日本映画を2本観た。洋画ばかり観ている私にしては、珍しいことである。日本映画は観る気がしないからだ。一昨年も、その前年も、日本映画は1本も観ていない。4年前に溝口健二生誕100周年記念特集を、NHK衛星映画劇場で観たのが最後である。溝口健二監督は、私が唯一、大好きな日本人監督であり、ずっと以前から多く観ている。
 久しぶりに観た日本映画の1本は、野村芳太郎監督作品を連日、WOWOWで放映していた時で、以前に観た『影の車』を観た。野村芳太郎監督はわりと好きな監督で、かなり多く観ている。
 その『影の車』を再度、観てみたら、初めて観た時と同じぐらいの感動を味わった。原作が松本清張で、脚本が橋本忍だから、ストーリーと脚本の面白さはもちろん、主演が加藤剛、岩下志麻、小川真由美と高レベルの演技派キャストである。キャストや原作が良くても、やはり映画は監督次第。あらためて『影の車』を観て、野村芳太郎監督の名作と言える映画だと思った。
 もう1本は、やはりWOWOWで観た『感染列島』。新型インフルエンザ騒動のころだったし、主演キャストを見て気乗りしなかったが、佐藤浩市の演技に興味を持って観たのだが、予想どおり期待はずれだった。中断しないで最後まで観たのは、
(最近の日本映画って、こういう映画なのね)
 と、また当分、日本映画は観ないことになると思ったからだった。
 市立病院の救急救命医。劇症新型インフルエンザ。WHOのメディカルオフィサー。興味深いテーマと素材だった。
 けれど、ストーリー展開は先が読めてしまうほど、意外性がなく、全編のセリフが陳腐過ぎ、佐藤浩市を除くキャストたちの下手な演技に驚愕させられ、
(これが映画なの? 嘘でしょう)
 と、唖然とさせられ、茫然とさせられたほどだった。野村芳太郎監督作品『影の車』と、何から何まで、すべてが対照的である。
 ところどころ映像を見ながら、私の頭の中に会話のセリフが、瞬間的に湧き出るようにして、そのキャストが口にしそうな陳腐なセリフが浮かんだ。
 すると、一語も違わず、そのセリフが次の瞬間、キャストの口から出るのである。そんな箇所が、何箇所もあった。
 たとえば、ヒロインが死の間際、駆けつけて来た主役の救急救命医の顔を撫でるシーンを見た時、
 ──この顔、好きだった──
 という言葉が、私の頭の中に浮かんだ次の瞬間、ヒロインの口から全く同じセリフが発せられ、
(ほらね!)
 と、呟くことになる、そんなシーンが少なくなかった。この顔、好きだった、というセリフが陳腐かどうかは主観によるけれど、これが小説に出てくる言葉なら陳腐には感じないと思う。そのセリフを口にする声も口調も顔も表情も、すべて活字の文章だけで想像しながら読んでいくのが小説だからである。
 けれど、キャストの顔やしぐさの映像も見せ、声も口調も聞かせてしまう映画では、陳腐としか言いようがない。脚本家でもない私が映像を見て浮かぶ陳腐なセリフのやり取りに、面白さも感動も味わえるはずがない。
 また、私にとってこの映画のつまらなさは、人物たちの<心理説明>と<感情説明>をし過ぎてしまっていることだった。観ている人間の想像力を全く刺激しないのだ。ヒロインが涙を滂沱(ぼうだ)と流す顔のアップ映像が数十秒間続いた時など、マイ・テレビが故障したのではないかと思ったほどだった。
 一昨年、久しぶりに見たテレビの連ドラで、末期ガン医師が故郷に帰り、肉親や友人のやさしさに触れて、やはり涙を滂沱と流す顔のアップ・シーンが何度も映った時、韓国ドラマの真似か影響と思ったものだが、この映画でも全く同じだった。
 たとえば韓国ドラマ『冬ソナ』で、毎回毎回、男も泣く女も泣く老いも若きも誰もかも涙を滂沱中の滂沱と流すシーンが繰り返し出てくるのは、言ってみれば、お国柄ではないだろうか。韓国と日本は違うのに、『冬ソナ』が受けたからといって、その真似をする能のなさには呆れさせられる。
 たとえば人物を後ろ向きに立たせ、顔を見せず、涙用目薬も使わず、さりげないしぐさで泣く演技をさせる。難しいが、それが俳優の演技だと思う。目薬を垂らした顔のアップ映像のどこに演技があるのだろう。そのキャストの演技のかすかなしぐさと静止した後ろ姿だけ見て観客は、ああ、きっと泣いている、声を抑えて泣きじゃくっている、何て深い悲しみだろうと胸が詰まって涙が出てくる。
 泣くのは観客である。キャストが涙用目薬で延々と泣いていたら、観客は醒める、シラケる、泣けない、退屈でアクビが出ると言いたくなる。
 私が好きな映画は、人物たちの<心理説明>と<感情説明>をしないで、それらを想像させてくれたり、想像力を刺激してくれるような映画である。『影の車』はそういう映画で、もう全編、感情を揺さぶられどおしになる。うれしくて、もどかしくて、幸福で、不安で、寂しくて、怖くて、逢いたくて、愛しくて、恋しくて、せつなくて、悲しくて、哀れで──。
 演技力抜群の俳優たちの、無駄な<心理説明>や<感情説明>の映像は一切ないのに、観ている私の胸いっぱいに熱い感情がこみあげ、涙があふれそうになる。
 けれど、それはキャストの演技力や表現力と、脚本家と監督の才能の違いなのだから、無い物ねだりと言えるかもしれない。
 それと、想像力欠如か不足の観客にとっては、<心理説明>と<感情説明>のシーンがなくては、その映画を理解できないと言えるかもしれない。
 私は想像力豊かなタイプの人間。映画だけでなく小説も音楽も絵画もすべて想像力を刺激してくれる世界でなくては、面白くも何ともないし感動も味わえない。
 また、私がわりと好きな佐藤浩市が演じる先輩医師が、劇症新型インフルエンザに感染してしまい、死の間際にベッドで、 
「死が怖い、あれほど死を見て来たのに、死ぬのが怖い」
 と、自己心理と闘っている時に、後輩医師が、
「そんなこと言わないで頑張って下さい、ほら、奥さんとお嬢さんも来てますから」
 と、陳腐なセリフを口にした時、佐藤浩市が演じる先輩医師が頭を持ち上げ、ガラス窓越しに妻と娘を眼にした瞬間、衝撃のあまり死んでしまう、このシーンが私は一番印象に残った。後輩医師は、内心、先輩医師の死を望んでいたのだろうかと想像させられたほどだったし、まるで、お笑いバラエティみたいなシーンに見えた。
「死が怖い、あれほど死を見て来たのに、死ぬのが怖い」というセリフは、死を直前にした医師らしくてリアリティがあるし、医師が死を怖れる時の心理や感情を想像させる。
 それなのに、死が迫った人にではなく、闘病中の患者に言うみたいな陳腐なセリフで、自己心理との闘いから現実に引き戻した先輩医師を、まるでショック死させなければならない必然性がどこにあるのかと、私はずっと気になって、後輩医師と先輩医師の私情か対立関係か何かが後(のち)にわかるための伏線なのかと思ったほどだった。
 それでも、ただ1箇所、中盤近くで、無名の研究者に主役救命医が箱に入った研究材料を秘密裡に渡すシーンで、無名研究者が「本当にいいのか、これは犯罪だよ」と受け取るところは、少し面白くなるかもと少し期待したけれど、そうならなかった。  
 後半は、ドラマ仕立てのPRビデオみたいだと思った。
(これが最近の日本映画なのね。想像力欠如か不足タイプのスタッフが作った、想像力欠如か不足タイプの観客に受けるドラマ)
 題材は面白そうだったが、日本映画の欠点ばかりが眼につく駄作中の駄作と言えるような気がした。
 予想通り期待はずれの日本映画を観て、
(これが映画館で観たのだったら、チケット代、返してと言いたくなるわ)
 あまりにもお粗末な映画を観て時間を無駄にした腹立たしさに、そう呟いた。
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