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海老名市温故館(海老名ノスタルジア)と海老名市の発展

さて11月16日水曜日、海老名市温故館という展示館に行ってきました。
企画展を開催しているという話を聞きつけて行ってみることに。

海老名駅からビナウォークの終端部に向かい更にその先。坂道で丘陵地に上りといった感じで、海老名駅から徒歩15分弱ぐらいで到着です。



印象的な広々した相模国分寺跡地。この相模国分寺跡地と道路を挟んだ向かいにあるのが海老名市温故館。

住所としては「海老名市国分南1丁目6番36号」
年末年始休み、開館時間は9時~17時15分



この温故館の建物は大正時代に建てられた海老名村役場の建物。
その後、1982年から郷土資料館として利用されたものの老朽化と耐震補強の為に2006年に閉館。2011年に現在の場所に耐震補強とリノベーションを行ない移築。といった流れのようで。
また相模国分寺など郷土資料の収集・展示などは大正時代から展示場所の移転を繰り返しながら行なわれているそうです。

実のところ海老名にこういう展示館があるというのは今回まで全く知らなかった・・・



現在は「海老名ノスタルジア」という企画展が開催されています。(10月25日~12月25日)
実のところ、この写真のような昭和の時代の貴重な海老名駅などの写真が見れるものだと思って今回来たのですが、写真展示はこれ以外には+α程度。
期待は裏切られたとはいえ色々収穫があったので行ってよかったですが・・・。

1階は歴史展示コーナー。
古代から近世までの海老名の歴史資料、発掘調査の出土品が展示されています
海老名の地は有力な豪族が収めていたことが推察される要衝であったそうで、歴史上では重要な発見が数多くされているよう。



秋葉山古墳群。3世紀後半から4世紀にかけての
3世紀と言えば、中国では三国志時代。日本が魏志倭人伝に登場し卑弥呼が活躍していたといわれる時代。

他にもう少し前の縄文・弥生時代の土器など出土品も展示されています。海老名の地は丘陵地の高台の上に位置し当時住みやすい場所だったようで・・・。



こちらは奈良時代に聖武天皇の詔で全国に建立された国分寺の1つ。相模国分寺の100分の1の模型
法隆寺形伽藍を擁しかなり大きなものだったようで、温故館の前の広い公園のようになっているところが跡地。

ビナウォークの中庭(海老名中央公園)に相模国分寺の七重の塔の1/2に復元したものが建っていますが、とても1/2とは思えない、奈良時代の建物とは思えないような大きさです。

国分寺の瓦は町田方面の他に松田。また三浦など相模の国各地から調達されたよう。まだ瓦が珍しかったこの時代、瓦が造れる。というのが地方豪族の力の一つでもあったよう。



これは相模国分寺の発掘調査で発見されたという金銅製水煙。これはなかなかの貴重品だそう。

他に少し離れた相鉄線の北側に国分尼寺跡地があって、前述の秋葉山古墳群、国分寺、国分尼寺の3つは国指定の史跡となっているそう。


さて2階に上がり



2階は明治から昭和の高度成長期の頃までの、農業が海老名の主な産業だった時代の生活が偲ばれる展示がされています。



今回の「海老名ノスタルジア」の目玉??
1956年(昭和31年)に海老名町の農家で収録された教育映画「おかあさんのしごと」の上映が1日2回行なわれています。(10時30分と14時)
冬のある日の農家のお母さんの一日の仕事を追った30分の映像から、昭和30年代前半の農家の暮らしが描かれています。



この当時、まだ照明電球以外の家電製品も上水道もない生活。井戸水とかまどの火で料理を作り、昼は冬場ながら農作業で縄を編んだり・・また庭では牛を飼いといった戦前の時代とさして変わらないような「となりのトトロ」の時代の生活。



展示資料から登場した農家は10年前後の後に取り壊されたことが推測されます。この一家はその後も農家を続けたのか、それとも勤め人に転職したのかそこはわかりませんが、高度経済成長の前の時代の海老名の生活を知る貴重な映像資料でした。

この映像1日2回しか上映されないのは残念。訪問者もそう多くなさそうなので、観覧希望者がいれば毎時00分から上映。みたいな形にすればいいのに。と思います。私が見た14時の回も私ともう1人だけ。といった状態で・・・
私は偶然に13時40分ぐらいに温故館に着いたので偶然見れたような。


さて海老名は高度経済成長の時代に入り変貌を遂げていきます。



1980(昭和55)年の海老名の航空写真
この時代、ビナウォークは当然ながらダイエーや現イオンなどの姿もなく、海老名駅前はロータリーや駅前広場あるだけ。駅周辺は旧海老名市役所以外は広大な駐車場が広がっているような、とてもターミナル駅の駅前とは思えない閑散とした状態なのが見てとれます。

住宅地はこの温故館や国分寺跡地がある丘陵地の下~丘陵地上。または厚木駅周辺。更に郊外の国分寺台方面に広がっていったよう。
写真中央右辺り(わかりづらいですが)には高度経済成長以降の時代に開発された新興住宅地が広がっているのがわかります。駅前の閑散ぶりとは対照的に駅から離れた場所では既に住宅・団地開発がだいぶ進んでいたこともわかります。

この後、市役所は現在の場所に移転(旧市役所はオークラフロンティアホテルの場所)。ダイエーや現イオン(旧ニチイ・ジャスコ)のオープン。1987年の相模線のJR海老名駅開業。などを経て少しずつ今の海老名駅前が形作られ、2002年のビナウォークオープンで現在の姿になります。

海老名の駅前周辺は町田・相模大野・本厚木といった、自然発生的に作られてきた周辺のターミナル駅とは異なり、明らかに人工的に計画的に作り上げたかのような、シンガポールや香港の郊外の住宅地区を思わせるような街になっています。


一方で遅咲きの海老名の駅前開発に反して、海老名市の市制が施行されたのは1971年(昭和46年)。海老名駅周辺の開発の進展を考えると早すぎるともいえる時期の市制施行です。
これはまさに海老名が郊外の住宅開発からはじまり、最後に駅前周辺を開発した海老名の街の歴史を物語っているといえるでしょう。

温故館の係員の方の話では市制が施行された頃の時代、国分寺台など郊外の団地開発などが進み人口が急増。学校の開校も相次ぎ各地から先生が集められたそう。
「横浜から30分。新宿から50分」といった文句に期待を膨らませて着任した先生は、海老名駅前の閑散ぶりに驚き、特に地方から来た若い女性の先生の中には、想像に絶する田舎ぶりに落胆に泣き出してしまう人もいたとか・・。

戦後の海老名の都市開発は、高度経済成長直前の「おかあさんのしごと」の時代→郊外の宅地開発が進み人口急増し市制施行→海老名駅周辺に開発の兆候が見られた昭和末期~平成初め→ビナウォーク開業(2002)→ららぽーと開業(2016)と海老名駅西口開発への着手と段階を経て今に至る流れを整理できました。


といったところで、小規模ながら海老名の歴史に触れることが出来た「海老名市温故館」訪問でした。
急激な人口増加、宅地開発には、通勤先となるべく市内・周辺の企業・工場進出もセットにあったはず。そちらに関しては展示では触れられていませんでしたが、こちらは今後も調査課題といったところですね。

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2016/11/18 00:23(JST)
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