以前、熟年男性の編集者とアルコールを飲みながら、官能小説のベッドシーンについて話をしたことがある。
現実には、行為中の男女はペチャクチャ喋らないけれど、小説では、会話を入れて読者に性的な昂奮と想像を刺激させなければならないというようなことを話していた。
「そうですよね、現実にはアノ時って、一言も発しないですからね」
と、熟年副編集長の彼が言うので、
「ええっ、一言もですか?」
驚いて、そう聞き返したら、
「何か、言ったりするんですか?」
彼のほうも驚いて、さらに聞き返してくる。
「ほんの少しは……」
さすが恥ずかしくなって、そう答えた私に、
「それは、きみは若いからね」
彼はそう言って、ビールのグラスを傾けながら、アノ時どんなことを私が言うのか想像するような眼になった。
私が若いわけではなく、体験とか好みとか習慣の問題と言えるような気がする。
私が書く小説のベッドシーンほど多くの会話のやりとりは、現実にはないが、夢中になって短い言葉ぐらい口走ってしまうのが一般的ではないだろうか。
たとえば、「いい」とか「もっと」とか「いや」とか「好き」とか「愛してる」とか「いきそう」とか……。
相手の名前や、淫らな言葉も、つい、夢中になって口走るということは、よくあるのではないかと思う。もちろん、喘ぎや、呻き声混じりに、という感じだけれど──。
最初から最後まで、ずっと無言のまま、ひたすら体を動かし続けるなんて、まるで生殖行為的セックスみたいに感じられてしまう。
たまには、シチュエーション作って、未亡人ごっことか、ナースと患者ごっこなどの、〈ごっこ遊び〉の時は、アドリブのやり取りに、つい噴き出してしまったりすることもあるけれど、それもまた、面白くて楽しいセックスの言葉のやり取り遊びである。
サドっ気もマゾっ気もなくても、言葉だけでSになったりMになったりの〈SMごっこ〉もまた、ちょっと刺激的で楽しい遊びで、いつもと違う燃え方したりして……。
誰も見ているわけでも聞いているわけでもない2人きりの世界なのだから、どんなやり方したって、思いきり淫らになって楽しめるセックスのほうがいいに決まっている。
さらに──。
恋人同士であれ夫婦であれ愛人同士であれ、男性は、やはり、歓喜の言葉を女性に口走らせるようなセックスをしたほうが、男らしいと言えるような気がするのだけれど──。
現実には、行為中の男女はペチャクチャ喋らないけれど、小説では、会話を入れて読者に性的な昂奮と想像を刺激させなければならないというようなことを話していた。
「そうですよね、現実にはアノ時って、一言も発しないですからね」
と、熟年副編集長の彼が言うので、
「ええっ、一言もですか?」
驚いて、そう聞き返したら、
「何か、言ったりするんですか?」
彼のほうも驚いて、さらに聞き返してくる。
「ほんの少しは……」
さすが恥ずかしくなって、そう答えた私に、
「それは、きみは若いからね」
彼はそう言って、ビールのグラスを傾けながら、アノ時どんなことを私が言うのか想像するような眼になった。
私が若いわけではなく、体験とか好みとか習慣の問題と言えるような気がする。
私が書く小説のベッドシーンほど多くの会話のやりとりは、現実にはないが、夢中になって短い言葉ぐらい口走ってしまうのが一般的ではないだろうか。
たとえば、「いい」とか「もっと」とか「いや」とか「好き」とか「愛してる」とか「いきそう」とか……。
相手の名前や、淫らな言葉も、つい、夢中になって口走るということは、よくあるのではないかと思う。もちろん、喘ぎや、呻き声混じりに、という感じだけれど──。
最初から最後まで、ずっと無言のまま、ひたすら体を動かし続けるなんて、まるで生殖行為的セックスみたいに感じられてしまう。
たまには、シチュエーション作って、未亡人ごっことか、ナースと患者ごっこなどの、〈ごっこ遊び〉の時は、アドリブのやり取りに、つい噴き出してしまったりすることもあるけれど、それもまた、面白くて楽しいセックスの言葉のやり取り遊びである。
サドっ気もマゾっ気もなくても、言葉だけでSになったりMになったりの〈SMごっこ〉もまた、ちょっと刺激的で楽しい遊びで、いつもと違う燃え方したりして……。
誰も見ているわけでも聞いているわけでもない2人きりの世界なのだから、どんなやり方したって、思いきり淫らになって楽しめるセックスのほうがいいに決まっている。
さらに──。
恋人同士であれ夫婦であれ愛人同士であれ、男性は、やはり、歓喜の言葉を女性に口走らせるようなセックスをしたほうが、男らしいと言えるような気がするのだけれど──。