市ヶ谷のマザー・テレサというサブタイトルを見ただけで、きっと素晴らしい女性と感じた。マザー・テレサの人生について本で読んだ時、この世に、こんな偉大な女性がいるなんてと感動したからである。
訪問看護師の秋山正子さんの仕事に密着したドキュメンタリーで、マザー・テレサという女性の存在を知った時と同じぐらい感動した。
私には、秋山正子さんのような生き方はとてもできないと思った時、自分の存在が小さく感じられるほどだった。
<プロフェッショナルの道具>の1つとして、キャップに穴を開けたペットボトルを、在宅ケアの時の患者に使うシャワー代わりにしていると、見せられた時は驚きもしたし、感心させられた。
患者の病気、患者の生命、患者の苦痛、患者の喜び、患者の安らぎ、患者の人生の終焉を、秋山正子さんは見つめているのだと思った。そして、その精神力の強靱さを感じさせられた。
訪問看護師という仕事の厳しさは、きっと、私の想像を絶するもののような気がした。自宅にいても携帯電話に連絡が入り、患者の家へ飛んで行く。他の断片的な映像からも、秋山正子さんがくつろぐ時間がどれほどあるのだろうと思うと、大半の人にはとてもできない仕事だと思った。一般の医療従事者には趣味を楽しむ休日があるのに、秋山正子さんにはあまりないのかもしれないと、同情というより心から敬服させられたし、尊敬したくなった。
看護師さん、という言葉からは、母性と慈愛と、やさしさの塊(かたまり)というイメージがある。
だから、現実に、特定健診の際、採血されたり測定されたりする時に会うと、その後で、
(あの看護師さん、どうして、もっとやさしくしてくれないのかしら)
(看護師さんなのに、ちっとも、やさしくない女性だわ)
(どうして、あんなに冷たくて素っ気ないのかしら)
などと、いつも不満を感じてしまう。言葉使いは、まるでデパートの店員みたいに敬語も使うし丁重である。けれど、私のイメージと全く違って、少しもやさしくない人ばかりなのだ。そのことを、いつか姉と話していて、被害妄想よとか看護師さんてストレス溜まる仕事だから仕方ないのよとか言われたけれど、本当に私はやさしい看護師さんに出会ったことが一度もない。風邪であれ検査であれ、病医院へ行く時、医師のことより、
(ここ、やさしい看護師さん、いるかしら)
真っ先に、そう思う。病院も内科医院も、医師に対して不満を持ったことは、あまりないが、
(どこかに、やさしい看護師さん、いないかしら)
本当に私は、いつも、そう思ってしまう。もちろん、すべての看護師さんがやさしくないとは言わない。たまたま、私はやさしい看護師さんに出会っていないのだと思う。まるでデパートの店員かパート店員みたいな看護師さんしか出会ったことがないのである。
私がイメージする看護師さんは、母性と慈愛と献身とやさしさの塊のような人である。
このテレビ番組で訪問看護師の秋山正子さんの仕事ぶりを見て、看護師さんとしてやさしいだけでなく、何て知性的な女性、頭の良い女性かと発見したような思いがした。もちろん、看護師という仕事は、学ぶことや覚えることが多くあるし、資格取得の試験も難しそうだし、知性がなければできない仕事だと思う。
訪問看護師のパイオニアということも、本当に勇気のある女性だと感心させられる。知性と、行動力と、聡明さと、献身と、決断と、機転と、勇気と、忍耐力と、強靱な精神力と、パワフルな体力を、秋山正子さんは人一倍持ち合わせている女性なのだと思った。
そして、それらの原動力こそ、マザー・テレサのような芯の強さ、強靱な精神力のような気がした。やさしいだけが看護師さんではないのだ。やさしさは、あって当たり前というか、その人間性の中に、生来、あるものなのかもしれない。
テレビの映像からは、患者に対して特にやさしくする様子や態度がそう多く見られなかったのは、カメラを意識していた気配がうかがえるし、ふだんの秋山正子さんの本物のやさしさは、患者に通じるやさしさで、第三者にわかるようなやさしさとは違うものなのだと感じた。
患者の病気、患者の苦悩、患者の喜び、患者の安らぎ、患者の心理、患者の幸福、患者の生命、患者の人生の終焉を、マザー・テレサのように慈愛に満ちたまなざしで見つめていた、本物のやさしい心を持つ看護師の秋山正子さんに、私は心から敬意を表したくなった。
訪問看護師の秋山正子さんの仕事に密着したドキュメンタリーで、マザー・テレサという女性の存在を知った時と同じぐらい感動した。
私には、秋山正子さんのような生き方はとてもできないと思った時、自分の存在が小さく感じられるほどだった。
<プロフェッショナルの道具>の1つとして、キャップに穴を開けたペットボトルを、在宅ケアの時の患者に使うシャワー代わりにしていると、見せられた時は驚きもしたし、感心させられた。
患者の病気、患者の生命、患者の苦痛、患者の喜び、患者の安らぎ、患者の人生の終焉を、秋山正子さんは見つめているのだと思った。そして、その精神力の強靱さを感じさせられた。
訪問看護師という仕事の厳しさは、きっと、私の想像を絶するもののような気がした。自宅にいても携帯電話に連絡が入り、患者の家へ飛んで行く。他の断片的な映像からも、秋山正子さんがくつろぐ時間がどれほどあるのだろうと思うと、大半の人にはとてもできない仕事だと思った。一般の医療従事者には趣味を楽しむ休日があるのに、秋山正子さんにはあまりないのかもしれないと、同情というより心から敬服させられたし、尊敬したくなった。
看護師さん、という言葉からは、母性と慈愛と、やさしさの塊(かたまり)というイメージがある。
だから、現実に、特定健診の際、採血されたり測定されたりする時に会うと、その後で、
(あの看護師さん、どうして、もっとやさしくしてくれないのかしら)
(看護師さんなのに、ちっとも、やさしくない女性だわ)
(どうして、あんなに冷たくて素っ気ないのかしら)
などと、いつも不満を感じてしまう。言葉使いは、まるでデパートの店員みたいに敬語も使うし丁重である。けれど、私のイメージと全く違って、少しもやさしくない人ばかりなのだ。そのことを、いつか姉と話していて、被害妄想よとか看護師さんてストレス溜まる仕事だから仕方ないのよとか言われたけれど、本当に私はやさしい看護師さんに出会ったことが一度もない。風邪であれ検査であれ、病医院へ行く時、医師のことより、
(ここ、やさしい看護師さん、いるかしら)
真っ先に、そう思う。病院も内科医院も、医師に対して不満を持ったことは、あまりないが、
(どこかに、やさしい看護師さん、いないかしら)
本当に私は、いつも、そう思ってしまう。もちろん、すべての看護師さんがやさしくないとは言わない。たまたま、私はやさしい看護師さんに出会っていないのだと思う。まるでデパートの店員かパート店員みたいな看護師さんしか出会ったことがないのである。
私がイメージする看護師さんは、母性と慈愛と献身とやさしさの塊のような人である。
このテレビ番組で訪問看護師の秋山正子さんの仕事ぶりを見て、看護師さんとしてやさしいだけでなく、何て知性的な女性、頭の良い女性かと発見したような思いがした。もちろん、看護師という仕事は、学ぶことや覚えることが多くあるし、資格取得の試験も難しそうだし、知性がなければできない仕事だと思う。
訪問看護師のパイオニアということも、本当に勇気のある女性だと感心させられる。知性と、行動力と、聡明さと、献身と、決断と、機転と、勇気と、忍耐力と、強靱な精神力と、パワフルな体力を、秋山正子さんは人一倍持ち合わせている女性なのだと思った。
そして、それらの原動力こそ、マザー・テレサのような芯の強さ、強靱な精神力のような気がした。やさしいだけが看護師さんではないのだ。やさしさは、あって当たり前というか、その人間性の中に、生来、あるものなのかもしれない。
テレビの映像からは、患者に対して特にやさしくする様子や態度がそう多く見られなかったのは、カメラを意識していた気配がうかがえるし、ふだんの秋山正子さんの本物のやさしさは、患者に通じるやさしさで、第三者にわかるようなやさしさとは違うものなのだと感じた。
患者の病気、患者の苦悩、患者の喜び、患者の安らぎ、患者の心理、患者の幸福、患者の生命、患者の人生の終焉を、マザー・テレサのように慈愛に満ちたまなざしで見つめていた、本物のやさしい心を持つ看護師の秋山正子さんに、私は心から敬意を表したくなった。