■見つかりましたユージン・スミスの離日写真と、映画「MINAMATA」
2021年4月21日付の私のブログで、建築家・安藤忠雄が設計した富山県高岡市福岡町にある「ミュゼ・ふくおかカメラ館」について紹介した際、写真家・ユージン・スミスが釘でサインしたオリンパスのカメラのことに触れました。
ユージン・スミスは1974年10月に熊本空港から離日、日本に再び戻ることなく米国で病没するわけですが、離日の日に水俣病支援者が撮影したスミス夫妻の写真が見つかりました。ネガはなく、預かったオリジナルプリントを私が接写したものです。下の写真がそれです。
(左から、妻のアイリーン・M・スミスと、ユージン・スミス。1974年10月、熊本空港)
たまたまですが、今年9月23日から映画『MINAMATA』(監督アンドリュ-・レヴィタス)が全国の映画館で公開されました。主演は、ジョニー・デップ、アイリーン役は父親がフランス人で、母が日本人の美波。
化学会社、チッソが熊本県水俣で引き起こした公害、水俣病をテーマに、写真家・ユージン・スミスと妻のアイリーンが、どのようにチッソと立ち向かい、取材したかをテーマーとした作品です。
日本経済新聞が、紹介記事(2021.9.22付)を書いていたので、それも添付します。
水俣病の話になりましたが、富山人にとって水俣病それ自体は、直接的には関係がありません。富山の隣りの新潟県であれば、阿賀野川流域での「新潟水俣病」が大きな社会問題になりましたが。
ただ、ジャーナリズムの世界からみると、相通じる世界があります。
それは「富山の女」を全国的に知らしめた大正時代の魚津でのコメ騒動のことです。コメ騒動といえば、当時の事件の舞台となった倉が魚津市の海岸べりに保存されています。下の写真がそれです。
(コメ騒動の舞台となった旧十二銀行の米倉。魚津市)
この倉庫横に設置されているコメ騒動の説明文には、事件が起きたのは大正7年7月とされていますが、この時の騒動は明治時代半ばから頻発していた一連の米騒動の中の大きな米騒動でした。
(魚津市に残されている米騒動の倉)
(魚津の米騒動についての説明板が、事件の舞台に設けられていました)
米騒動については、地元の新聞が相次いで報道しました。事件の概要は上記の説明を読んでください。
その説明文には大正7年7月23日のことが記されていますが、魚津ではその前後にも頻発していて、同年8月4日の高岡新報の見出しは「女軍米屋に薄(せま)る-百七八名は三隊に分かれて町有志及び米屋を襲う」の見出しを掲げ、全国の新聞に転載されました。その後の報道「狼煙揚がる県下の窮民蜂起」は発売頒布禁止処分になったのです。
一連の記事の執筆者は、高岡新報道の記者、井上江花です。
米騒動は全国に飛び火し、米騒動報道に禁止令を出した当時の寺内内閣は、9月に総辞職に追い込まれたのです。
一方、水俣病ですが、地元の熊本日日新聞が最初に報道、その後、九州ブロック紙の西日本新聞(本社福岡市)も報道に力を入れましたが、なかなか全国紙の紙面を騒がす事態にはなりませんでした。
全国的に水俣病を知らしめたのは作家・石牟礼道子のノンフィクション『苦界浄土』でした。この本に刺激されて東京などのメディアが動き出すことになります。ユージン・スミスもその一人でした。
戦後間もない時期の水俣は、東京から見れば遥か田舎、僻地でした。水俣病は「風土病」とも見られた時代だっただけに仕方ない点はあったかもしれませんが、石牟礼道子の作品がなかったら、不知火海の有機水銀中毒事件はどのように扱われたのか、と思うことがしばしばあります。 (以上)
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