引き続き放送大学神奈川学習センターで11月19日~26日にかけて開かれた面接授業「海事産業と神奈川」。今回は11月26日午後の実地授業を紹介します。
午前の講義を早めに切り上げて、12時40分頃に弘明寺の神奈川学習センターで一時解散。各自で昼食兼移動して14時に桜木町駅近くランドマークタワー横の日本丸メモリアルパークにある横浜みなと博物館のロビーに集合します。
午後は帆船日本丸とみなと博物館の見学。入場料の600円(65歳以上の400円)は午前中の最後に教室で事前に徴収。先生が一括して支払う形に。人数が1人足らなくて団体料金にならない。という惜しい状態です。
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まずは日本丸の見学からスタート。博物館のロビーで日本丸のキャプテンの飯田船長から概要の解説。実習生時代に旧海王丸に乗船していた他に、その後も日本丸・海王丸、現代の(新)日本丸・海王丸にも士官として乗船していたそうで・・
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概要説明の後に早速日本丸に乗船して、飯田船長の案内で船内見学となります。
当日は約20人の団体で見学。この記事で紹介するのに十分な写真が撮れなかったので、一部を除き後日再度訪問して撮影しています。
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みなと博物館側のタラップから乗船したところが長船尾楼甲板。この甲板で海面からおよそ5mほど。また日本丸の喫水は約5.3m程度
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日本丸の構造としては船首楼甲板・長船尾楼甲板の下に実習生教室や船長室などの士官室がある上甲板。さらにその下の第2甲板に実習生居住区。更にその下に第3甲板に機関室や船倉などがある。という構造。
日本丸の船長は舳先に突き出している部分も含めて97m幅は13m。マストの高さは水面から46m。
高いマストの影響か存在感あるように見えますが船の大きさとしては意外に小さい。これで太平洋を横断してハワイやアメリカまで渡るというのは凄いですね。
現在の日本丸は長さは110m・幅は13.8mだそうで思ったよりも小さいようで・・・。
マストの柱は船底まで貫通しているそうです。
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こちらがブリッジ。元々は屋根がなかったものの後年に設置されたそう。
正面の蛇輪は機走用のもの。ブリッジ右前には機関室に指令を伝えるエンジンテレグラフ
この写真には写っていないですが伝声管もありました。何処に通じてるのかな??
コンパスが2種類あるのが特徴的ですね。それぞれの意味の説明もあったのですが・・・
ちなみに保存されている旧・日本丸(海王丸も)では当初は大洋上など7割が帆走。港内など細かい操船が要求される狭い海域など3割が機走(エンジン使用)。末期は逆に3割帆走、7割機走だったそう。
帆走時の速力は5~6ノット程度。意外に遅いです
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こちらが錨
船の錨にも色々な種類があるものの、この日本丸のものはかなり原始的なもののようで・・。錨を下ろすとき、上げる時ともに人手と技術を必要とするそうで・・・。
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飯田船長によるロープを解いて結ぶ実演も・・・
船でのロープの結び方で重要なのは「(勝手に)ほどけにくく(必要な時に)ほどきやすい」だそう
写真中央にある窓のような部分は荒波を被った時などに水を排水する為のものだそう
下の第2甲板に降りて実習生居住区を見学。
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船室の奥行きに較べて中央部の通路の広さが印象的ですね。単なる通路としてだけでなく大広間のように使われていたのかも??
中央の柱は船底まで貫通しているというマストの柱
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こちらは実習生の船室。8人1部屋
昭和初期の設計で今の高校生程度の年齢の実習生を想定していたそうで、晩年は実習生の身体が大きくなりベッドの長さも足りなかったそうで。一部のベッドは長さを延長する加工をしているそう
ベッドの幅はかなり狭いですが、中央の通路が妙に広いのが印象的ですね。
ちなみに後ほど見学する士官エリアもベッドの狭さ自体はあまり変わらない印象です。
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エンジンルームには入れないので、下甲板の吹き抜けから見下ろす形で・・。こちらのエンジンは国産第一号の船舶用ディーゼルエンジンでかなり貴重なものだそう。また稼動期間の長さでギネスブックに載ったこともあるそうで。
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第一教室。実習生が座学で講義を受ける他に食堂としても利用。実習生達には憩いの場だったそうで・・。
航海中は当直で交代制で食事を取るものの、港などへの停泊中は食事時間は全員一斉。席数が足りないので時間差などで対応していたそう。
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こちらに調理員室
船室の各所に花毛布が展示されています。
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船長公室。港に寄港した時にゲストを迎える応接間として。航海中は会議室のようにも使われてたそう。
ちなみに船長は特別待遇で公室の他に私室。船長専用の浴室とトイレもあります。
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士官サロン
先ほどの第1教室が実習生の憩いの場であったようにこちらは士官の憩いの場。時にはお酒を飲んで盛り上がることもあったとか・・。サロンの横にも3等航海士室など居室もあります。時にサロンの盛り上がりに「五月蝿くて寝れない・・ゾ」みたいなこともあったそうですが、士官の中でも階級が低い3等航海士、文句も言えず・・。ということもあったとか。
長船尾甲板に戻ってきて、船尾に設置されている帆走用の蛇輪。
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蛇輪は1回転で1度。左右ともに35度ぐらいまで舵が切れるそうで。
前後に2枚蛇輪があるのは波が荒い時など蛇輪が重い時は前後に各2人ずつ4人で回したそうです。
フードのような屋根がかかっているのは後ろからの波に洗われて操舵手が流されないようとのことだそう。
帆船の蛇輪は船尾にあることが多いのは帆走時に帆の様子が分かりやすいことや、舵を操作する為の機構上の問題があるそうです。
世界の中でも実習船に帆船を保有している国はそう多くはないものの、国によっては海軍で実習船として帆船を保有している国もあるそう。帆船で実習することで共同作業を身体で学ぶ意味もあるそうで・・。帆船を動かすには人力作業で多くの人手が必要。1人でもサボってたらすぐわかるとか
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1時間半強ほどの日本丸の見学の次は併設のみなと博物館の見学に移ります。17時の閉館時間まで残り1時間ですが学芸員氏の案内で駆け足での見学となります。
展示館の方は館内撮影が不可なので残念ながら写真では紹介できませんが、見た目ではあまり大きな建物には見えませんが、景観に配慮して地下構造になっているので、実際には見た目以上に中は広いです。
当時の神奈川宿(京急神奈川駅の山側の辺り)は東海道の宿場街。また神奈川湊としても栄え、国内の海上物流の要衝であった。日米和親条約では米国はそこに目をつけ神奈川の開港を約束。
ペリー来航時の黒船一行は当時最新鋭の機帆船2隻に帆船2隻の4隻の軍艦でありペリーも軍人。こういった外交交渉に軍人が携わるのは異例。
またアメリカから来た。ということで太平洋を横断して来た様にイメージされるが、実際にはアフリカや東南アジアなどを経由してはるばる日本に到達したこと。
一方で幕府側は外国人と日本人の衝突を避けるなどの理由で隣の横浜を開港することに。構造など長崎の出島のような存在である関内と呼ばれる外国人居留地を設置。
米国側は神奈川ではなく横浜が開港となることに条約違反として抗議するが、幕府側は「横浜も含めたこのあたり一帯を神奈川と称する」という苦し紛れ?の理屈で通したとか。
学芸員氏曰く大人でも神奈川と横浜の違いが分からない人が多い(神奈川は県名で横浜は市の名前程度の認識)
と嘆いていましたが、これが神奈川県と称することになった由来??
開港後長らく変化がなかった横浜港だが1889年になってようやく大さん橋などの建設工事が始まり、近代港としての体裁を整え始める。その後は赤レンガ倉庫など新港埠頭建設などがおこなわれる。
ところが横浜は1923年の関東大震災で壊滅状態に。当時、横浜港停泊中の海外の外航客船などが、市民の救助、地震の速報や被害状況などの連絡に活躍。横浜の恩人である。避難民や物資の輸送などにも船が活躍。
また山下公園は関東大震災で倒壊した街の瓦礫を埋めたてて作られた。というのが定説だが今まで物証に乏しかった。実際に数年前にボーリング調査をおこなったところ、地下から陶器片など瓦礫が出土。定説が証明された。
浅野総一郎や安田善次郎など民間の事業家による工業地帯の発展。工業地帯は彼らにちなんだ地名が多い。
太平洋戦争末期の1945年に横浜大空襲で攻撃されたが、空襲された地域は住民(非戦闘員)の居住区が殆どんど。港湾や工業地帯は手付かずで残した。これは「終戦後の接収を目論んだのではないか?」ということで人道的にどうなのか・・・。実際に終戦後、横浜港の大半は米軍に接収された。
逆に日本の真珠湾攻撃では旧式の軍艦を沈没させた程度に留まり港湾施設への攻撃や破壊はおこなわなかった。この面からも、当時の日本軍側の物流やロジステックスの重要さに対する意識のなさなども含め、米国に大きく遅れを取っていたことが読取れる。
戦後復興からの戦後高度成長期に。山下埠頭や大黒ふ頭の建設。
横浜を舞台とした歌謡曲なども多く登場し「港町ヨコハマ」に。博物館では横浜をテーマとした歌謡曲の収集などもおこなっているそう。
かっては運河や港に停泊中のはしけを住居とする(住民登録できる)ことが可能だった。はしけの子供たちの為に寮を併設した小学校も作られて、平日は寮から学校に。土日ははしけの実家で過ごす。という単身赴任のようなことがあった。
1960年代からのコンテナ船時代が横浜港の大革命。
それ以前の鉄道で埠頭まで貨物を運び、船に積み替えるシステムから大転換。貨物線や操車場(高島操車場)の時代の終焉。
1990年からは大型化するコンテナ船に対応するための南本牧ふ頭の建設工事も始まる。南本牧ふ頭では直径24.5mの鋼板の円柱のようなものを使い埋め立て工事をおこなう。
また都市再開発事業として「みなとみらい21地区」の造営と建設。横浜博覧会の会場模型が展示されて非常に貴重です。横浜駅そごうからのゴンドラも再現されていてゴンドラが今はなき高島操車場の上を通過している部分には目を見張ります。
といった感じで駆け足で見学して17時の閉館時間となり解散。
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既に日没後で真っ暗
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冬は日没が早いので日本丸を見学する際は要注意。暗くなって見学しづらくなることを飯田キャプテンが心配したそうで、先に日本丸見学、後に博物館見学となったそうです。
最後に今回の講師の角先生から「みなさん卒業を目指して頑張ってください」という挨拶が
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聞くところによれば放送大学は他の通信制大学と較べても卒業率が低いという話も・・・。私のように一度大学を出ての再入学で、そもそもあまり卒業する気がない人が多いという噂も一説には聞きますが
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といったところで3日間の講義でした。前編でも書きましたが教室での講義は全体的に難しい内容が多く、放送授業の「海から見た日本の産業」など海運や国際物流に関する講義を事前に受講するなど予備知識を得ておいた方が分かりやすいかな?という感はあります。
特に船体折損の項は技術的な難しい話も多くイメージしづらい部分もありました。
講義ではテキストに収録されていないスライドが結構使われていました、私はカメラで出来るだけ撮影しましたがスライドもテキスト(図表集)の方に入れて欲しかったです。
船舶や海運では素人向けの分かりやすい本があまりない印象ですが、今回の講義のテキストは船舶や海運の入門書としても役立ついい資料となりました。(第6章の部分が準備中でないのが残念ですが・・・)
3日目の実地見学も船長や学芸員など専門家の解説があることで、個人での見学だと見過ごしがちなポイントなどにも注目することが出来てより理解が深まりました。
博物館の常設展の見学の部分は駆け足になってしまいじっくり見れなかったのは残念ですが、近日中に再び訪問して今回の解説を思い出しながら見学したいなと思います。
時間が足らず「日本郵船歴史博物館」の方は見学できなかったのは残念なところでした
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といったところで今回の「海事産業と神奈川」の面接授業。内容が濃く非常に有意義な授業でした。5月に受講した「港湾活動と社会発展」の講義ともども船舶や海運に関してますます興味が出てきましたが、実際の貨物船の船内見学などは難しいのが残念なものです。貨物船に便乗して旅行などないこともないような話も聞きますが・・・。
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2016/12/9 00:27(JST)